第90話

 学校はあたしを特待生として迎えたから、体裁のためにもあたしを放っておけない。

「作曲家としてなら充分に芽はあるさ。ギタリストもいいじゃないか」

 あたしだって、その選択肢は考えた。

 まだ作曲はできる。ギターも弾ける。だけど、どっちも二流に過ぎないの。

 あたしの武器は何が何でも歌声だったから。松明屋杏にも観音玲美子にも負けない、あの美声がすべてだったのよ。

 その喪失感はあたしの在り様をことごとく奪った。

 なんでまだ芸能学校にいるのかしら?

 バンドだって、もう諦めなくっちゃいけないのに……。

 そんな絶望の最中、降って湧いたのが、VCプロへの移籍だったの。歌えなくなった、商品価値のなくなったあたしを、マーベラスプロは切り捨てたがってたから。

 半ば自棄になって、あたしはその話を受け入れたわ。

 そしたら、VCプロの社長が『アイドル活動を始めなさい』よ?

 ほんと……何の冗談かと。

 しかも御園伊緒っていう子と組んで、バレエを習いなさいって。

 馬鹿にされてるのかと思った。

 でも同時に、これで諦めがつく……って、自嘲する気持ちもあってね。

 最後のつもりで悪あがきしてたら、あの子のおかげで――伊緒に無理やり歌わされて、あたしはやっと、自分の声の価値に気付くことができたの。

 それは松明屋杏にも、観音玲美子にも出せない、あたしだけの声。

 女性ならではの低音域という才能が、開花した瞬間だった。

 ただ……ね。

 自棄になってた間に、色々台無しにしちゃったでしょ? 学校とか、バンドとか。

 伊緒とも離れ離れになっちゃったから、あたしはゼロからのスタートに戻ったわけ。マーベラスプロの後ろ盾もない。

 だから、井上社長の提案を飲むほかなかった。

 玄武リカのイメージソング『ハヤシタテマツリ』も会心の出来だったしね。どうしてリカの曲がすんなり仕上がったのか、不思議で仕方ないんだけど。


 そして現在に至る。

 あたしはNOAHのメンバーとして、声優業に駆り出されていた。

 あの芸能学校、特徴的な声を持ってる生徒には、とりあえず声優コースを勉強させたがるのよ。おかげで、あたしも基礎くらいは身に着けてたわ。

 ブレスを含めずに言葉を発するコツとか。

 歌でも応用できそうだったから、あたしなりに真面目に授業は受けたつもりよ。

 だけど、まさかそれを実戦に投入することになるなんて……。

 ベテランの声優に囲まれ、ぎくしゃくと嚙みまくったのは先週のこと。本日はマーベラスプロのスタジオに再び出向き、あたしだけ収録のやりなおしだった。

 そりゃそうよ。

 ちょっとかじっただけの素人に、プロと同じ演技ができるわけないでしょ?

 今日は結依もおらず、あたしだけでスタジオ入りする。

 そこでは自分の分の収録を終えたはずの、藤堂さんが待ってくれてた。

「やあ、小鹿ちゃん」

「あ……おはようございます」

 藤堂さんには悪いけど、『小鹿ちゃん』は引くわね……。

「どうして藤堂さんが?」

「読みあわせる相手がいたほうが、やりやすいと思ってね」

 多分、玲美子さんか蓮華さんが融通してくれたんだわ。多少気後れしつつ、あたしは藤堂さんと向かいあって席につく。

「ごめんなさい。あたしの再収録なのに、わざわざ来ていただいて」

「いいんだよ。僕たちも君に恥をかかせたくはないんだ」

 あたしの演技はアニメの出来に直結してた。

 下手な声を当てようものなら、朱鷺宮奏のみならず、アニメのスタッフ全員が非難轟々に晒されるわけ。せっかくの新作が台無しだ、ってふうにね。

 当然、NOAHの今後の活動にも支障を来たすわ。

 今やNOAHの一員である以上、あたしに甘えは許されない。

 そんな気持ちもあって、この一週間はあたしなりに研究を重ねてきた。台本も書き込みだらけで、もうあたしにしか読めない有様。

「玲美子くんに聞いたよ。猛特訓したんだって?」

「……結果で証明してみせます」

 やがて収録の準備が整った。あたしは藤堂さんとともにマイクの前に立つ。

 ほかの役は全部、藤堂さんに演じてもらうことに。

「じゃあ始めようか」

 深呼吸で心を落ち着かせてから、あたしはおもむろに口を開いた。

「フッフッフ……見つけたクル。絶対に逃がさないクルよ?」

 藤堂さんを始め、スタッフの顔つきが変わる。

「どこに行ったんだい、ハークル!」

「こっちクル。……あれぇ? ボクと一緒に来るの、怖いクルか?」

 台詞は完璧に頭に入ってた。台本と睨めっこするまでもない。

 でも、単に『暗記してるから出る』わけでもなかった。なんだか、本当に自分の意志で喋ってるみたいで……自然と次の台詞が浮かぶのよ。

 夢中で歌ってる時と同じ。

「ク~ックルクル! 罠とも気付かずに、お馬鹿さんクル!」

 はっとしたのは、藤堂さんのほう。

「……ぁあ、すまない。僕の番だったね」

 収録はつつがなく終わり、藤堂さんは舌を巻いた。

「この一週間ですごく上達したじゃないか。正直、びっくりしたよ。朱鷺宮くん」

 あたしもここまでできるとは思わなかったから、少し興奮してる。

「はい。観音さんにアドバイスをもらって、ずっと語尾に『クル』って付けてたんです」

 それだけじゃないわよ。似たようなキャラクターが出てくるアニメを見たりして、ハークルのイメージを膨らませてたの。どれも先週はできなかった、やらなかったこと。

 藤堂さんは色男めいた笑みを綻ばせた。

「これでわかっただろう? 声優業は収録の時さえできればいい、ってものじゃないんだよ。試験やスポーツと同じで、勉強しなくちゃいけないし、練習だって要る」

 考えてみれば、当たり前のこと。

 先週のあたしはろくに練習もせず、一日だけ切り抜けられればって思ってたの。

 でも、例えば運動神経がいいからって、いきなりテニスの試合で勝てる? 数学の公式だけ憶えて、試験で正解できる?

 声優の仕事もそれと同じなのよ。それこそ藤堂さんの台本のように、びっしりと書き込むくらい研究して、初めて収録に耐えうるの。

 アニメ業界では、声優は花形みたいに扱われるけど、本当は職人の成せる技。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る