第305話
引き続き歌のレッスンよ。
夏の全国ツアーに向け、楽曲はやっと数が揃いつつあった。
NOAHの代表曲である『Rising・Dance』から始まり、奏が作曲した『ハヤシタテマツリ』や『お節介なFriend』もすでに仕上がってるわ。
咲哉の持ち歌『ReStart』も完成度は折り紙つき。
あとはわたしの曲と、カップリング曲で乗りきる予定だった。
カップリング曲のほうは今のところ、結依+リカ、杏+奏+咲哉を練習中よ。でもリカは海外遠征中だから、練習のスケジュールは調整を余儀なくされてる。
あとはフルメンバーで歌う最後の曲……ね。
そのタイトルは『DREAM』とだけ聞いていた。
「どんな曲か、杏さんは知ってますか?」
「まだ何も……奏も具体的なことは聞いてないそうよ」
結依との関係もすっかり元通りになって、普通に話せる。
咲哉のレッスンは奏と先生に任せ、わたしと結依は隣のスタジオへ。
リカが不在のため予定を変更し、わたしは今日から『蒼き海のストラトス』の練習に入ることとなった。結依はこっちでボイトレね。
「ごめんなさい、結依。わたしの練習に付き合わせる形になっちゃって……」
「いいえっ。杏さんの歌を一番に聴けるなんて、嬉しいです」
たまには結依に格好いいところ、見せなくっちゃ。
こっちは先生がいないから、聡子さんが練習をフォローしてくれる。といっても、プレーヤーを再生するくらいのことだけど。
「結依さんもかなり伸びてきたんじゃないですか?」
「えへへ……ありがとうございます」
ボイストレーニングは順調。今日の結依は特に調子がいいみたい。NOAHチャンネルの企画でも、リカの不在をものとせず、堂に入ったMCを披露してた。
この子には逆境を跳ね返すだけの底力があるのよ。
二月のファーストコンサートや、五月のミュージックプラネットでも、わたしたちは御前結依のそれを目の当たりにしてる。
本番だけ上手くできるってわけじゃない。
ずっと練習で積み重ねてきたものを、最大限に発揮する力。
NOAHのセンターはその力をもって、わたしたちを牽引してくれた。
聡子さんがプレーヤーに指を添える。
「ボイトレは充分ですね。そろそろ『蒼き海のストラトス』を歌ってみましょうか」
「は、はい」
結依の視線を感じつつ、わたしはごくりと息を飲んだ。
いよいよ……ね。松明屋千夜の娘として、ううん――ひとりの歌手として。
わたしはこの名曲と今日こそ向きあい、克服しなければならないの。技術だとか、オリジナリティなんてのは、あとまわしよ。
まずは実際に歌って、メロディーの感覚を掴む。
そうよ。歌ってみないことには、何も始まらないわ。
「杏さん、どうぞ」
馴染みの深いイントロが流れ出す。
さあ、ママのように大きく息を吸って……。
『あなただったら、どう歌う? あの曲』
その瞬間、玲美子さんの挑発的な一言が脳裏をよぎった。
アナタダッタラ、ドウ歌ウ? アノ曲――。
『あの歌を託せるのはあなただけよ、杏。頑張ってちょうだい』
ママの優しい言葉も紛れ込む。
アノ歌ヲ託セルノハアナタダケヨ、杏。頑張ッテチョウダイ――。
ものの数秒のうちに、わたしの頭は大混乱に陥った。
歌いたい。歌わなくっちゃ。でも歌いたくない。歌うの。どうして歌うの? ママのように? 玲美子さんのように? がっかりされるんじゃ? それでも歌える?
これがわたしの歌だと、自信を持って歌える?
「ヒュー、ヒュー」
結依も聡子さんも絶句した。
わたしは喉を押さえ、口を押さえ、瞳を強張らせる。
声が――声が出ないのよ。妙に甲高い呼吸音だけが漏れ、わたしを愕然とさせる。
「杏さんっ? ま、真っ青ですよ!」
「大丈夫ですか? しっかりしてください!」
レッスンは中止。わたしは浴びるように水を飲んで、ようやく息をつく。
「……ごめん、なさい……。歌おうとしたら、急に……」
去年と同じだった。
歌おうとしたら身体が竦んで、急に声を出せなくなるの。そのトラウマじみた己の弱さを、わたしはまだ克服できていなかった。
幸いにして、ほかの曲では声が出る。『湖の瑠璃』なら歌えた。
マネージャーの聡子さんは神妙な面持ちで分析を試みる。
「昔もあったんですよね? こういうことが」
「はい……」
わたしはがっくりと肩を落とした。
こんな調子じゃ、NOAHのみんなにまで迷惑を掛けてしまうのに。NOAHの明松屋杏としての責任感が、丸ごと罪悪感にすり替わる。
聡子さんはわたしの肩に触れ、理知的な言葉で宥めてくれた。
「思い詰めないでください。それだけ杏さんは、お母さんの歌が大事なんですよ」
そうかもしれない。ママの歌じゃなかったら、ちゃんと歌えるんだもの。
レッスンはそこで終了し、聡子さんは奏たちの様子を見に行く。わたしの傍では結依が居たたまれない様子で、会話に困ってた。
「あのぅ、もしかして……杏さんはお母さんのことが、ええっと、苦手なんですか?」
その言葉が今はしっくりと来る。――苦手、か。
「わからないわ。憧れてるはずなのに、負い目を感じたりもして……」
わたしにとってママは目標で、壁でもある。そして壁なんだってことを、娘のわたしに思い知らせてくれるのが『蒼き海のストラトス』だった。
結依がわたしの手をそっと握る。
「私には……こんなことしかできませんけど。リカちゃんみたいに、ひとりで抱え込まないでくださいね。杏さんは大切な仲間ですから」
一度はわたしに八つ当たりされたせいか、結依の手は震えてた。
こんなに健気な女の子にまで気を揉ませて……本当に『先輩』失格ね、わたしは。
「ありがとう。結依」
さっきまで苦しかった気持ちが、ほんの少し軽くなる。
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