第306話

 マネージャーの仕事を片付けてから、聡子は急ぎ足でナイトバーを訪れた。

 こういった夜の店には縁がないものの(タクトと何度か入った程度)、観音玲美子に呼び出されたのだから、拒否はできない。

 玲美子はカウンターの席で洋酒を呷っていた。

「こっちよー、聡子」

「遅くなっちゃって、すみません」

 隣の席につき、聡子は自分が飲み慣れた、数少ない酒を注文する。

「梅酒のロックで」

「少々お待ちください」

 もとよりあまり酒を嗜む性分ではなかった。それ以前に嗜好品全般を必要とせず、早朝のコーヒーくらいしか習慣になっていない。

「あなたもどう? たまにはウイスキーでも」

「明日も仕事なんですから……玲美子さんも悪酔いしますよ?」

「大丈夫、大丈夫っ。そんなにヤワじゃないもの」

 飲む前から頭が痛くなってきた。

 目の前にいる清純派アイドルが、そのキャラクター性とは裏腹に無類の酒好き。それについては諦めている。ただ、決して酒に強いわけではなかった。

 ビールしか飲めないのに、たまにこうやってウイスキーなどに手を出す。

 最悪、はこぶね荘で介抱する羽目になるかもしれない――聡子は苦笑しつつ、まろやかな梅酒に口をつけた。

「で……今日はどうしたんですか? 『ふたりで飲みたい』だなんて」

「それはねぇ……んふふ。なんでだと思う?」

 昔から観音玲美子には、気まぐれひとつで周囲を振りまわす傾向がある。先日も強引にNOAHのレッスンに混ざり、カラオケ大会を敢行してしまった。

 その時の面子が玲美子、奏、咲哉、杏。

 咲哉の破壊的音痴が玲美子に大受けしたのは、想像に容易い。しかしマネージャーの聡子としては、咲哉よりも杏のほうが気掛かりだった。

「ひょっとして……杏さんのことでしょうか」

「大当たり。ちょっとねー」

 さらに聡子は続け、玲美子の企みを暴く。

「やっぱりカラオケで、玲美子さんが杏さんに何か仰ったんですね?」

 玲美子は悪びれもせず、ウイスキーで濡れた舌を出した。

「あらら、バレちゃってた?」

「わたしにだってわかりますよ。あれから杏さん、ずっと様子が変なんです」

 明松屋杏の不調ぶりには聡子のみならず、奏や咲哉も勘付いている。

 原因ははっきりしていた。松明屋千夜の『蒼き海のストラトス』を歌うことになり、並々ならないプレッシャーを感じているのだろう。

 井上社長もそれを全国ツアーの切り札と考え、第一コンサートの目玉に据えていた。

 当然、母親の千夜を始め、音楽界の注目を集めることになる。

 それに加え、おそらく玄武リカの不在も響いていた。NOAHの結成時から関わってるメンバーとして、杏はリカの穴を埋めようと気負っている。

「真面目なかたですから。その分、誰よりも責任感が強くて……」

「優等生の弱点ってわけね」

 このタイプは失敗や不都合を、とにかく『自分のせい』と考えがちだった。言い訳ばかりで責任逃れをしたがるパターンとは、逆と言える。

 玲美子はすべてを白状した。

「カラオケで私が『蒼き海のストラトス』を歌ってやったのよ。それが相っ当、ショックだったみたいね。歌えるひとはほかにもいるんだー、って」

「ああ……なるほど」

 かの『蒼き海のストラトス』は難曲ゆえ、松明屋千夜でしかまともに歌えない、と畏怖されている。ところが、それを観音玲美子はカラオケの乗りで歌いきった。ただでさえ己の実力に懐疑的だった杏が、自信を喪失するのも当たり前だろう。

 玲美子は歯に衣着せずに言ってのける。

「ああいう子が嫌いなのよ、私」

「穏やかじゃありませんね」

 聡子としては杏をフォローしたいものの、ひとまず聞く体勢に入った。

 観音玲美子は理由もなしに他人を嫌ったりはしない。辛辣な言葉を遣いこそすれ、そこには必ず思いやりが隠れている。

「だって、そうでしょう? オペラ歌手になりたいなら、さっさと実業団にでも入って、やればいいじゃない。なのにお母さんの名前を借りるだけよ?」

 一点の曇りさえない正論だった。

 さらに玲美子はNOAHのメンバーを次々と挙げ、まくし立てる。

「結依ちゃんはまだ未知数にしても。リカちゃんはNOAHを弾みにして、業界に戻ってきたし、咲哉ちゃんもモデル業とデザイナー業の両立を見据えて、しっかり力をつけてるじゃない? 奏ちゃんだってね、ちょくちょく旭んとこに通ってるのよ」

「奏さんが……あ、曲のことで?」

「ええ。ダンス曲として、どうかってね」

 メンバーのひとりひとりが、確固たるプロ意識を持つこと。それこそがNOAHの強みであって、ファンからも熱烈に支持されていた。

 にもかかわらず、明松屋杏は目立った行動を起こしていない。

「今のままじゃ、あの子だけ置いてきぼりにされるわよ? 五年後、十年後……玄武リカや九櫛咲哉は芸能界に残ってても、明松屋杏は消えてるかもしれない」

「……」

 何も答えられず、聡子は口を噤んだ。

「あの棒読みだっていい加減、矯正しないと。オペラは『歌劇』でしょう?」

「仰る通りです……」

 NOAHのメンバーでもっとも窮地に立たされているのは、明松屋杏。

 だからこそ、玲美子はあえて彼女を挑発し、刺激した。

「もう高三なんだし、これで終わるようなら、その程度ということよ。明松屋杏が母親の厚い壁を乗り越えられるか、どうか……見せてもらおうじゃないの」

「まったく……意地悪ですね、あなたは」

「あら? 優しさの裏返しだってば」

 明松屋杏が女王様に目をつけられたのは、幸か不幸か。

 氷だらけの梅酒に視線を落としつつ、聡子は胸の内を吐露した。

「正直に言いますと……私は、杏さんに『蒼き海のストラトス』を歌って欲しくないんです。あれを歌う限り、杏さんはずっと、お母さんと比較されるわけですから」

「確かにね。どんなに上手に歌っても、世間は『明松屋千夜の娘』としか見ないわ」

 おそらく杏自身、偉大すぎる母親の存在を重荷に感じ、歌えずにいる。

「なら、あなたはどうするの?」

 NOAHのマネージャーはぐいっと梅酒を飲み干した。

「――覚悟は決まりました。わたしにだって、できることはあるんです」

「そりゃあ、何かひとつくらいはできる立場だものね、あなた」

 自分は彼女たちと一緒に歌えるわけでも、踊れるわけでもない。しかしマネージャーだからこそ、サポート面で貢献できるはずだった。


 翌日は朝一番でVCプロの社長室を訪れる。

 その意志を伝えると、井上社長は怪訝そうに眉を顰めた。

「本気なの? 聡子。口で言うほど簡単な話じゃないのよ、それは」

「わかってます。でも杏さんのために、やりたいんです」

 聡子は背筋を伸ばし、はきはきと続ける。

「杏さんに……いえ、NOAHに必要なのは『蒼き海のストラトス』ではありません。私はNOAHのみなさんに、ツアーのステージではあの曲を歌って欲しいんです」

 しばらくの沈黙が流れた。

 井上社長は溜息をつくと、椅子にもたれなおす。

「まあ、あの曲なら練習も、奏と咲哉だけで済むでしょうね。でも、そこまで評価の高い曲ではないのよ? 拘らずに、新曲を用意するほうが賢明じゃないかしら」

 社長の言うことは何も間違っていなかった。

 聡子が推す曲には練習面のメリットこそあれ、話題性は低い。今さら引っ張り出してきたところで、ファンを驚嘆させるには至らないだろう。

 それでも聡子は誠心誠意、頭を下げる。

「お願いします! 私にやらせてください。必ず権利関係を洗ってみせますので」

「あなたの勉強にはなる、か……。それに杏が『蒼き海のストラトス』を歌えなかった場合の、保険にもなるわね」

 社長は怜悧な表情のまま、入社二年目のマネージャーを見据えた。

「わかったわ。やるだけやってみなさい」

「はいっ! ありがとうございます!」

 聡子は顔を上げ、年甲斐もなく無邪気な笑みを弾ませる。

 ――『湖の瑠璃』を求めて。

 それを自由に歌えるようにすることが、聡子の使命となった。

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