第316話

 余った最後の衣装を、もどかしそうに結依はハンガーに掛けた。

「リカちゃん……」

 あとひとり。たったひとり。

 なのに、この喪失感。

 それからはもう時計を見るのが怖くて、わたしはずっと俯いていた。

 問題はリカだけじゃないの。今日はママの『蒼き海のストラトス』を歌うんだから――リカの不在と合わせて、プレッシャーが圧し掛かってくる。

 リカが間に合ってくれたら?

 わたしがママの歌を歌わなくても、今日のコンサートは成功する……?

 そんな発想が浮かぶことが恐ろしかった。

「タイムオーバーね。気持ちを切り替えていくわよ」

「う……うん」

 奏が立ちあがり、結依は力なしに頷く。

 その時になって、わたしは開演が迫ってるのを知った。

「ま、待って! もう少しだけ」

 思わず声を荒らげる。

 ママの歌から逃げたい――違う! リカの合流を信じたいから。

「あと十分……いいえ、五分だけでも! こっちに向かってるんでしょう?」

「杏さん……」

 駄々を捏ねてるだけなのは、わかってる。

 それでもわたしは諦めきれず、結依も口を挟まなかった。

 そんなわたしたちに聡子さんが、あくまで穏やかに言って聞かせる。

「あなたたちがリカさんを待つように、ファンのみなさんも今、NOAHを待ってるんですよ。杏さん、お気持ちはわかりますが」

 今も時間は刻一刻と過ぎていた。

 リカは間に合わない。

 わたしたちはリカ抜きでステージに立たなくちゃいけない。

「……はい。ごめんなさい、取り乱したりして……」

「行きましょう、杏ちゃん」

「こうなったら4人でぶちかますしかないわね」

 タイムリミットはもう過ぎた。

 わたしは結依、奏、咲哉とともに楽屋をあとにする。


 コンサートホールは照明が落ち、暗闇に包まれていた。

 でも大勢のひとの気配を感じる。ファンは今か今かと開演を待ち侘びてた。

「みんなー! お待たせっ!」

 威勢のよい結依の掛け声が、会場を沸きあがらせる。

 スポットライトが幾筋も駆け抜け、ステージを眩いほどに浮かびあがらせた。センターの結依に続いて、わたしと奏も登場し、最後のメンバーを導く。

「みんなもご存知の九櫛咲哉ちゃん! 今日が初のライブだよー!」

 おおおーっと、一際大きな歓声が起こった。

 ついに九櫛咲哉のオンステージだもの。見目麗しい咲哉が前に出て、ステージ衣装を輝かせると、ファンのボルテージは一気に上昇する。

「こんな舞台は初めてだから、どきどきしちゃうわ」

「超一流のモデルが何言ってんのよ」

 リカがいないとはいえ、結依も調子は出てきたようね。

「それじゃあ、いっくよー! 一曲目は定番の『Rising・Dance』!」

 NOAHの代表曲で弾みをつけ、流れを作る。

 『Rising・Dance』は通常バージョンのほかに、奏がアレンジしたバージョン(Ver.KA)もあった。後半でリカが合流したら、もう一方も歌う予定よ。

 しかしどちらにせよ、ダンスは5人を前提としていた。レッスンの間は夏樹さんで埋まってたところに穴が空き、フォーメーションにずれが生じる。

 奏と咲哉はハイタッチできても、わたしの相方はいなかった。ファンも当然ダンスの穴に気付き、『玄武リカはいないんだ』という空気を蔓延させるの。

 流れは徐々に悪くなりつつあった。

 インカムを通して、マネージャーの聡子さんはリアルタイムで指示を出してくれる。まだまだ場数の少ないわたしたちには、欠かせないサポートだわ。

『ツアーの開始についてお願いします』

「いよいよ始まっちゃったね。全国ツアー」

「ええ……」

 けど、わたしは上の空で、トークをろくに繋げなかった。

 すかさず奏が間を取り、咲哉も被せてくれる。

「暑い夏になりそうね。夏祭りとか、イベントも目白押しなんでしょ?」

「みんなに浴衣を着せるの、楽しみだわ。うふふっ」

 わたしのミスで――ミスが動揺を呼び、動揺はさらにミスを呼ぶ。

 結依がトチる場面さえあった。冷静な奏もフォローにまわる一方で、コンサートはだんだんとボルテージを下げていく。

 全国ツアーの初日なのに……こんな調子じゃ、玄武リカの不在ぶりに喘ぐさまを、衆目に晒すだけだった。

 ここでわたしが『蒼き海のストラトス』を歌っても、この窮地を打破するには足りないかもしれない。挽回できないうちに、時間だけが過ぎていく。

 同じことは多分、結依も痛感してた。

「そろそろ次の曲に行こっか。杏さんの……」

 コンサートは不完全燃焼。盛りあがりに欠け、ファンの数に飲まれつつある。

 こんなに重々しいムードの中で、わたし、ママの歌を歌えるの……?

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