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ほずみ
1
「ちかごろ、不思議な夢を見るんです」
穂坂は宙に向かってつぶやく。そうしてカフェオレで満たした紙コップを手に取った。視線はほの暗い室内を所在なげに揺れ、湿度の高い空気に慣れた指の腹が紙コップに吸い付く。はす向かいの樋川が、大義そうに顔を上げる。二人しかいない事務所には、先程から長雨の音だけが満ちていた。
樋川の濃いアイラインを視界の端で認め、穂坂はカフェオレに口をつける。クリームをたくさん入れたおかげで、凝り固まった舌がすこしふやけた気がした。ふぅ、と息を吐くと、喉の奥に軽やかなコーヒーが香る。
「私は、空に浮いているんです。それでぼおっと、どこかの暮らしを眺めてる」
穂坂は紙コップを机に置いて、背もたれに体重を預ける。同時にどこからか抱いていた緊張のようなものが、すっと体から抜けていくのを味わうように確かめる。息を吐いてゆるゆると両腕を上げ、体を起こしてうぅん、とぐっと伸びをした。息を吸えばすっと肺の奥まで空気は届く。が、その空気は生暖かく、質量を感じる空気であった。
「なんというか、昔みたいで。もんぺとか、そんな格好の人ばかりなんです」
「ドラマの話?」
樋川は頬杖をついて体を穂坂に向ける。頬に添わせた指の先から手の甲を走る筋にかけてを、雨垂れの窓景から僅かに漏れた光がほのかに照らしている。湿度と体温で僅かに湿ったブラウスが擦れる音がする。穂坂は耳にかかっていた髪をかけた。
「いえ、それがある日急に見るようになったんです。夢って言いましたけど、本当にその場にいるみたいなんですよ。街の喧騒、雨上がりの蒸し暑さ、どこかでサンマを焼くにおい」
「へえ、リアルだね」
樋川が相槌のためにやや口元を上げる。それに対して、穂坂は分かりやすく眉を寄せる。
「でも、話声だけが聞こえないんです」
「ふぅん、それは不思議だ」
樋川はぱちりとまばたきをして、自身の紙コップに口をつけた。
「ですよね! 皿がぶつかる音だって聞こえるのに!」
それに乗っかるように、穂坂は机に腕をついて前のめりになった。硬く冷たい感覚が腕から背筋を通って目が冴える。
「私、ずっとある人の上で浮いてるんです。緒月さんといって、小学校の先生をしながら小説を書いている人なんですけど」
樋川はカップをトンと机に置いて、目で穂坂を促す。それを待つか待たないかで、また穂坂は続ける。
「声が聞こえないからちゃんとは分からないけど……生きづらそうなくらいまっすぐな人です。小説を書くときも万年筆に迷いがない。きっとやさしくて、いい人なんだろうなって思います」
「なに、イケメンなの」
「い、!? そんな話してないじゃないですか!」
イケメンなんだな、と言わんばかりに樋川はほくそ笑む。仕方ないじゃない、夢のひとを思うあんたの目が、初恋みたいにぼんやりしていたのが悪いんだ、と樋川は心中でごちた。実際穂坂は一瞬だけ、目が覚めているのに、どこか遠くを見る目をしていた。
「そりゃあ、塩顔で笑顔が素敵だなとは思いますけど……」
「あんたのタイプじゃん」
「そんなことはいいんです!」
穂坂はむきになったように、更にずいと身を乗り出した。
「ひとつ問題があって、緒月さんなんだか警察の方に目をつけられているみたいなんですよ」
好きな人が誰かに意地悪をされている、とでもいった風に穂坂は眉をしかめる。しかし、と樋川は頭を巡らせる。無理もない話だ。夢ではあるが、もんぺなんだから時代は恐らく大戦中、そんな時に小説なんて書いていようものなら、逆に今まで捕まっていないのが不思議なくらいだ。
「まあ、大変だね」
「はい。最近なんか作家仲間が一人減り、二人減り……」
穂坂は稲川淳二のように肩を上げて首をすくめる。
「生々しいな」
減る、とはつまり。樋川が嫌そうに目を細めたのを見て、穂坂は肩を下ろして机へ向く。
「緒月さん、仲間がいなくなった日は決まって港に行くんです」
そうして机に伏してしまった。
「穂坂?」
「……彼はずっと海を眺めてる」
穂坂は伏せながら、樋川から見えない方へ少し顔を向けた。
「どうして私は、なぐさめてあげられないんでしょう。まるで幽霊みたい。体をばたばた動かしても、浮いている身体では隣に立つこともできない。お腹から目一杯大声を出しても、どこにも届くことは無い」
そこで穂坂は、ひとつ息を吐いたようだった。
「私にできることは、緒月さんと一緒に室蘭の海を眺めるだけです」
「……室蘭?」
樋川はマグカップに伸ばしかけた手をぴた、と止めた。
「あ、そうです! だから樋川さんにお話しようと思って」
穂坂はがばりと体を起こした。大切なことを忘れていた、といったふうに。
「最近気づいたんですけど、夢で見るまちが、この前取材で行った室蘭そっくりなんです」
「へえ?」
「そういえば夢を見るようになったのも室蘭に行ってからで。何か変わったことしたかなーって、考えてたんですけど」
穂坂はペン立てから一本引き抜いた。それで樋川も思い至る。
「それ、」
「そう、これ!」
穂坂はペンをずいと樋川に見せる。それは所々塗装の剥げた、やけに古そうな。
「樋川さんに買ってもらった骨董屋さんの万年筆!」
樋川は数か月前の出来事を思い出した。いつまでも下っ端臭の抜けない後輩に、気まぐれに買ってやったのだった。
「あそこは骨董っつーか、リサイクルショップだけどな」
「まあ、そこはなんでもいいんですよ」
穂坂はペンを窓の光に透かして見上げた。雨の昼間のぼんやりとした輪郭を持たない明るさが、光沢を失った万年筆にひっそり宿っているようだった。
「もしかしてこの万年筆、緒月さんが使ってたものだったりするのかなあ」
またしても遠くを見つめる後輩に、樋川はひとつ咳払いをしてつっつく。
「じゃ、あんたもいい文章が書けなくちゃな」
「ウッ」
穂坂は一気に顔をしかめて、それからのっそりと樋川へ向いた。
「今そういう話します?」
今度は樋川が机に頬杖をついた。
「今も何も仕事中だぞ。ここはしがない地域の印刷屋。作ってんのはまちのお得情報雑誌と、」
「くいしんぼうペーパー」
「とりっぷりん!」
いじけた声の穂坂に、いじっぱりの声で樋川は返す。
「津々浦々プリンを食べ尽くし、紹介し尽くす使命があるんだよ」
とりっぷりんは樋川が半ば道楽でやっている情報紙だ。穂坂も入社してから今までカメラマンとして取材に同行している。樋川は地域に留まらず日本全国どこへでも行った。室蘭もそれで行ったのだった。
「最近プリン食べてないじゃないですか」
「ネタ切れだ」
「やっぱりくいしんぼうペーパー、いやチラシの裏」
「ほう、喧嘩を売りたいと見えるな」
樋川は身を乗り出した。しかし穂坂は面倒そうに紙コップに口をつける。ぬるくなったカフェオレはもったりと喉にまとわりつく。飲み下せば、吐く息は重い。
「売りたくもなりますよ。しがなすぎるんです」
穂坂は窓の外を見た。熱の籠もった地表を覆うように長雨は降り続ける。その雨雲が今まさに自分にまでも覆いかぶさっているような錯覚に陥る。
「……ペン一本で頑張ろうと入社した割には」
「つまらない?」
樋川は腰を落ちつけ直して穂坂を見やる。
「やりがいというか、手ごたえがないんです。折角夢だった記者になれたのに」
樋川は紙カップに残っていたコーヒーを呷った。インスタントの単純な苦さが喉を過ぎる。
「まあ、ここを選んだ自分を責めるんだな」
「責めました。責めまくった末に、大先輩樋川さんにお尋ねするんですが」
「あ?」
穂坂はなにか意を決したように、樋川に向き直る。
「うち、大手の出版社にコネありますよね」
一拍置いて、樋川は理解した。
「やめとけ」
「知ってますよ! 大手はなかなか書かせてもらえないとか、なんならブラックだとか!」
「就活の倍率が高い割には新人がすぐ辞めるとか」
穂坂は今にも立ち上がらんとするごとく拳を振り上げた。樋川はそれを醒めた目で見る。
「ばっちこいです。転職してやりますよ、やりますとも! 私はただの記者になりたいんじゃない」
穂坂は振り上げた拳を静かに机へ置いて、熱を帯びた目で樋川を睨んだ。
「本物のジャーナリストになりたいんです」
樋川は、湿気った導火線からもやりと僅かに煙が上がるように、少しだけ自分の心が動いたのを感じた。
「へえ、それ口だけだと思ってた」
「口だけで三年も言い続けますか!」
穂坂は今度はドンと机を叩いた。事務所に二人しかいないからって容赦がないな、しかし。と樋川はぼんやり考える。穂坂が記事の懸賞で小遣いにしては贅沢な額を稼いでいることは確かだった。
「でも三年言い続けて何で今なんだよ」
「夢です」
穂坂は樋川の目を見て、きっぱりと言った。
「緒月さんが危険を冒してまで書いている姿を見ていたら、自分はこれでいいのかって」
樋川は少し気が遠くなった。こいつは、その夢に何の疑いも持っていない。
「紛らわしいな。夢に夢の背中を押されたってか」
「そういうことです」
穂坂は再び拳を振り上げた。
「とにかく! 私はやりますよ。今日から転職活動を!」
「文には、」
一転穂坂はぎょっとして、拳をゆるゆると机に戻した。樋川の声に、今まで聞いたことのないような硬さを感じたからだ。そっと樋川の顔色を伺うが、常に大義そうなその表情から変化は感じ取れない。が、その目は穂坂の双眼を捉えている。
「文を書くにあたっては、決めなきゃならないことがある。そいつを誰に、何のために、どうやって書くかだ」
じっと静かな樋川の目を受け取って、穂坂はその言葉を反芻した。一滴も漏らしてはいけないような気がしたからだ。
「ターゲットを絞るってことですか」
「もっとシンプルに考えろ。そう、書くこと、そのものについてだ」
樋川の目はいつも醒めている、と穂坂は思っている。が、その意味を考えたことは無かった。
「あんたは何のために、本物のジャーナリストになりたいんだ」
「それは」
「そのためにはどんな文を書けばいい」
穂坂が二の口を継ぐ前に樋川は続けていく。
「どんな文って」
「緒月はどうだった?」
その名前に、穂坂は目の前で何かがピシャンと叩きつけられた心地がした。そこに重要な何かがある。のに、それが何かが分からない。思考がまとまらないまま、穂坂はほろほろと言葉をこぼす。
「いや、でも緒月さんが書いてるのは小説で、おはなしで」
すると樋川はふぅっと息を吐いて、その目をゆるめた。
「あんた、やっぱり知らないんだな」
「え?」
樋川はデスクの引き出しを開けて、そこから一冊の本を取り出した。じっとその表紙を見て、穂坂に渡す。穂坂は、おずおずと手を伸ばして受け取った。
「緒月源心。室蘭で活動した、市井の作家。まあ知られたのは戦後だけど」
古ぼけた布みたいな表紙に、剥げかかった箔押しで「緒月源心全集」の文字。
「めくってみな」
例の夢みたいに、体がふわふわ浮く感覚がした。声に導かれるように一枚、二枚とめくってみると、ベタ打ちのような目次に辿り着く。
「え、そうそう、このお話書いてたんです!」
目次の最後には見知った題名。慌ててそのページを開くと、そこにはやはり見知った話。
「この間ようやく完成して、よし次の話を書くかーって言って」
驚きのままに顔を上げる。と、醒めた目の樋川がこちらをじっと見つめていた。ひゅっ、と喉が鳴りそうになる。
「ちゃんと見てみな」
何が何だか分からないまま、穂坂は黄ばんだページに目を戻す。そうして一瞬、目を疑った。
「……遺作?」
「遺作だ」
穂坂は顔を上げることができなかった。たった二字が、穂坂を縛りつけている。
「緒月源心は、七月の室蘭艦砲射撃で亡くなるんだ」
樋川の声が地を這って、足先から心臓へ届くのを、穂坂はよけられずに受け止める。手の中に収まる古びた本を、気の遠くなるほど遠くに感じた。
「緒月は同人誌に多く書いた。けれど掻き集まったのはこの一冊分」
日焼けした紙束に打ち付けられた穂坂を置き去りにして樋川は続ける。
「時代が違うなんて思わない方が良い。ましてやジャーナリストなんてマッチひと擦りでトぶもんだ」
穂坂は、なにか大事なものを抱えてしまった心地がした。それが何かがはっきり分かるようでいて、口に出そうとすれば霧散してしまうような危うさがある。
「それでも書くか。なんのために書くんだ」
樋川が浅く息を吸ったのを、穂坂は聞いた。
「過去に一矢報いたいだけじゃないのか」
途端穂坂はガタリと大きな音を立てて立ち上がった。本をそっとデスクに置いて、そうしてじりじりと焼き切るように樋川を睨む。
「それだけは、言われたくありません」
眉を寄せて、穂坂は事務所を出た。樋川はそれを見送って、マグカップを手に取る。傾けて、先程薄いインスタントを飲み干してしまったことを思い出す。カップの底を見つめて樋川は舌打ちした。
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