第49話

 存在感が薄いらしいわたしにようやく気付いて、あとずさる。

「……と、ごめんなさい。とても静かだったものだから」

「いえ。えぇと……確か、同じVCプロのタレントさん……ですよね?」

 わたしのほうはまだ上の空で、挨拶が遅れちゃった。

 彼女が胸に手を当て、自己紹介を始める。

「わたしは明松屋杏。最近結成したばかりの、NOAHのメンバーよ」

 その名前にびっくり。わたしは慌てて姿勢を正す。

 明松屋杏さんといったら、世界的に高名なオペラ歌手の娘さんだもん。VCプロに所属してるのは知ってたけど、まさか、ここで鉢合わせするなんて。

「はっ、初めまして! 美園伊緒です。あの、まだわたし、ええっと……」

「固くならないで。わたしもVCプロに来てから、日が浅いもの」

 杏さんは上品な調子で笑った。

 わたしが新人だってことは、一目でわかったみたい。

「あなたはひとりで活動してるの?」

「ふたりでやってるんですけど、ちょっと……」

 わたし、緊張感ではらはらした。

 友達が『芸能人はオーラがある』って言ってたの、わかる気がする。頬に手を添える仕草ひとつを見ても、杏さんは麗しくって。

「そ、そーだ……すぐ空けますから、待っててください」

 わたしは大急ぎでスタジオを片付ける。奏ちゃん、弦を処分するのを忘れてた。

「こっちもまだメンバーが揃ってないから、いいわよ。わたしが早く着いただけだもの」

 杏さんはにこやかに微笑んで、踵を返そうとする。

「じゃあね。えぇと……美園さん?」

 とても綺麗な声だった。お母さんと同じオペラ歌手を目指してるだけある。

「――あ、あのっ! ちょっといいですか?」

 わたしは咄嗟に杏さんを呼び止めた。

「何かしら?」

 初対面の、それも有名人を相手に。勇み足が過ぎちゃったかも。それでも明松屋杏さんなら、答えてくれるんじゃないかって期待があったから。

「聞きたいことがあって……杏さんだと、何オクターブくらい出せるんですか?」

 我ながら唐突な質問。

 杏さんは嫌な顔もせず、ドアを開け、スタジオの空気を入れ替える。

「よく聞かれるのよ、それ」

 秋は深まり、空気そのものが優しかった。

「前は自信満々に『5オクターブです』って答えてたわ」

 奇しくも5オクターブの音域は、奏ちゃんと同じ。

「でもそれは、単に出せるってだけ。ちゃんと歌として使えるのは……3オクターブもないんじゃないかしら」

 杏さんの言葉、謙遜には聞こえなかった。

「わたしもね、綺麗な声を出せばいいってものじゃないって、最近わかったのよ。大事なのは声を自慢することじゃなくて、きっと、歌を『表現』することなんだわ」

 バレエと同じかも。

 アチチュードを何回転も決めたって、どんなに脚を柔らかく曲げたって、それは『技』でしかないの。現に五回転できる子が落ちて、二回転しかできなかった子が受かる、なんてオーディションもあった。

 大切なのは、その技術で、何をどう表現するか。

 作品への愛や、バレエへの情熱を、ダンスに込めるんだよ。

 だから、これみよがしに『技』を決めたところで、それがバレエの演目にそぐわないものなら、評価はされなかった。

『伊緒ちゃん、もっと回転を入れてくれるかい?』

『バレエを知らないひとは、回転くらいしか判断できないからね。得意だろう?』

 あの時のわたしの嫌悪感は、間違ってなかったんだね。

 バレエは点数が出る体操の競技じゃない。フィギュアスケートだって『回転、回転』と頭ごなしに言われたら、スケーターが怒ると思う。

 悪気はなかったにしても、あの時、審査員やマスコミはバレエを馬鹿にした――。

 だから踊りたくなかったの。

「何か思うところがあるみたいね」

「あ……ごめんなさい。お話してるのに、ぼーっとして……」

「気にしないで。少し暢気なくらいがいいのよ、多分」

 杏さんは艶やかな髪をかきあげ、苦笑した。

「偉そうなこと言っちゃったけど、実はわたしも、その『表現』っていうのが掴めてないのよ。むしろ歌という手法に限界を感じてるくらいで……うふふっ」

「わかります。それ」

 この『表現力』はバレエでも大事だよ。

 けど、レッスンだけで養えるものじゃないの。

 例えば『恋する乙女』を演じるなら、実際の経験は別にしても、恋愛感情の機微を知ってなくちゃいけないわけで。

 それを如実に表現できるかどうかで、ダンスの完成度は断然、違ってくる。

「またね、美園さん」

「はい。ありがとうございました」

 杏さんは和やかに微笑むと、今度こそスタジオをあとにした。

 わたしは使い古された弦を手に取り、物思いに耽る。

「奏ちゃん……」

 プロのミュージシャンを目指してる奏ちゃんは今、大きな壁にぶつかってた。

 ひとりぼっちでもがき、苦しんでた。

 歌いたいのに歌えないって、どんな気持ちだろ……? バレエで同じことになったら、わたしは絶対、耐えられない。

 こんなわたしでも奏ちゃんのためにできることって、あるのかな。

 パートナーのいないスタジオで、わたしは黙々とピアノを弾いていた。


 バレエ教室に行っても、パートナーの奏ちゃんに会えない。

 工藤先生も心配してくれてた。

「朱鷺宮さんったら、急に来なくなっちゃって……美園さん、何か聞いてない?」

「いいえ……すみません」

 バレエを始めても、すぐに辞めていっちゃうひとはいる。でも奏ちゃん、バレエに何かを感じてるようだったし、教室のみんなともそれなりに打ち解けてた。

「朱鷺宮さん、まだまだ身体は硬いけど、筋はいいのよ。もったいないわ」

 工藤先生の口癖『もったいない』も飛び出す。

 もちろん工藤先生だって、奏ちゃんを徹底的に指導して、プロのバレリーナに育てあげようってわけじゃないよ。奏ちゃんには楽しんで欲しいだけ。

 でも奏ちゃんは目指してる。歌手で『プロ』を。

「……あの、すぐに戻ってくると思います。待っててあげてください」

「当然よ。あなたが連れてきた、初めてのお友達だもの」

 わたしの胸で日に日に気持ちが膨らんだ。

 奏ちゃんの力になりたい。歌手を目指して、頑張って欲しいの。

 プロになるのがどういうことか――わたしも知りたいから。

 そんなわたしに工藤先生が釘を刺す。

「友達のことも大事でしょうけど、自分のことも考えなさいね、美園さん。秋の発表会でもいいし、年明けには劇団のオーディションだってあるんだから」

「え? あ……はい」

 オーディションのことなんて、すっかり忘れてたよ。

 いつものレッスン場でウォーミングアップしてると、お客さんがやってくる。

「響子ちゃん!」

「相変わらず馴れ馴れしいわね。美園さん」

 工藤先生の娘さんで同い年の、響子ちゃん。高校への進学に合わせて、この春に劇団のほうへ移ったから、数ヵ月ぶりの再会だった。

 バレエがとっても上手で、わたしとしては尊敬してるんだけど……響子ちゃんはわたしに対して、ちょっぴり高圧的。

「さっさと実績作って、劇団に来なさいよ。ここのバレエじゃ物足りないでしょ」

「物足りないだなんてこと……先生のレッスン、楽しいよ?」

「どうかしら? 劇団に来たら、そんなこと言えなくなると思うけど」

 バレエ教室のみんなはジャージ姿の中、響子ちゃんだけレオタードだった。身体のラインがわかりやすいから、練習着としても正しい。

 響子ちゃんはにやりと唇を曲げた。

「今日はあなたにニュースを持ってきたの。劇団のクリスマス公演が『白鳥の湖』だってこと、知ってるわよね?」

「うん。田辺さんが、大きな四羽の白鳥を演るって……」

 十二月には劇団のクリスマス公演がある。

 しかも今年は『白鳥の湖』! バレエに縁のないひとでも知ってるほどの代表作で、誰がどの役を演るのか、このバレエ教室でもたびたび話題にのぼった。

 それだけに、団員の間でも競争率は高いはず。

 とりわけヒロインの白鳥ことオデットは、まさにバレリーナの憧れだもん。

「実は私、花嫁候補のひとりに選ばれたのよ」

「えええっ?」

 わたし、びっくりして、思わず大声を出しちゃった。

「け……結婚するの? 響子ちゃん」

「違うったら! 『白鳥の湖』の三幕っ!」

 勘違いはさておいて。『白鳥の湖』の第三幕には、ジークフリート王子の花嫁候補として、貴族のご令嬢たちが踊るシーンがあるんだよ。

 響子ちゃんは自信家の表情で、謙遜にしては饒舌に勝ち誇った。

「まだ新米だし、出しゃばるつもりはなかったのよ? ……といっても、三日間だけね。ほかの日は三幕も群舞で踊るわ」

「じゃあ、二幕でも?」

「数合わせでね。そっちは田辺さんに頑張ってもらわないと」

 劇団規模の公演でもダンサーの数には限りがあるから、ひとり二役なんてことは珍しくない。それでも日によって配役を替えるのは、万が一の欠員に備えてのこと。仮に花嫁候補のひとりが怪我をしても、群舞からひとり抜けるだけで、対応できるの。

「響子ちゃんが花嫁候補……すごいよ。ほんとに?」

「本当よ」

 わたしと同い年で役付きを踊るなんて、俄かには信じられなかった。

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