第87話

 歌えば歌うほど、褒められた。

 高名なオペラ歌手のママの真似をするだけで、みんなが褒めてくれたのよ。幼い頃はそれが嬉しくて、得意になって、いくらでも歌ったわ。

 母親譲りの美声ですね、と誰かが称賛した。

 ママも嬉しそうだった。

 だから、子どもながらに誓ったの。

 大きくなったらママみたいなオペラ歌手になる――って。

 確かにわたしにはママ譲りの才能があった。わたしと同じ音域が出せる子なんて、ほかにいなかったもの。

 評論家が舌を巻くほどの、将来有望な才女。それが昔のわたし、明松屋杏。

 けど、今にして思えば、褒められて当然だったのよ。

 単に『子ども』だったから。

 小さな子は自分でお片づけをしただけでも偉い。自分で絵本を読むだけでも賢い。わたしの歌が持てはやされたのも、それと同じことなの。

杏ちゃんはお歌がとっても上手ね。

将来はお母さんみたいな歌手になるの?

 そんなふうに言われたら、子どもは誰だって浮かれるものでしょ。

 ――わたし、歌うの大好き。だからママと同じ歌手になる!

 幼い頃はそれで満足していられた。周りの大人も『頑張ってね』と応援してくれたわ。そして、いつしかテレビ番組にも出演するようになった。

 オペラ歌手の娘ならではの、綺麗な歌声。

 まだ小学生なのに、こんなに難しい歌を歌えるなんて、すごい!

 世間は俄かに騒ぎ出した。業界の関係者も明松屋杏に注目して、値踏みを始めたの。

 一方で、その頃のわたしは違和感を抱きつつあった。

 みんなが褒めてくれるのは、わたしが可愛い子どもだからよ。

 ママの子だから、特別によくしてもらってるだけ。

 ……そう、天狗になれるほど馬鹿でもなかったのよ、わたし。むしろ自分の実力が世間の評価に相応しいのか、自信がなくなってきた。

 もしわたしがママの娘じゃなかったら?

 小学生じゃなかったら?

 わたしの歌を聞いたって、誰も振り向いたりしないわ。

 わたしなんかの歌を聞いたって……。

 やがて、母親譲りの歌声ひとつで許される時間は、終わった。業界のプロはわたしの実力不足を見抜き、だんだんと離れていく。

 ママは応援してくれた。パパも元気付けてくれた。

 だけど、わたしだって、いつまでも無知でお気楽な子どもじゃいられない。

 そんなある日、歌の先生が言ったの。

「杏さん。これはどういう心境で作られた曲だか、わかるかしら」

 考えたこともなかった。

「この歌詞は誰の気持ち? どんなひとが歌ってるの?」

 わたしの歌の未熟な部分を、先生は容赦なしに突く。

「あなたは心理描写がまったくできてないのよ。単に綺麗な声を出してるだけ」

 まるで罪人が己の罪を突きつけられるかのように、わたしは衝撃に打たれてしまった。

 子どもの頃から好きで歌ってきた、あの歌もこの歌も、本当はまともに歌えてなかったのよ。それが無性に恥ずかしくなって――歌うことが怖くなった。

 ママと一緒にパーティーに出席して、さあ歌おうとしても。

 声が出ない。

 喉が引き攣って、歌うのを嫌がる。

 ママの娘じゃなかったら、誰も聴いてくれないもの――そんなのをこれ見よがしに歌って、褒めてもらおうっていうの?

 その誉め言葉にしたって、嘘かもしれない。

 あのひとの娘さんだ、下手でも絶賛して、機嫌を取っておかないと。

 いつまでこの業界にいるのかしらね? 本気で歌手になれると思ってるのかしら。

 そんな言葉が聞こえる気がする。

 事実、わたしは歌手になるために何ひとつしてなかった。オーディションを受けるわけでもなく、舞台に立つでもなく。ママのオマケ程度に披露するだけ。

 練習はしたわ。練習だけは本当にたくさんやった。

 オペラ歌手を志すのは、決してママの真似じゃない。わたしもあの舞台に立って、みんなに歌を聴いて欲しいって、思ってる。

 ――わたし、歌うの大好き。だからママと同じ歌手になる!

 子どもの頃は無邪気な返事でしかなかったものは、着々と大きくなっていた。

 だからこそ、壁にぶつかるの。

 幼いわたしが気付くことのなかった壁を前にして、足を止める。

 このままじゃだめだわ。

 歌手としての実力を身につけないと。それと並行して、実績を作っていかないと。

 だけど焦れば焦るほど、声が出なかった。

 歌わなきゃって強迫観念にばかり駆られてしまって、歌えないのよ。

 そんなわたしを見かねて、パパがわたしをVCプロと話をつけてくれた。わたしはVCプロのタレントとして、ひとまず業界に踏み留まることに。

 社長の井上さんはわたしが『歌えない』ことを聞くや、眉を顰めた。

 そしてわたしに提案したのが、アイドルユニットの件。

「アイドル活動をしてちょうだい」

「ま、待ってください! わたしはアイドルなんて……歌うことしかできないんです」

「でも今は歌えないんでしょう? 第一、アイドルにだって歌はあるわ」

 わたしの意志にかかわらず、話は見当違いの方向へ転がっていく。

 結局、わたしは新生アイドルユニットの一員となることに。

 玄武リカもさぞ迷惑してることでしょうね。よりによって、歌えない歌手と組まされたんだもの。もうひとりの……結依って子も、気の毒でならないわ。

 折を見て、辞退するしかないかしら。

 アイドル活動なんて、わたしの柄じゃない。

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