第27話

 ファーストコンサートの日程が決まった。その場でNOAHはメンバーを発表し、持ち歌の『湖の瑠璃』を披露することになったの。

 今日もさっきまで、パートの合わせをしていたところ。

 それから事務所に戻って、私は客間で杏さんに勉強を教えてもらっていた。

「ここの『で』は打消しの助動詞が入ってるから、まずは『ならない』と訳して……」

同じソファに座った杏さんがやや前のめりになって、私のテキストに赤線を引く。

 杏さんは名門女子高に通っており、成績も上々。私が苦戦する一方の難問を、すらすらと解いていっちゃう。けれども私のオミソでは説明を聞いたところで、何が何やら。

「はあ……」

情けない溜息が口をついて出てしまった。

 すると杏さんが手を休めてくれる。

「少し休憩にしましょうか。……それにしてもリカ、来ないわね」

 NOAHの勉強会は大抵、私と杏さんだけだった。リカちゃんはたまに来ても、居眠りしてるのがパターンなの。勉強のこと、芸能学校ではうるさく言われないみたい。

 私は普通の高校で、中の下くらいの順位を維持するのが、やっと。芸能活動があってもなくても、成績は変わってないと思う。

だけど一部の先生は、私の成績を芸能活動と結びつけていた。

私はもう一回大きな溜息を漏らしつつ、打ち明ける。

「最近、学校に居づらいんですよ。先生に、芸能学校でやれ、とか言われたりして」

「ひどい先生ね。気にすることないわよ、そんなの」

 杏さんが私の頭を優しく撫でてくれた。

 校長先生や教頭先生としては、私に芸能活動で花を咲かせて欲しいみたい。生徒の創作活動を応援します、なんてふうに宣伝したいわけね。

 反面、生徒の芸能活動を疎んじてる先生も多いわ。そういう先生は私のしがない学力に目をつけ、プレッシャーを掛けてくる。

 友達は応援してくれるけど、こっちはまだ何も話せない段階だった。

 学業成績がよくて、歌手としての実力も申し分ない杏さんのことが、羨ましい。

「あの……杏さんは、専門の学校に行こうとか、思わなかったんですか?」

「わたし? 音大は目指してるわよ。……あ、今の高校ね」

 杏さんは両手の指を編みあわせて、顎を乗せた。

「歌の勉強なら、ママと同じ環境があったし。世間知らずにはなりたくないなあって。でも、学校も楽しんじゃおうって思うようになったのは、最近かしら」

 杏さんの穏やかな瞳が、私の顔を映し込む。

「たまにだけど、合唱部に顔出してみたりして。ひとと話す機会も増えたわ。あなたに影響されちゃったんでしょうね」

 以前の杏さんはお仕事を優先し、自分の学校の文化祭に出席することもなかった。それが今では一転して、学校と積極的に関わりを保とうとしてる。

「本当に……あなたのおかげよ、結依」

 杏さんの繊細な手が、そっと私の手に触れた。

 掛け時計が六十秒ぶりに長針を動かす。

事務所に詰めてるスタッフは壁の向こうだから、客間は私と杏さんのふたりきり。

「そ、そんなことないですよ」

私はテキストのほうを向いて、杏さんの視線をやり過ごそうとした。でも杏さんが私の手を取り、逃がしてくれない。ほんのりと頬を染め、純真な瞳を潤わせる。

「いいえ、あなたがいてくれたから。私はまた歌えるようになったし、歌だけじゃないってこと、ちゃんと知ることができた。だから……今度はわたしが、ね」

 手を繋いだまま、杏さんが肩に寄りかかってきた。

「ねえ、結依。近頃、様子がおかしいわよ? 理由を聞かせてもらえないかしら」

 その言葉に私はぎくりとする。

 多分、私の悩みは態度に出てた。薄暗いものを抱え込みながら笑っていられるほど器用じゃないし、強くもない。

「そ、そうですか?」

 とぼけたくても、勝手に声が上擦ってしまった。心臓はすごく動揺してる。

 杏さんに聞いて欲しい気持ちもあったけど、同じくらい、聞いて欲しくない気持ちもあった。私の悩みは、杏さんに対する劣等感でもあるんだもの。

 杏さんにせいになんか、したくない。

「嘘でしょう。だったら、わたしの目を見て言って」

 私は視線を落とし、唇を噛んだ。杏さんの顔を見るのが、今は怖い。

 杏さんは声のボリュームを落としつつ、私の髪に触れた。

「あなた、コンサートの日取りが決まってから、上の空だし……練習も集中できてないでしょう」

 見透かされてる。私、杏さんに心配ばかりかけてる。

「これは、その……私の問題っていいますか」

 それでも往生際の悪い私は口を噤んで、はぐらかそうとした。

 頭の中で色んなことがぐるぐるしてる。

 マーベラス芸能プロダクションで、藤堂さんに言われたこと。同い年くらいの女の子たちが猛練習に励んでること。NOAHのファーストコンサートは二千人の動員を予定していて、普通のデビューとはスケールが違いすぎること。

 二千人のお客さんを呼べる杏さんには、わからない悩みに違いない……なんてふうに、杏さんのことを貶めてしまう自分勝手な考えすら、脳裏をよぎった。

「……ごめんなさい、無理に問いただすつもりはなかったの」

 私の髪から、杏さんの手が離れる。

「でも結依、聞いて。わたしは、NOAHのセンターは御前結依だと思ってるわ。リカもきっと同じことを言うんじゃないかしら。あなたにはちゃんと実力がある」

「な、ないです。そんなの……」

 おそらく杏さん、私の悩みを把握してくれていた。私が杏さんやリカちゃんに、埋まることのないキャリアの差を感じ、劣等感を抱いてるって。

「自信を持って。おまじないしてあげるから」

 発破を掛けてもらって、ようやく私は顔をあげた。

 杏さんが綺麗な瞳で見詰めてくる。私も遠慮がちに、その瞳を覗き込む。

「じっとしててね、結依。あ、あなた、こういうのが好きみたいだから……これで」

「……あ、杏さん?」

 胸がとくんと高鳴った。

最初に驚きがあって、戸惑いもある。でも私の心を波立たせているのは、恥ずかしさと期待を孕んだ、心地よい高揚感だった。

杏さんも緊張していて、照れる表情がいじらしい。それが私に動悸をもたらす。

「ふ、深い意味はないの。ただ、ちょっとだけ……い、嫌ならいいのよ?」

 私も嫌じゃないから、困ってた。

 歌がとても上手で、面倒見がよくて、優等生で……でも脆いところもある、杏さん。私なんかじゃ釣りあいが取れないくらい、才能と可能性に溢れてる。

それでも杏さんは私を見詰め、おもむろに目を閉じた。

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