僕は光より速い風

古川

1


 僕の朝は、美々ちゃんの家の外壁になることから始まる。

 赤茶色のレンガでできたそこに背中をぴったりと付け、色味、質感、凹凸を、僕の体の表面で再現する。ゆっくりと何度か呼吸をしたら、もはや僕は壁である。そうして朝日を浴びながら、美々ちゃんが出てくるのを待つ。


 美々ちゃんはおっちょこちょいで、朝はいつも寝坊する。急いでごはんを食べているみたいで、頬っぺたに卵の黄身を付けていたり、前髪にごはんの粒をつけていたりする。今日は大丈夫かなぁ、いつもよりすでに二分くらい遅いなぁと思っていたら、美々ちゃんの声。


「行ってきまぁーす!」


 玄関のドアをすごい勢いで押し開けて、美々ちゃんが飛び出してきた。僕の前を通過する美々ちゃんが靴と間違えてコッペパンを履いているのを視認してから、壁から体を剥がして締まり始めているドアの隙間へと滑り込む。玄関に並ぶ美々ちゃんの家族の靴の中から美々ちゃんのローファーを掴み取り、ドアの隙間をすり抜けて再び外へ。

 もう道路へ出てとたとた走っている美々ちゃんの背中を確認しながら、僕は電柱へ飛び移ってその頂点まで駆け登る。空間を横に走る電線へと体を擦り込ませ、その線に沿って前進する。


「ふぇ~ん遅刻しちゃう! 私のばかぁ!」


 美々ちゃんはいつもと同じことを嘆きつつ走る。目覚まし時計の設定を午後と間違えたままなんだろう。もうこれで28日連続だ。いつになったら設定ミスに気付くのかなぁ、と思っていると、道路の先に気配を感じ、僕は進行速度を上げる。野良犬だ。犬は空腹のようで、美々ちゃんの足に履かれたコッペパンの存在に嗅覚で気付く。舌の先によだれを垂らし、すぐさま美々ちゃんに向けて突進し始めた。


 僕は電線から抜け出して地上へ着地。そのまま道路へと体を潜り込ませてアスファルトになる。爆走する犬の足元へ猛スピードで這い進み、道路を瞬間的に隆起させて犬を弾き飛ばす。キャイン!という甲高い声が上空へと消えていくのを聞きながら、今度は美々ちゃんの足の裏へと体を押し進める。


「わぁ~! あのワンちゃんすごいジャンプ力~!」


 空を見上げている美々ちゃんの足元の道路を優しく押し上げ、ほんの少しだけ美々ちゃんを宙に浮かす。


「ひゃっ!?」


 浮かんだ足先へと手を伸ばし、そこにあるコッペパンを抜き取って、代わりにローファーを装着する。ふわりと広がる美々ちゃんのスカートの中に思わず視線が行きそうになるけど、僕は僕のやるべきことに専念するためにまたアスファルトに戻る。美々ちゃんは平らになった僕の背中の上に、靴底をとんっと鳴らして降り立った。


「ん、あれ? なんか私、さっきより走れそうな気がする!」


 コッペパン装着時よりも幾分か安定した走りで登校を再開した美々ちゃんにほっとし、僕は道路脇にある木の根を這い登って枝になり、その先に茂る葉になる。


「はぁ~、いいお天気!」


 美々ちゃんが足を止め、目を細めて太陽を見上げる。

 僕の体の周りから零れ、地上に降り注ぐ朝の光。美々ちゃんの頬の上で、葉の形をした影が揺れる。今朝はトーストを食べたようで、その口元にはいちごジャムがついている。


 美々ちゃんはいつも、美しい景色に足を止める。綺麗な時間を見落とさないのだ。僕はそんな美々ちゃんを、とても可愛いと思う。風に揺られながら、僕の心はふんわり柔らかくなる。


「あ、いけない! 遅刻しそうなんだった!」


 美々ちゃんはまたとたとたと走り出す。その襟元に、リボンと間違えてヘビが結ばれているのを視認してから、僕は枝を伝い幹を滑り降り、道沿いに続くガードレールへと飛び込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る