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「近頃、不思議な夢を見るんですよ」

 ぼそりと、緒月は呟いた。防空壕に満ち満ちる啜り泣きの声に、消え入るか入らないかの声。隣に腰を下ろした警官は、人々をぼおっと見ていた目を、ゆるゆると緒月に向けた。緒月もまた、狭い空間にひしめく人々を見つめていた。

「どうせ、小橋さん暇でしょう? まだ外には出られないんですから」

 耳を良く傾ければ、微かに聞こえる戦闘機のエンジン音。そして未だ耳に残るのは、息をついた頃に降る夥しい鉛玉の音。もう随分経ったろうか。とてもじゃないが、まだ外になんか出られそうにない。もしかして、外にはもう出られないんじゃないだろうか。穴ぐらは、息苦しい。

 小橋はじっと緒月を見て、続きを促す。緒月はそれを目の端に認め、小さく息を吸った。

「僕は空に浮いているんです。それで、どこかの暮らしを眺めてる」

 夢の景色を思い出す。色とりどりの、華やかな世界。

「凄いんですよ、みんなモボやモガ、いやもっと奇抜な格好をしていて。きっと独逸でも亜米利加でもあんな人たちはいない。あれはどこの街だったんだろう」

「そんな話でも書いているのか」

 小橋が口を開いた。地を這う低い声だ。緒月は横目でちら、と小橋を伺った。ぼんやりとした目だ。普段の厳しい彼からは、想像もできない目だ。

「何のことです?」

 緒月は顔だけ小橋に向けて、笑ってみせる。くぐもった穴ぐらに酷く馴染む。

「もう良いだろう」

 小橋の目は力なく、それでもじっと緒月の目を捉えている。

「手の込んだ暗号の書簡も繰り返せば怪しまれるとは思わなかったのか」

 その目の底の見えないことに、緒月は吸われてしまう予感がした。

「まあ、いい。街もこうなってしまえば暫くお前らの見張りも出来ない」

 緒月は作った笑顔をほどいて、体を少し小橋へ向けた。

「それもそうですね。でも、そんな話は書いていませんよ」

 ものを書いていればそれだけで勘繰られるもの。緒月は作家仲間たちと、「書いていない」の一点張りで小橋たち警察から逃げ回っていた日々を思い出す。捕まったり筆を置いたりして、随分仲間は少なくなった。その仲間たちも、無事に逃げおおせているだろうか。脳の片隅でそんな事を考えながら、緒月は夢を思い出した。目はその夢を追うように、すっと遠くなる。

「ええ、それはもう本当に、その場にいるみたいなんです。花開く笑い声に、通り過ぎる風のにおい。まあ、何を喋っているのかは、よく分からないんですけど」

「日本じゃないのか」

 小橋の方も体を緒月へ向けて、防空壕の土壁にゆっくりと体を預けた。穂坂はゆるゆると首を横に振る。

「日本ですよ。金髪の人だって日本語を喋るんですから。聞いたことの無い単語を使うんです」

「それは不思議だな」

 小橋は微かに笑った。そうして、夢を覗くように緒月の目を見た。緒月はやわく頷いて続ける。

「それで僕は、ずっとある女性の頭上に浮かんでいるんです。まるで幽霊だ。触れやしないし、声も伝わらない」

 幽霊、と小橋はつぶやく。夢の中のたとえ話が、防空壕の狭い空間と重なる。まるで予知夢のようだと思った。

「その女性ね、何か書く仕事をしているんですよ」

 緒月はぱっと夢から現世に戻ってきたように、目の焦点を小橋へ向けた。

「珍しいな」

 僅かに驚きつつ、小橋は緒月の言葉に乗る。女性が仕事をしているのだって珍しいのに、もの書きだなんて日本には指折りで足りるほどしかいないだろう。緒月の夢の不思議な世界に、僅かに興味がうずく。緒月はまた目を夢に戻した。

「若くて、毎日を一生懸命生きていて」

 小橋は、緒月の目に何かがゆらめいたのを見逃さなかった。

「だけど、ずっと迷っている」

 それは、緒月自身だった。夢の女性と自分を重ねている。遠い目が見ているのは、本当に夢だろうか。

 おもむろに、緒月は懐から何かを取り出した。万年筆だ。インクは入っていないようだが、それでもこびりついたインク、はげかかった塗装から、使いこんでいることは容易に受け取れる。緒月はそれを目の前に掲げた。遠い夢に透かしているようだった。

「何を書くか、どう書くか。それで己はどうしたいのか。熱くて野心を持っていて、持て余しては頭を抱え」

 緒月は雪崩れるように言って、言い淀んだ。そうして少しずつ、選んで地面に並べるように続ける。

「僕は、それが羨ましい。あんな純度が高い炎、ついぞ僕などは持ち得ないでしょう。けれど、」

 いつの間にか、緒月の目は小橋をまっすぐに捉えていた。

「僕は、心底嬉しいんです。彼女が胸に抱えた熱は、まさしく僕も抱える熱だ」

 ああ、こんな話を聞くつもりじゃなかった、と小橋は心中でごちる。小説だってどうせたかが遊びだと思っていたから、今まで真面目に追いかけてこなかったのに。緒月の万年筆を持つ手に、僅かながら力が入っていることにも気付いてしまった。

「しかし、今書いて誰が読むんだ。まさか挙国を書いているのでもないだろう」

 緒月はまばたきをして、力なく微笑む。

「私は右も左も興味はありませんよ。でも、そうですね。折角北海道に疎開している出版社だって、もう頼れそうにない。それは、勿体無いですね」

 そうして緒月は穴ぐらを向いた。誤魔化し笑いの表情がひどく寂しく見えた。目を逸らすように、小橋も穴ぐらを向く。怪我人数名。しかし重傷者はいないようだ。きっとこの後病院は逼迫するだろう。いや、病院は確実に潰されているか。そうすると自分も治療に充てられるかもしれない。脳を回し始めながら、小橋は手袋を脱いだ。もう長く使っていてぼろではあったが、また今日一日で随分と擦り切れてしまった。

「指、」

 ひそめるような声を向く。いつの間にか緒月が小橋の手元を覗き込んでいた。

「どうされたんですか」

 小橋は声につられて己の指を見る。右の薬指と小指が欠けている。

「若気の至りだ。誰にでもあるだろう、お前はどうなんだ」

 からかうように投げかけてやれば、しかし緒月は思案気に小橋の欠けた指の付け根を眺める。

「ペンを取ったこと、でしょうかね。本好きの少年でいれば良かったのです。デモクラシーや闘争になんて気がつかずに、ただ物語を楽しんでいれば」

 そこで緒月は言葉を切って、再び小橋をまっすぐに見た。

「取ったペンは離せないものですよ。丁度振りかぶった剣を下ろせないようにね」

 小橋は漸く気がついた。緒月は、意図的に自分に挑んでいるのだと。

「俺の耳は国家の耳で、俺の目もまた国家の目だ」

 小橋は眉間に皺を寄せて緒月を真正面から睨む。

「続きによっては、やはり無理やりにでもお前を特高に引き摺り出すことになるぞ」

穴ぐらに眼光が鈍く灯るのを緒月は見た。しかし眼球の表面に揺れる光の奥、瞳の底は深く暗く、何処に在り何を写すのか分からない。けれど何かを捉えて離さないような、じわりとした力が見える。その深さが灯す眼光を緒月は丁寧に確かめる。そうしてなんでもない、といった風にゆるりと防空壕を見渡した。

「私は、この有り様を書かなくてはならないと思っています。それは学者のように正確にでも、新聞のように劇的にでもない」

 小橋はなおも緒月を睨んだ。睨まなくては、この男のせんとする所を見極めなくては、と思った。緒月の目は塞いだ防空壕を向きながら、怒りでも哀しみでもなく、ただまっすぐであった。

「もっと、読む人にこの温度や匂いが分かるように、書かなくてはならないのです。しかし、」

 緒月は口をつぐんだ。そうして、はじめてその目を地面へ下ろした。小橋の耳には、ふたたびすすり泣きが聞こえてくる。それで自分が、緒月の言葉にいやに集中していたのだと気付いた。緒月は下ろした手に持った万年筆を見つめながら、言葉を探して、恐る恐る口を開いた。

「書けば書く程に、それは作り物と成ってしまいます。陶器で作り上げた白鷺は、やはり陶器でしかない」

 小橋は目を細めた。思案気に俯く緒月の横顔こそが陶器のように光って見えたからだ。この男は、自分の考えの及ばぬことをしようとしている、それだけは分かった。だからこそ、放っておけないと思った。

「陶器の鳥でも、鳴かずば撃たれまい」

 緒月は思わず顔を上げた。そうして隣の男を見た。依然睨み顔。先程からずっとこちらを睨んでいたのだろうか。

「柱を増やして水害が止められるか」

 緒月は目を丸くした。それは、ふるい昔話。歌ってしまったばっかりに、やさしい父をうしなった、ある娘の話。学校の教本にも載っていない話を、どうしてこの武骨な男が知っているのか。

「私は、貴方のことを何も知りませんね」

「何度も飲んでいただろう」

「でも貴方、自分の話はしないじゃないですか」

 小橋は、酒場で出くわした時には何も言わず、それどころか世間話をふっかけてくる男だった。が、そういえば郷里の話などは、どうもかわしていたようだ。

「どうして警吏に?」

 緒月は小橋の目をまっすぐに見た。奥にあるものを覗き込むようだ、と小橋は他人事のように思った。

「さあな。だが、」

 小橋は一瞬、虚空を見た。深い瞳が遠くを向いた彼の目には何が映っているのか、緒月は想像もつかなかった。

「手に届くものなら、俺は守れると思った」

 だが、その目はすぐに緒月へ向けられる。

「お前の書くものは、いつか読む者に届くかもしれない。だが、お前の手は読む者には届かない」

 緒月は、ようやく彼の言い分を理解した。お前に何ができると、そういうことだ。

「私では、柱にもなりませんか」

 緒月は力なく笑って、土壁にもたれた。

「それに、柱が何本建ったのか誰が覚えている」

 小橋の目に再び力が入る。頭上に死が広がるいま、その気力に緒月は感心した。

「しかし、」

 それでも緒月は譲る訳にはいかなかった。

「たとえ朽ちた柱でも、墓標にはなるでしょう」

 トン、と緒月は万年筆を地面に立てた。誰の、と小橋は聞けなかった。一人分の墓標とは、到底思えなかった。

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