第48話


     <Io・Misono>


 VCプロで活動がある日は、溜息が出ちゃう。

 この前の日曜日、奏ちゃんを放って逃げたことも、わたしを尻込みさせた。奏ちゃんは内気なわたしのために、ああやってチャンスを作ってくれたのに……。

「奏ちゃん、いるかなあ……」

 VCプロが借りてるスタジオで、わたしは奏ちゃんを捜す。

 顔を会わせづらいけど、ずっと避けてもいられないもんね。悪いのはわたしだから、ちゃんと謝りたかったの。

 許してくれるかな? 奏ちゃん。

 だけど、またストリートライブに連れ出されても困る。井上さんにもお話して、VCプロを辞めさせてもらおうって、わたしは考え始めていた。

 みんなの前で歌うのなんて、無理だもん……。

 バレエで役に立候補できないのも、臆病な性分のせいだって自覚はあるよ。

 天才少女だなんてふうに持ちあげられて、恥をかいて――あれからというもの、舞台に立つのが無性に怖くなったの。

『怖いから出たくない? あなた、何しに来たのよ』

 舞台にあがる寸前でリタイアしたこともあった。

 足が動かなくなって、背中にびっしょりと冷や汗をかいて。涙まで出てきたの。

『ひぐっ、わたひ、ここで待ってるよぉ』

『ツーマンセルの群舞なのよ? あなたがいないと、私も踊れないでしょ!』

 心電図みたいに震えてて、踊れるわけがない。

 あの時の響子ちゃんには、本当に悪いことしちゃったよね。

 そんなことを考えながら、わたしはいつものスタジオを覗き込んだ。ちょうど奏ちゃんが練習してるところで、ギターをかき鳴らしつつ、マイクに唇を近づける。

 折り目正しい制服でも、さまになってた。

「眩しい街の中、ひとり佇む――」

 けど、声はおかしい。あからさまに『裏声』で……。

「ショーウインドウに泣き顔が、うっ、ゴホッ!」

 俄かに咳き込んで、ギターの手も止まってしまう。奏ちゃんはスポーツドリンクを喉に流し込むと、演奏を再開し……また同じことを繰り返した。

 いつもの奏ちゃんじゃない。

 鬼気迫る表情で、絞めるみたいに喉を掴む。

「ほんとに出ないわけ? 二度と……」

 とても声を掛けられる雰囲気じゃなかった。

 けれど、奏ちゃんの瞳にはすでにわたしが映ってる。とっくに気付かれてたみたい。

「入ってきなさいよ、伊緒」

「う、うん」

「……あははっ。別に怒ってないから」

 奏ちゃんは自嘲気味に笑うと、スポーツドリンクをゴミ箱へ放り込んだ。

「こんなので喉を濡らしたって、出るわけないのよ。昔のような綺麗な歌声はね」

 観音怜美子のライブのあと、奏ちゃんが泣いてたのを思い出す。

『あたしだって……あれくらい、歌えたのに……っ!』

 奏ちゃんの唇がわずかに震えた。

「あたしね……今年の春まで、音域が5オクターブあったのよ」

 懺悔じみた響きがわたしを困惑させる。

 有名な歌手でも出せるのは2、3オクターブだって、聞いたことがあった。5オクターブで歌えるなんて、まさしく天賦の才能だよ。

 だけど、奏ちゃんの声は男の子みたいに低かった。高音域には遠い。

「風邪は治ったのに、ガラ声だけ治んなくて……『声変わり』だなんて言われたの」

 わたしは瞳を瞬かせた。

「え? 女の子なのに、どうして?」

「わからないわ。原因は不明、特異体質だろうって」

 奏ちゃんは悔しそうに唇を噛む。腕組みのポーズにも力が入りすぎて、上腕に指が食い込んでた。その切ない瞳がギターを、まるで遠くにあるかのように見詰める。

「マーベラスプロにはいられなくなって、バンド仲間ともそれっきり。もうミュージシャンとしての芽はないくせに、悪あがきしてるのよ」

 奏ちゃんの宝物らしいギターはぴかぴかに輝いてた。さっき張り替えたのか、デスクの上では古い弦が弓なりに曲がってる。

 長い沈黙に空笑いが染みた。

「あはは……悪かったわね、伊緒。あんたに度胸をって前に、まずはあたしが、声をなんとかしろって話なのに。ほんっと……」

 伏せがちな瞳で涙が光る。

「奏ちゃん……」

 わたしには何も言えなかった。

 わたしはバレエを奪われたわけじゃない。自分の足で踊れる。踊れるのに――舞台に立つのを怖がって、逃げまわってるんだもん。

 そうだよ。もし怪我をして、バレエができなくなったら?

 工藤先生の娘さん、響子ちゃんも怪我をした時、今の奏ちゃんと同じ顔をしてた。

 その代役を急きょ決めることになったんだけど、わたしは名乗りを上げることもできなくて――怒らせちゃったんだ。

『どうして立候補しないのよ、美園さん! チャンスだって思わないの?』

 それでも友達の怪我をチャンスにするなんて真似、できなかった。

 もちろん奏ちゃんの場合は『歌』だから、わたしじゃ代役なんて務まらないよ。それ以前に、誰かが代わりに歌えば済む話でもない。

「……今日はもう帰るわ」

 奏ちゃんは俯いたまま、淡々とギターをケースに戻す。

「じゃあね、伊緒」

 わたしは別れの挨拶もできず、ずっとその場に立ち竦んでいた。

 歌手の命である美声を失った、奏ちゃん。

 それでも音楽を続けようとする姿は、逞しいというより弱々しかった。きっと、歌手生命の唐突な終わりに納得できなくて、気持ちの落としどころを求めてるんだ。

「そっか……」

 疑問のひとつが解けたよ。わたし、今の今まで不思議に思ってたの。

 奏ちゃんの作る曲って、どうしてあんなに高音域に偏ってるんだろ、って……。

「あら、もう空いてるの?」

 わたしひとりだけのスタジオへ、誰かが入ってきた。

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