奔逸
儚霞世
奔逸
たった一度の失敗をしてしまうだけで
きっと全てが剥がれ、崩れてしまう。
だから目立たないように、この世界の淡色に紛れるように暮らしている毎日だ。
私の人生だから、私が主役だなんて誰が決めたのだろう。
この広い世界にはきちんと配役が決まっていて、
それぞれの配役には限りがあるのだ。
それが真理というものである。
今日も他人の顔色ばかり伺ってパソコンを叩き続けた。
そんな風に自分を押し殺しているうちに
「本当」とされている自分さえ見失ってしまった。
残業を終え、電車に乗る。
車窓から見える暗い街のなかに無数の光が見える。
どこかの家庭やお店からの輝きなのだろう。
今の私には眩しくて嫌悪感さえ感じる。
電車を降りて、閉店間際のスーパーに寄ってお弁当を買う。
いつもの帰り道。
住み慣れた賃貸マンション。
鍵を開けて、中に入って、また鍵を閉める。
いつもと変わらない。
何ひとつ変わることのない毎日の繰り返し。
真っ暗な部屋の電気をつけ、ソファに座り
目の前の鏡をふと見上げたら
そこには疲れきった女の顔があった。
「これは誰なんだろう」
そう思った瞬間、なんだか全てが嫌になって
心臓の奥深いところにある黒く濃ゆいものがパンと弾けた。
もうその場から、いや、この世界からただただ居なくなりたくて
自転車の鍵だけを手に取り、部屋から飛び出した。
ひたすらにペダルを漕いで走り続けた。
行くあてもないのに必死に闇の中を彷徨い続けた。
まるで此処からの出口を探すように。
何時間走っただろう。
ふと顔を上げると見慣れたビル。
いつの間にか数時間前までいた会社の前に辿り着いていた。
いくつかの部屋の電気がついていた。
そんな会社なのだ。
いつものこと。
自転車を降りて、中に入る。
エレベーターではなく、階段を使ってひたすら上を目指した。
上が近づくと、下が恋しくなる。
でも大丈夫。またすぐに戻るから。
息が切れるたびに、嫌でも自分が此処に存在していることを知る。
とてつもなく不快だ。
屋上へと続くドアを開けた。
額と首筋に風が触れた。
汗をかいていたことに気付く。
冷たい。
冷たいという感覚だけは分かる。
その逆は最近全く分からないし、それがどんなものだったかも忘れてしまっていた。
広い空を遮るフェンスに歩み寄ると、
まるでこの世界に閉じ込められているような感覚に陥る。
ああ、やっぱり私は囚われていたんだ。
どうやってこれを登ろうか、とフェンスに手を掛け、足を掛け考えていると
後ろから声が聞こえた。
「一緒にいかない?」
振り返るとスーツの男がいた。
見たことのない顔だが、うちの社員だろうか。
まあここにいるんだからそうに違いない。
「…え」
「いこうよ」
男は整った顔を緩め、微笑む。
すらっとしていて、小綺麗で。
これが世間でいうところのかっこいい部類の生き物なのだろう。
「…」
「だっていきたいんでしょ?」
そう言うと男はポケットに入ったソレを出して、私に見せた。
最初はよく見えなかったが、月明かりに照らされて
ソレが少し輝いた。
その瞬間、生温い風が私の胸に入り込み、
こびりついていた黒く濃ゆいものを全て吹きさらっていった。
ああ。きっとこの男は私を本心から包み込んでくれる。
男が救世主のように思えた。
「……いく」
咄嗟に言葉が出た。
男が居なくなってしまう前に、消えてしまう前に
伝えなければという気持ちが口元を焦らせた。
「だと思った。大丈夫、僕なら君を連れていってあげられるから」
男は私に歩み寄って、また微笑んだ。
本当に優しく柔らかく表情をつくる人だと思った。
この感覚はなんだろう。
信頼?
期待?
恋?
よく分からない。
ただひとつ分かることは、彼は私を必要としているということ。
私も彼を必要としているということ。
いく理由はそれだけで十分じゃないかな?
難しい理屈なんて必要ない。
彼は私のドアなのかもしれない。
入り口も出口もなかった私に道を示してくれた。
きっと新しい世界を見せてくれる。
その先がどんなものであっても
私はそこへいく。
脈打つ感覚をこの体全身で受け止めながら、
冷たくも温かくもない彼の手を取った。
奔逸 儚霞世 @kayontea
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