異形の修道士は花を摘む

柏木

序章

異形の修道士

 今宵の宿は中々に上等だ。

 暖かい温泉とやらが在り、新鮮な海産物を提供し、ふかふかで心地の良い寝床を提供してくれるのだから。

 だが。此れは毎夜の恒例行事、厄介な問題が一つだけある。

 寝台の縁に私を座らせ、私の服の裾を握り、身に腕を回す此の存在である。私の深い溜息が響く。


「昔話ですか。あなたは、何回、何十、何百とこの話をきいているでしょう。……嗚呼。

 あからさまに眉を下げて、毛布にのの字を書くのは止めなさい。

 だからと、私の背中に文字を書き起こすのもやめなさい。何と言いますか。虫唾が。

 ……、…わかりました。よく耳をすませてください。眠るまでですよ」




 遙か昔、自然に宿る精霊が、未だ様々な人の眼にも見えていた頃。

 謂われ無き魔女裁判に掛けられた数多の人間を守らんと、十字を切る腕を拡げ人々の前に立ちはだかり、悪魔の使徒等と蔑まれ嬲られ、果ての無い拷問の末に死んだ修道士がいた。

 人の為に野良仕事を熟しながら、一方で人の為にその罪の意識を共に被っていた修道士だ。

 無実の罪に因って貶められた人間達を、無残に殺されたその修道士を、神は憐れんだのだ。

 神は、人の憎悪に塗れてしまった修道士の魂を長らく長らく癒やすべく地獄と程遠い籠に閉じ込め、死という概念を除け、人の身を模してこねくり作り上げた人形の器に、満を持してこの魂を詰め込んだ。

 怨恨に浸かってしまった魂に、束の間に覗き込むうたかたの夢を見せるべく。

 修道士がかつて生きていた頃、為し得ることの出来なかった外の世界を見る為の船に。

 それが私という、人の形をとる物だ。

 人では無い。悪魔でもない。天使でもない。何物でもない、人に似た何かだ。

 暗闇で灯る一本の蝋燭を憮然と眺めるよう、私という概念は認識できても、それ以外の何物も理解できなかったのが、私だ。

 ほんの少し前のことだ。たった一本の蝋燭がふっと掻き消え、暗闇と思っていた景色が一変したのは。

 何もない地に草木が生い茂り、鮮やかな花が顕われ、随分久しい空の青が眩しく、月の明るさに視界が明滅する。

 何処か遠くの景色を見ているのか。それとも夢幻の世界に落ちてしまったのか。

 一寸。僅かながらに垣間見た、ずっと昔に見たような景色は、残念ながらすぐに見えなくなる。


"人の為に身を挺したお前が、如何なる悪人を穿ち刺し殺したとしても、私はお前を咎めない"

"人の為に心を壊したお前が、如何なる善人を癒やし救い助けたとしても、人はお前を許さない"


 風の吹きすさぶ砂の荒野に降り立った時、私はそう告げられたのだ。


「神よ。"私"は何をすればよいのでしょうか」


 先まで頭に響いていた神の声は、私の野良声に応えることは無かった。

 ゴホン、と喉を鳴らす。ゴホンゴホン、また喉を鳴らす。

 ああ。ああ。嗚呼。

 十字を焼き切らんと押し寄せる民衆を糾弾していた名残か。それとも、神を愛し人を愛することができなかった事への咎か。

 壮年を過ぎたぐらいの野良声は、自分で言うのも難だが、好きになれそうにない。



 かんかんと照りつける太陽に晒される、雄大に広がる砂地の荒野に、ぽつんと居並ぶ家家があった。

 "私"が初めて訪れたのは、どうにも寂れた集落である。

 ざっと存在するのは三十戸程度だろうか。貧相な造りの家が並ぶその集落で、私を歓迎する者はいなかった。

 いいや。歓迎することも、ましてや迫害することも、彼らにはできなかった。

 そして、彼らの有様に目を瞠ることも出来ぬほど、私は人の心のなんたるかを忘れてしまったようだ。

 

 家家の前には、数体の野晒しになった白骨が転がり、辺りには焼け落ちた瓦礫がたんと遺されていた。

 辛うじて家の形を保てている数軒を見て回ったが、どの家にも家主らしきもの、そうでないものも、たくさん散らばっていた。散らばっていたものは、無論白骨だ。

 色彩の失せた灰色の眼をしかと見開き、彼方此方、それこそくまなく見て回った。

 だが、生きとし生ける者の特権、呼吸をしている者は、見つからなかった。

 瓦礫や白骨以外で見つかったものといえば、一つだけある。


 悪を射殺す宵の明星ウェヌスのハルモニア


 一つ一つの弾丸や、白骨に突き刺さった侭の刀剣、人の命を蹴散らす道具総てにそれは刻印されていた。

 正義の旗に銃剣を交錯させた標記が指し示すのは、"彼ら"にとってこの村は罪悪その物であるという事だ。


「…………神よ。私が生きた時代から、この世界は、なんら変わっていないのでしょうか」


 私の独り言に応える声は、矢張り無かった。

 


 太陽が一番高くに登り、沈んで、月が頭上を通り過ぎ、再び太陽がこの荒れ果てた地を照らす。

 丁度一周した頃合い、私は総ての白骨を砂地の下に寝かせることが出来た。

 得体の知れぬ人間を模した”なにか”に成り下がった私だ。出来る事は、その痛ましい姿を他者の目に触れさせないようにすることしか出来まい。

 幾らの年月を経ているのかを調べてみたが、散乱する文献、遺された手記、その他諸々、照らし合わせてみたところ。

 私が未だ修道士として十字を切っていたのが三百年は優に昔であることが判った。

 砂の下に睡る彼らの状態から見て、死の淵に追いやった、悪を射殺す宵の明星ウェヌスのハルモニアが来訪したのは此処十年以内であろう。

 彼らは何を以て悪を射殺す宵の明星ウェヌスのハルモニアに断罪されたのだろうか。

 手に持っただけで砕けてしまった古ぼけた可愛らしい人形、以前は丁寧に弔われていたであろう過去の故人を偲ぶ整然と並んでいた墓地、戦いの道具よりもより多く遺されていたたくさんの裁縫道具。

 悪を射殺す宵の明星ウェヌスのハルモニアは何を以てこの村を断罪したのだろうか。


「……足を。進めましょう」


 何をすべきかなど今でも判らない。神は何故、私にこの世界を見せようと思ったのか。

 お前の守らんとした人間が築き上げた世界など、この程度だったと見せびらかす為なのか。

 判らない。

 着込む修道服は彼方此方がすり切れ、砂漠の夜を歩くには寒々しい格好だ。上に羽織るローブが無ければ、若しくは、私が未だ人であったならば凍死しても可笑しくは無かったろう。

 だが。

 重い足取りの赴く先が、神の知る道であるならば、私は口を硬く閉ざす事を喜んで強いられよう。



 地平線まで続くかと思われるほど、長い砂漠の路を踏破したのは、それからひと月を迎えた頃だ。

 久方振りに見る青々とした緑の森を抜けた先に見えたのは、水源に恵まれた自然豊かな小さな村だった。

 人口は凡そ百にも満たない。男の姿が見えず、女性ばかりの印象をうけたが、皆とても顔色の良い人間達だったと覚えている。

 砂に塗れた私の格好を見てか、古ぼけた修道服を見てか、幾人もの女性が慌ててすっ飛んできた。


「不躾な質問をなげてしまう事を詫びます、修道士様が如何様にしてこの村においでになったのですか!」

「方角からして砂漠の荒野からいらっしゃったとお見受けしますが、彼処はいまや"墓標"でございますよ!」


――私は。とても長い旅路を歩んでいます。墓標、と称された砂漠を越えるのもまた神の知る路を辿ったまでの事です。


「嗚呼、ああ、たいへん! お召し物がこんなにすり切れて、砂にまみれて……」

「急いで洗わなくてはなりません! さあさ、修道士様、どうぞ此方に!」


――いえ、折角ではございますが、修道士とはあくまでも神の道を修める者に過ぎません。此方の方々の手をお借りするのは大変申し訳が、


「行水の手配をいたします! お腹も減っていらっしゃいますでしょう、服のすり切れも繕いますわ! さ、ご遠慮なさらずに!」

「序でといってはなんですが、明日に神へ祈りを捧ぐのです、修道士様も是非礼拝堂にいらっしゃってくださいまし!」


――ありがとうございます。


 弾丸のように捲し立てる彼女達の覇気迫るものに圧倒され、私がこの村の世話になったのは言うまでも無い。

 彼女達が私の上着を剥ぎ取り、粗末な修道服を剥ぎ取り、流れるように行水を私へ熟した後。

 私は派手に見えるローブに揃いのジレや下衣等、矢鱈新品の服を着せられ、木の実や鳥を贅沢に使った食事を摂らされた。

 摂らされた、というのは決して大袈裟な比喩では無い。

 次から次へ、半端に魂を括りつけただけの見せかけの器にたくさんの食糧が押し込まれていったのだ。

 薄々と彼女達が何かをしようとしていたのは察せた。けれど私は、この美しい村の昼の景色をもう一度みたいと思った。

 既に人で無い私は睡る必要など無かったが、不審がられても損だと、私は宛がわれた寝台に身を横たえ、薄い壁を隔てて聞こえる彼女達の内緒話に耳を傾けていた。


「預言通り修道士様がおいでになったのも、我らが神が修道士様を欲したが故でしょう」

「あの修道士様、見目は襤褸を纏っても、あの砂漠を踏破した方ですもの、さぞかし力のある…」

「本当はもっと、あれよりも上等な服を着て礼拝堂へいらっしゃってほしい所でございますが…以前の贄のよう、逃亡されては甚だ後始末に困りますものね」


 私は其処で眼を閉じ、耳から入る情報総てを遮断した。

 ええ。

 これ以上の情報をもらったとて、私には意味のないものでしたから。



 朝も、数人前は有りそうなほど大量の食糧を腹に詰め込まれてから、私は彼女達の後について礼拝堂へと足を運んだ。

 毅然と並ぶ長椅子は皆神を冠する造形に面を向けるよう配置され、恐ろしく精巧に施されたステンドグラスからは彩られた木漏れ日が礼拝堂に注いでいた。


 その儀が執り行われたのは、太陽が真上を向く二時間ほど前の刻だったろう。


 私は祈りを捧ぐより、彼女達が神と崇める存在に眼を惹いた。

 礼拝堂より一段下に設けられた鉄よりも頑丈に設えられた檻の中、肉を貪り蹲る双頭の生き物がいたのだ。

 猫とも狗ともいえぬ胴体と四つの足を持ち、狐とも狸ともいえぬ尾と耳を生やしたそれは、醜悪なことに人間の首を擡げていた。

 否。もしかすると、私の見知っている獣に見えた胴体は人間の剥き身で、鋭い獣の爪に見えたそれは元来は人間のもので、頭部や尻尾につくそれは――

 眼を皿の様にして得体の知れぬ生き物を見詰めていた私が、祈りを捧ぐ事も忘れ、背後から手を伸ばす女性達の気配に気付かず檻へ突き落とされたのは言うまでも無い。

 私が住まうこの果ての無いほど広い世界には、本に書ききれぬほどの生き物が、精霊が、化物が棲まっている。

 そして、化物の頂点に立つ存在を、私はよく知っている。

 人間という種だ。

 人の姿を借りる私が、かつて人であった私が、人を守ろうとして死した私が。言っては、いけないだろうか。


「………神よ」


 此れは、なんなのだろうか。

 私の問いかけに応えるものは居なく、遙か上より、称賛とも怒号とも悲哀ともつかぬ女性達の荒げた声が降り注ぐばかりだ。

 左右にぐらぐらと揺れる人間の頭は、覚えている限り、確か一組ぶんの男女だと思えた。

 私の眼は更に見開かれる。

 脳味噌の重みの所為か大きくその頭を左右へ揺らすそのどちらもが、言葉すら発せぬまま、ただ静かに大粒の涙を流していた。

 上から見下ろす女性達には決して見えないであろう。


「私の知る世界が、未だ変わっていないことを、この眼に焼き付けさせて頂けたことを、幸福に思いましょう」


 私は神に祈り、この男女へ祈り、十字を切る腕に刃物を握り込んだ。

 


 私が礼拝堂を出たのは、太陽がより赤く染まり、夕闇が東の空を蝕んでいた頃だったろう。

 自らの信仰の信念を狂ったように叫び散らす女性の一人によって、私は村を出る迄の一週間ほど、作り物の片脚を引き摺っていたはずだ。

 痛くもない怪我を負った期間など覚えてはいないが、その女性が、私に特に親身にしてくれた女性だったことは今でもよく覚えている。

 澄んだ川の水を汲んで、作り物の片脚を清め、生前の私の師が教えてくれたように手当てを施す。 

 人っ子一人居なくなった村で、私は深く溜息を吐いた。


 彼の村を悪を射殺す宵の明星ウェヌスのハルモニアが断罪したように、私もまた、獣を、そして彼女達を、この村を、手に掛けた。その事実は変わらない。

 私が放り込まれた檻をよく調べた結果、あの獣の寝床らしき所には、数十人もの人骨が見つかった。その事実も変わらないだろう。

 年齢を問わず散らばっていたそれらは、何れもが男のものであった。

 男を贄に捧ぐ風習が生まれたのはいつの話なのか。あの獣を産んだのは女性だったのか。はたまた。

 そもそもこの村はなんなのか。

 尽きぬ疑問を諦観の澱む溜息と共に吐き出して、私は彼ら、彼女達を、この美しい村の土の下に隠すことにした。

 何度も何度も、私はあの檻の中へ身を投じ、白さだけが際立つ遺体を外へと運びだす。

 最後の遺体を腕に抱え上げた時、私は、積まれた遺体で隠されていた扉に気づいた。

 遺体で隠された扉。

 人ふたりですら横たえられない様な狭いこの場所には、枷をつけて囚われていた幼子がいた。

 その幼子は――――――………。




「……ようやく眠りましたか」


 寝台の縁に座り込み、古びた手記を片手にする私の後ろで静かな寝息が響いている事に、私は気付いた。

 いつから睡っているか。何処までその耳に入れていたかすら把握していない。何百と聞かせているにもかかわらず、続きからを所望したことがないのがこの子だ。序盤で睡っているのだろうと踏んでいる。

 が、私は、この話をしながらつい昔を思い出し耽ってしまい、独り言の様な言葉を繰り返して自らの世界に意識を閉じ込める事が数多ある。

 悪い癖とは自覚しているが、この様に話した方が、この子は睡りに落ちやすい。ような気がする。

 中途半端な姿勢で睡りに落ちたこの子の身を寝台に寝かせ、毛布を被せ、手もきちんと毛布の中へしまい込んだことを確認すると、私は寝台から立ち上がる。

 そして、寛ぐための椅子を引いて、寝台前に陣取り座り込む。古びた手記を机上へ置き、寝台傍にある蝋燭の火をそっと消す。

 睡る必要など私には必要無いが、腕を組んで眼を伏せ、座した状態で朝まで待つ。それがいつもの仕来りだ。


「―――せ…ん………せー……ぐう…」

「…………………」


 私は、深い息を鼻から逃しながら、寝言を零したこの子の頭をそっと撫でた。

 

 

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