第52話
頑張るだけ頑張った――なんて、あたしは思えない。そんな月並みの言葉を落としどころにして、納得するには、前に進みすぎてしまったもの。
音楽のことを綺麗さっぱり忘れるには、ね。
今でも欲求が燻ってる。いろんなひとに聴いて欲しい。聴かせてやりたいって。
でも、それは無理なんだとわかってしまった。肝心の美声を失っては、あたしのロックは永久に成立しないから。
誰でも歌えるようにキーを落として、再構成?
そんなことしたら、それはもうあたしの、理想のロックじゃない。
この間伊緒と一緒に参加した、BGMのコンペと同じよ。自分の味は出すな、メインのBGMと違和感がないようにしろ――これじゃ、あたしが作曲する意味なんてないわ。
けど、理想のロックを諦めないことには、そもそもあたしが歌えなかった。自分で歌うことのできない曲ばかり書いては、屈辱の味を噛み締める毎日。
今日はスタジオで伊緒のピアノと音合わせの予定だった。
そろそろあの子も解放してあげないとね。
「こんにちは。奏ちゃん」
伊緒は先にスタジオ入りしてて、準備を済ませてた。いつもはモタモタしてるのに、今日に限って、やる気十分にピアノでスタンバイしてる。
「早いわね、伊緒。学校は?」
「急いで来たの。奏ちゃんにお話したいことがあって……」
あたし、心の中で少し安心した。
こっちから切り出さなくてもいいんだ……ってふうにね。卑怯なのはわかってるけど、伊緒のほうからデュオの解散を言い出してくれるのは、助かる。
「VCプロを辞めるんでしょ?」
あたしは刺々しくならないよう、なるべく穏やかな調子を心掛けた。
「あんたのピアノは正直、惜しいけどね。音楽活動はまだしも、芸能活動が向いてないのは、しょうがないと思うわ。気にしないでいいから」
伊緒には第一にバレエがあって、芸能活動はあくまで度胸をつけるためのもの。
あたしもそれでいいと思うわ。バレエでまだチャンスがあるこの子に、あたしの我侭でいつまでも、期待を掛けてちゃいけないでしょ。
それに……ナオヤたちの時のように、関係を破綻させたくなかった。たとえ今だけの友達でも、もう叶うことのない夢にしがみついて、失いたくないの。
あたしにできることは、伊緒を応援してあげることだけ。
「それより、あんたはバレエよね? 次のオーディションに向けて、準備も――」
「ううん。そのことじゃないの」
ところが今日の伊緒は、やけにはきはきと口を開いた。
楽譜のコピーをあたしに見せつけ、言い放つ。
「これ、今から一緒に歌って欲しいんだ」
あたしはその楽譜をちらりと一瞥し、愕然とした。次の瞬間には顔を真っ赤にする。
「なっ……!」
楽譜を書き換えられてたのよ。
あたしのロックを、『今のあたしでも歌えるように』改変されて――。
「どういうつもりよ! 伊緒ッ!」
スタジオにあたしの怒号が木霊した。
せっかく納得しかけてたのに。さっきまで我慢してたのに。
自慢の歌声を失ったことも、バンドと喧嘩別れしたことも、頭の中で一遍に氾濫する。悔しさや苛立ちはまとめて爆発し、もう自分じゃ抑えきれなかった。
「あたしの曲をなんだと思ってるわけ? 勝手なことしないで!」
自分の嫌いな声が、限界までトーンをあげる。
伊緒に即興でロックをバラードにされた時は、こんなふうに思わなかったわ。純粋な驚きと興味があって、伊緒の稀有なセンスに惹かれた。
でも今、あたしの自尊心に決定的な傷をつけたのは――同情。
伊緒はあたしに同情して、ミュージシャンの尊厳を踏みにじったのよ。
それがあたしの逆鱗に触れたの。可愛そうな奏ちゃんのために、歌えるようにしたよっていう、その『余計なお世話』が腹立たしい。
けど、伊緒は態度を改めなかった。
「いいから……お願い。歌って」
今にも泣きそうなくらい震えてるくせに、一歩も引こうとしない。スカートを力いっぱいに握り締めながら、涙を孕んだ瞳であたしを見詰めるの。
「よくないわよ! あんた、同情でもしてるつもり? ひとの曲、勝手に書き換えて、しかも『歌え』って? 冗談じゃないわ!」
あたしは楽譜を床に叩きつけ、凄む勢いで伊緒に詰め寄った。
「どうしたのよ? いつもみたく謝りなさいってば!」
それでも伊緒は目を逸らさず、いきり立つあたしを真正面から見返す。
「お、お願いだから……一緒に歌って。奏ちゃんが歌ってくれたら、わ、わたしも……バレエのオーディション、出るって決めたから」
「な……何よ、それ」
あたしは額を押さえ、はあっと長い息を吐いた。
結局この子はあたしのこと、何ひとつわかってないんだわ。今も『わかった気になってる』だけで、あたしをこのガラ声で歌わせようとする。
伊緒のバレエを応援するつもりでいた気持ちは、消え失せた。
「わかったわよ。ただし一度だけね。歌い終わったら、二度とあたしに関わらないで」
侮辱に耐えつつもあたしは楽譜を拾い、ギターを構える。
伊緒は小さな嗚咽を慣らしながら、それでも懸命に白と黒の鍵盤をかき鳴らした。ピアノの凛とした音色に、あたしの荒々しいギターが合わさり、楽譜を再現していく。
眩しい街の中 ひとり佇む
歌い出しは低いトーンから始まったわ。いつもは甲高くあったものを出しきれないせいで、ピアノにもギターにも飲まれそうになる。
しかし伊緒のピアノはあたしの声音に容赦しない。
ショーウインドウに 泣き顔が映った
まるでアルトパートを歌ってるみたいだった。あたしの喉は無理なく、音階をどんどん下げていけるの。いつしかあたしの声は鍵盤を左へ、左へと向かってた。
どこまでも――まだ、出せる……?
捜してたダチを やっと見つけ
涙のワケを誤魔化す 苦し紛れの枯れた声
歌えてる……?
枯れきったはずの声が、俄かに潤ってきた。
高い音は出ない。でも低い音域に入ると、つっかえていたものがなくなって、驚くほど簡単に出ちゃうのよ。
男の子にしては綺麗な女声、ってやつ?
ううん、そんな次元じゃないわ。あたしの声はアルトの旋律となって、むしろピアノもギターも支配しつつあった。そこに伊緒の綺麗な歌声が重なる。
お節介なFRIEND 見透かされてる
わかったふうな笑みがむかつく
あたしも口を大きく開けて、伊緒と初めてのデュエットをはもらせた。
スタジオにあたしたちの新曲が響く。女の子同士のデュエット……じゃないわね。あたしの歌声は雄々しい色気を伴い、あたかも『男女のデュエット』を作りだす。
お節介なFRIEND あたしも知ってる
あんたもやっぱり寂しいんでしょ
おかげで、女の孤独を歌ったはずのロックは、甘いラブソングになってしまった。
あたしは演奏の手を止め――さっきの伊緒より大きな嗚咽を漏らす。
「うっ、あ、あうぅ……」
歌えたんだもの。
ちゃんと自分の声で、あたしのロックを。
瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れてきた。両手でも受けきれず、ギターまで濡れる。
涙がこんなに熱いなんて、知らなかったわ。声を失ってから、あたしはまだ一度とさえ泣いたことがなかったんだもの。
「ね? 奏ちゃん」
「ひっぐ! ごめん……伊緒、ごめんなさい……っ!」
謝ったのは、あたしのほうだった。
さっきは伊緒に『謝りなさいってば!』って凄んだくせに。あたしは涙で唇を濡らしながら、みっともない鼻水まで垂れながら、伊緒に何度も謝るしかなかった。
「ごめん……ぐすっ、伊緒ぉ」
カッコ悪い。自分勝手で、惨めったらしくて、ほんと情けない。
でも嬉しかったの。
あたしの音楽は死んでなかった。むしろ余所のボーカルにはない可能性を秘めていた。超低音域でこそ、あたしの新しい声は輝きを放つ。
なのに自棄になって、腐って、伊緒に八つ当たりまでした。
それでも伊緒は、そんなあたしなんかのために、勇気を振り絞ってくれたのよ。
「ちゃんと歌えるんだよ。奏ちゃんは」
意固地なあたしを奮い立たせるために。
音楽に絶望してたあたしを、伊緒は救ってくれた。
この子は決して意気地なしなんかじゃない。
誰よりも強く、涙を堪えて、あたしを応援してくれたんだから。
ありがとう、伊緒。
あんたの度胸、認めてあげる。
<Io・Misono>
バレエスクールにやってきた奏ちゃん、今日も元気があり余ってた。
「おっはよー、伊緒!」
「えへへ。こんにちは、奏ちゃん」
バレエを始めて、早二ヶ月。まだ身体が硬いのは仕方ないにしても、基本のフォームは見るからに上達してた。足はあまり上がらなくても、姿勢の均整が取れてるの。
工藤先生も奏ちゃんがお気に入りみたい。
「この調子で続けてれば、次の春には発表会に出られるわよ、朱鷺宮さん。ほかにも高校デビューの新人がいるから、一緒にやってみるといいんじゃないかしら」
「あたしにはちょうどよさそうな目標ですね。それ」
奏ちゃん、週二だったレッスンを週三に増やして、練習に励んでた。楽曲コンクールに向けて、曲も収録しなくちゃいけないのに、バレエに時間を割いてくれてるんだ。
そんな奏ちゃんがわたしを見て、にんまりと微笑んだ。
「伊緒? ぼーっとしてないで、あんたこそ練習に本腰入れないと」
「え? でも、わたし……」
「出るんでしょ? オーディション」
待ってましたとばかりに工藤先生が食いついてくる。
「本当っ? やる気になったのね、美園さん!」
「あの、先生? そのぅ」
わたしはしどろもどろになるも、奏ちゃんの追撃は厳しかった。
「この間、あたしと約束したんですよ。ねえ、伊緒? ま、さ、か……あたしにあんなこと言っといて、自分は嫌、なんて言わないでしょーねえ?」
うぅ……言い返せない。
わたし、奏ちゃんにどうしても歌って欲しかったから、勢いで出まかせを言っちゃったんだ。『歌ってくれたらオーディションに出る』って。
工藤先生はすっかりそのつもりで、上機嫌。
「みんなでフルサポートするわよ、美園さん! 劇団でプリマになって、このスクールをもっと有名にしてちょうだい」
「先生ってば、それが本心ですか?」
「当然でしょ。元生徒がプリマになったら大繁盛、間違いなし!」
奏ちゃんと工藤先生、早くも意気投合しちゃってた。
わたしはもうオーディションに出るしかないみたい。でも、奏ちゃんだって大きな壁を乗り越えたんだもん。今度はわたしがバレエで頑張らなきゃ。
響子ちゃんも待ってる。
それにね? いつまでも昔の出来事のせいで、大好きなバレエに引け目を感じていたくないから。挑戦してみよう、オーディション。
そこにはきっと、わたしの知らないバレエがある――。
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