第89話

 それでも勝負は時の運。努力が報われない結果に終わる可能性は、ゼロじゃないの。

 ただ、努力しないことには、『運』を掴むチャンス自体が巡ってこなかった。言い換えれば、わたしたちも単に『アイドルやってます』ってだけじゃ、運に見放される。

 お弁当をつつきながら、次第に話題は次のコンサートのことへ。

「問題は持ち歌の数よねー」

「一曲ごとにレッスンも必要よ。数ばかり多くても……」

 まだまだクリアすべき課題は多かった。

 そんなふうに話し込んでるところへ、蓮華さんが近づいてくる。

「ちゃんと挨拶する暇もなかったわね、杏ちゃん」

「鳳さん! ごめんなさい。わたしの都合でお誘いいただいたのに」

 わたしは立ちあがって、きびきびと姿勢を正した。

 蓮華さんは髪をかきあげ、穏やかに微笑む。

「いいのよ、座って。それより撮影はどう? いい刺激になればと思ったんだけど」

「驚いてばかりです。カメラがまわりだすと、みなさん、役に入り込んで……」

 プロの演技には本当に驚かされたわ。

 でも同時に、わたしは『自分には無理』って思い始めてる。

 何かコツがあって、それを掴んだら、リカみたいに演じられるようになる? そんなわけがない。リカや蓮華さんと、わたしの間には、決定的な開きがあるのよ。

 お茶を片手に蓮華さんは隣で腰を降ろした。

「杏ちゃんの悩みは表現力、だったわね」

「はい。次のCM撮影までに、少しでも上達できればと」

「……変ねえ」

 急に『変』と指摘され、わたしは目を白黒させる。

「あの、それってどういう……」

「杏ちゃんの『湖の瑠璃』は、しっかり心情が表現できてたもの」

 横からリカが相槌を打った。

「そーそー! 歌の先生も『よくなった』って、すごい褒めてたもんねー」

「そ、そうかしら……」

 確かに何度も褒めてくれたわ。

 歌い方が変わってきてる。まだまだ拙い部分もあるけど、望ましい傾向だって。

 だけどわたし、褒められると、かえって不安になるのよね……。

「リカにはどう聴こえてるの?」

「さすが上手いな~って。アタシと結衣だけじゃ絶対、しょぼい歌になってたわよ? 今は奏もいるから、杏に頼りっぱでもないけどさあ」

 蓮華さんは笑みを含め、わたしを見詰めた。

「本当に歌ではできてるのよ、杏ちゃんは。それを歌以外にも応用できるようになれば、歌にもフィードバックが返ってきて、もっと上手に歌えるわ」

 もっと上手に――アイドル活動を通じて手に入るものが、わたしの歌を?

「歌に置き換えて、イメージしてみて」

「歌に……」

 アイドルの仕事への苦手意識は、依然として強かった。

 だけど、ふたりのおかげで一筋の光明は見えた気がするわ。

 リカがわたしの肩にもたれ掛かってくる。

「撮影が終わったら、蓮華さんに少し見てもらえば? 大根役者っぷりを」

「わ、悪かったわね。大根で……」

 そして案の定、得意の棒読みでみんなを苦笑いさせるわたしだった。


                 ☆


 明松屋杏に引けを取らない歌声と、作曲のセンスを買われて、スカウトされ――。

 チャンスが巡ってきたんだって、マーベラス芸能プロダクションに入ったわ。でも、そのせいでバンド仲間と軋轢を生じ始めたのかもしれない。

 そう、バンドが認められたわけじゃないの。

 ボーカルのあたしだけ、引き抜かれるみたいに。

 バンド仲間も最初は喜んでくれたけど、徐々に距離ができちゃって……。あたしも自分のことで精一杯で、振り返ることなんてしなかった。

 マーベラスプロに促されるまま、芸能科のある高校に入学してね。

 クラスメートはともかく教師の受けはよかったから、これでプロのミュージシャンになれるって、安心してた。

 ところが、あたしの歌声に異変が起こる。

 最初はタチの悪い風邪のせいだと思ったわ。以前のような高い音域の声が出せなくなって……無理に出そうとすると、裏声になってしまうの。

 何かの間違いでしょ?

 こんなの、じきに治るわ。

 でも自慢の声は一向に戻らず、あたしは焦った。

 自分のために作った曲が、満足に歌えない。高い位置の音符が憎らしくもなる。

 そして精密検査の結果、信じられない現実を突きつけられた。

「声変わりです」

 そりゃ、意味がわからなかったわよ。

 男の子が中学くらいで声が変わるのは、知ってる。アニキも声が変わったなあって、漠と憶えてるもの。男の子にとって、声変わりは成長の証。

 けど、あたしは女よ?

 どうして女のあたしが声変わりするわけ?

「極めて稀なケースですよ。朱鷺宮さんには喉仏こそありませんが、その部分にしこりのようなものがあります。原因は不明で、特異体質としか……」

 現代医学では解明できない現象だった。

 男性の声変わりにしたって、普通は何ヵ月も掛かるらしいの。なのに、あたしの声は一ヶ月と経たないうちに、完全に別物になってしまった。

「安心してください。声が低くなっただけで、生活に支障はありませんので」

 安心しろ、って?

 こっちは唯一無二の歌声をなくしたのに?

 それからは急転直下の日々よ。朱鷺宮奏が声を失ったことは、学校に知れ渡り、バンド仲間にも知られて……あたしはみるみる居場所をなくしていった。

 しばらく学校を休んでたら、座席が後ろに追いやられてたわね。玄武リカとはその時に知りあって、お互いの立場を嘆いたものだわ。

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