第12話 木島尚之介 その七

 翌日、水野忠邦が辞職願を出すと、それにともない、役職の罷免、屋敷の召し上げ、尋問などが矢継ぎ早に実施されていった。そして、三月三日、水野は、ついに大名小路の屋敷を離れて内藤新宿にある駿河守屋敷へと移っていった。

 尚之介の花井への私刑が情状酌量の余地ありと見なされるようになったのもおなじころである。その判断の陰に、遠山左衛門少尉の影響があったのは言うまでもないだろう。

 尚之介の放免が正式に決まると、犬養が面会にやって来た。

「ちょっと顔を貸せ。お前に会いたがってるやつがいる」

 そう言って、犬養は尚之介を北町奉行所内の座敷牢から連れ出した。むろん、正式に釈放されたわけではないので、屋敷のなかをあっちからこっちへと移動するだけだ。

 うす暗い廊下を歩きながら、犬養が切り出した。

「復職する気になったか?」

 釈放を告げられた時点で、重追放の取り消しと役職の復帰、家禄の復活を約束されていた。

 尚之介にとっては最高の結末だろう。承諾をためらう理由などひとつもない。が、返事はいまだに保留のままだ。以前のように、迷いなくお役目をまっとうできる自信はまだなかった。

「まだわからん」尚之介は答え、しばらくしてからこうつけ加えた。「いろいろと片づけなければならないことがな……」

「あの大女のことか……」

 むろん、麻衣のことだ。

「それもあるが……」

「わかっていると思うが、この件がこれほど上手く片付いたのは、左衛門少尉様のおかげだ」いかにも面倒くさそうに、ため息まじりにつづけた。「だが、あの大女がいろいろと動いたことも無関係ではないだろう」

 犬養は、昼ひなかに大名小路で起こった老中襲撃事件の話を尚之介に聞かせた。

「その件に麻衣が関係しているというのか?」

「目撃された女の特徴があの女とぴったり一致する。下手人は鬼のように腕の立つ若い男だったというが……」

 まったく無茶をするものだと呆れるしかなかった。だが、なにより気になったのは、話に出てきた下手人のことだ。永井春平太にちがいないが、どうして永井はそんな麻衣の無謀な画策に協力したのか。そもそもなぜつきまとうのか。その真意を測りかねて、尚之介は内心首をかしげた。

 黙りこくっていると、犬養がチラリとこちらをふり返った。

「お前、その男に心当たりがあるか?」

「いや……」

 尚之介は答え、それきり口をつぐんだ。

 廊下の突きあたりまでくると、犬養が立ち止まって顎をしゃくった。

「なかで待っている」

 どうやら、部屋にはひとりで入れということらしい。尚之介はうなずき返してから襖に手をのばした。

 部屋は、北向きの六畳間だった。両手を後ろ手に縛られた男がこちらに背を向けて座っている。そのうしろすがたにピンときた。

 回りこんで確認すると、やはり一本木忠太だった。長い獄中生活のせいで髪も髯も伸び放題、着物も汚れも目立っている。が、肌の色艶や目の輝きは、多町で見かけたひと月前と変わらなかった。

 尚之介が上座に腰を下ろすと、一本木はさっそく切り出した。

「あんたが木島尚之介殿か」

「よく会いにこれたもんだな、一本木忠太」

 尚之介は呆れ半分の感嘆を漏らした。自分は特別扱いを受けて北町奉行所の座敷牢に居たものの、一般の罪人は伝馬町の獄に捕らえられている。ここまで会いに来るのには、相応の特例が認められたにちがいなかった。

「俺はいろいろと顔が利くんだよ」

 顔が利くというのは方便だろう。おそらく、一本木は自分の握る秘密を、たくみにちらつかせて無理を通しているのだ。

 そう推察し、尚之介はかえって興味が湧いた。一本木の視線を正面から見返し、たずねた。

「そうまでして俺になんの用だ」

 一本木はたっぷりと間をおいてから口を開いた。

「俺の名を騙る不届き者が水野の家来を襲ったんだってな」口をはさもうとする尚之介を目で制し、さらに言った。「その夜に、その男と斬り合ってさんざんにやられたって?」

 このとき、尚之介は改めて確信した。一本木は、罪を逃れるための出まかせを言っているのではない。この一本木忠太と、あの夜斬り合った謎の男は、やはり別人なのだ。

「……お前、いったいなに者だ?」

「俺はまちがいなく一本木忠太だぜ。じゃなきゃ、これまでやってきた十と三つの盗みについてあれほど詳細に供述できやしねえよ」

「その話を犬養が認めたのか?」

「ああ、本人に聞いてみな」

「天保年間をにぎわせつづけたあの大泥棒にしては、往生際がよすぎるんじゃないのか」

 尚之介は挑発的な視線を送ったが、一本木は意味ありげな笑みを浮かべたまま、ただこちらを見返しただけだった。反論するつもりはないらしい。

 仕方なく、尚之介はつづけた。

「なら、お前はこう言いたいわけか……」考えながら、慎重に言葉をつぐ。「常夜燈を盗んだのは一本木忠太を名乗る別人だった、と。……それを俺に証言させたいがために呼んだわけか?」

 尚之介はそう読んだ。が、一本木は首を横にふった。

「いまさらそんな証言を得たところで、なにが変わるということもないだろう」

 たしかにそのとおりだ。常夜燈の一件が別人による犯行だったとしても、これまでに犯した数々の盗みを認めている以上、判決はさほど変わらないだろう。

「じゃあ、目的はなんだ?」

「小塚ッ原に行くまえに、寿司を食べたいと思ってな」

「寿司……?」

 小塚原といえば、刑場のある場所だ。

「まさか……」

 思わず見返した尚之介に、一本木は平然とこう応えた。

「市中引き廻しの上獄門、だそうだ……」

 それは、罪人を馬に乗せて見世物として市中を歩かせたうえで斬首に処すという刑罰であり、とりもなおさず、公儀が一本木忠太に極刑の判決を言い渡しということでもある。

 想像以上の厳しい処分に、尚之介は絶句していた。

 確かに、一本木忠太は江戸開闢以来の大泥棒だろう。だが、少なくとも、人を殺めたという話は聞いたことがない。その行動原理も理解できる部分はある。    

 無罪とまでは言わないが、せいぜい永牢か遠島が妥当だと思っていた。

 とはいえ、一本木の思惑は完全に理解した。

 つまりこういうことだ。

 市中引廻しには二通りあって、ひとつは伝馬町牢屋敷を出て江戸城まで行き、その周りを一周してふたたび牢屋敷に戻るという『江戸中引廻』。もうひとつは、おなじく伝馬町牢屋敷を出たあと、日本橋、赤坂御門、四谷御門、筋違橋、両国橋を巡ったのちに小塚原や鈴ヶ森の刑場に至る『五ヶ所引廻』。

 一本木の口から小塚原の地名があがったということは、今回は後者が採用されるということなのだろう。

 その五里にも及ぶ道中、罪人が食べ物や酒などを所望すれば、同行する同心が自腹で恵んでやるのが慣例となっているのだ。

「なるほど……」尚之介は頭を整理してから、結論を口にした。「つまり、俺に小塚原まで同行して、寿司を奢れというわけか……」

「ご名答」

 一本木が、満足げな笑みを浮かべてうなずく。

「それで、お前の望みをかなえたとして、俺にとってなんの得がある?」

 あえて突き放した言い方をしてみたが、一本木はますます自信をみなぎらせただけだった。待ってましたとばかりに、しゃべりはじめる。

「水野の遣いが襲われたって話を聞いたあと、俺は水野の屋敷に入ったんだが……」

「なにが目的だ」

「しいて言うなら、一本木忠太の名前を騙って老中宅を狙う野郎のことが気になったってところか。それに、そうまでして水野からなにを盗もうとしたのかってことも、興味がないと言えば嘘になるかもな……」

「そんなことでなにがわかるとも思えんが……」

「まあ、俺だってすぐにそう思い直したさ。偽一本木忠太のことなんてとっとと忘れて、金目のものを奪ってずらかろうってな。だがな、見つけちまったんだよ」そこで身を乗り出し、声をひそめた。「裏庭の蔵の奥で、おそらく見てはならんもんを、俺は見ちまった」

「なにを見たというんだ」

 先をうながすと、一本木は乗り出していた身を引いて不敵な笑みを浮かべた。

「なるほど……」ため息まじりに、尚之介は吐き捨てた。「その秘密とやらを引き換えに、寿司を奢れというわけか」

「またまたご名答」

 なるほど、さすがに修羅場を越えてきているらしい。尚之介は、内心その生命力に好感を抱いた。転んでもただでは起きない図太さがあるということだろう。

 とはいえ、ここでほいほいと口車に乗るほど、甘い人生を送ってきたわけではない。

「話はわかった。つまり、お前がなにかを見たという証拠はないわけだな」

「証拠ならあるだろう」

 尚之介は怪訝な表情を浮かべたが、やがて思いあたり「あっ」と声を漏らした。つぎの瞬間ふたり同時に発していた。

「市中引き回しの上獄門―――」

 やけに重い刑が下ったと思ったのはそのためか。公儀は、秘密を知った一本木忠太の口を閉ざそうとしている……⁉

 重苦しい沈黙がしばしながれたが、ふいに漏れた尚之介のため息が、それをやぶった。

「最後にこれだけ聞かせろ。偽一本木忠太のことについては、ほんとうになにもわからなかったんだな?」

「神出鬼没で、腕が立って、焙烙玉を持ち歩いてるって? そんな忍者みたいな泥棒は聞いたことがねえよ」

「そうか……」しばし瞑目していたが、やがてすっと立ち上がり、一本木を見下ろした。「俺はいまは役人ではない。戻ると決めたわけでもない。だから、いまここで約束することはできない。が、それでもいいなら、少し待っていろ」

 決然と言い放つと、目を合わせることもなく、尚之介は退室した。

「それでいいさ」

 背後から聞こえたその声には、焦燥も悪意も感じられなかった。


 三月の下旬、尚之介は晴れて無罪放免となった。たったいま釈放され、呉服橋を渡ったばかりである。

 御堀沿いを北へ向かって歩く尚之介の頬を撫でながら、穏やかな風が通りすぎていった。座敷牢に入っているあいだに、季節はすっかり春になっていたらしい。

 石橋を渡って本石町のあたりに差しかかったとき、堀沿いの柳の下に人待ち顔の女が佇んでいるのが目に留まった。

 見慣れて久しいその立ちすがたは麻衣にちがいない。もともと百軒の家を訪ねるつもりだった身としては好都合だった。

 やがて尚之介の存在に気づくと、麻衣は出迎えるように数歩歩み寄った。

「おかえりなさい。大変でしたね」

 やたらと愛想のよい笑みを浮かべながら、麻衣はとなりにならんで歩きだした。

「ああ」それだけ答えると、尚之介はすぐに話題を変えた。「永井はどうしている。まだお前のところに入り浸っているのか」

「ここ二、三日来てません。……どうしてですか?」

 面食らいながら、麻衣は答えた。

「常夜燈を持っているのは永井だ。うかつだった」目を見開いたまま固まった麻衣を横目で見つつ、さらに言い募った。「カラクリを狙う動機があって、あれほどに腕の立つ男。それだけであいつを疑うには十分だった。そうしなかったのは、あのあと、あいつが自分から俺たちの前にあらわれたからだ。常夜燈を手に入れたのなら、そのまますがたをくらませばそれで済んだはずなのに……いったいなにが狙いなんだ」

 尚之介は珍しく多弁になっている自分に気づいていた。苛立ちが募り、口から舌打ちが漏れる。

「やつの狙いはなんだ……? やはり本人は問いただすしかないか……」

 なんど自問自答してみても心当たりはない。

 麻衣の口から、「もしかして」という言葉が漏れたのはそのときだ。

「なにか知っているのか……?」

 肩をつかんで思わず詰め寄った。

 しばし沈思していたが、やがて顔を上げるとこう言った。

「もしもほんとうに春平太君が常夜燈を持っているなら、狙いはあれしかないと思います―――」

 その説明は十分に合点のいくものだった。

「それがほんとうだとすると、永井はまた戻るな……」

「はい、たぶん……」

 ふたりは納得すると、同時に歩きはじめた。向かう先は猫屋である。


 張り込みはその日からはじまり、尚之介は百軒のもとに泊まり込んでいた。手入れを済ませた愛刀を膝元に置きつつ、帳場から土間を眺める日がつづいている。

 廊下から麻衣が声をかけてきたのは、三日目の晩だった。こちら側にやってこないのは、「帳場に入ってくるな」という言いつけを守ってのことだろう。

「復職する決心はつきましたか?」

 麻衣が廊下に座りこんだのが分かった。答えを聞くまで居座るつもりらしい。

「……気は進まんが、それでも浪人生活に戻るよりはいくぶんマシだろう」

 思いのほか気弱な声が出てしまい、尚之介は咳払いでそれを誤魔化した。

「私は心配です」返事を探しあぐねいていると、麻衣はさらに言った。「このまま春平太君がこなかったらいいのに……」

「当然、無罪というわけにはいかんが、あいつも侍、つねに覚悟はしているはずだ。それに、斬るつもりはない。常夜燈のありかを聞き出さないといけないからな」

 当然、春平太の心配をしているのものと考えて、尚之介はそんなふうに応じた。だが、麻衣の反応は意外なものだった。

「そんな話をしているのではありません。私が言ってるのは、そんなことじゃないんです」

「じゃあ、なんの話だ」

「……私が言いたいのは、あなたがこの時代を生きる役人として優しすぎるってことです。戻ったら、きっと後悔しますよ」

「そうかもしれない。だが、ほかに選択肢はない」麻衣はなにかを言いかけたが、それを遮って尚之介はつづけた。「それに、この時代の人間―――永井のことも含めて、俺たちのことをお前が気にする必要はない。常夜燈を取り返したら、お前は自分のいるべき時代に帰ればいい」

「選択肢ならあります」

「ほう……。面白い、言ってみろ」

「それは、私といっしょに―――」

 麻衣が言いかけたとき、土間の空気が動いた。戸が、開かれたのだ。

 会話を打ち切り、尚之介は意識を来訪者へ向けた。身構え、膝元の愛刀に手をのばす。

 障子に映っていた人影が、戸の隙間から土間へと足を踏み入れた。永井春平太である。しばらくすがたを見せなかったが、逃げられたわけではなかったらしい。胸中に、安堵と緊張が同時に去来した。

 春平太は、帳場で身構える尚之介を見つけた瞬間、すべてを覚ったような笑みを浮かべた。

「どうやら私のことを待ち構えていたようですね」

「お前が一本木忠太だったというわけか……」

「なんの冗談です? 一本木は伝馬町に捕まっていると聞いていますが。なんでも獄門だとか……」

「あの夜の一本木忠太が―――いや、一本木忠太を装っていたのがお前だったということはわかっている。あがくのはよせ、時間の無駄だ」

「……そんな結論にたどり着いた理由を、一応聞いておきたいのですが」

「お前の鬼のような強さがなによりの証拠だ。いままで疑わなかったのは、お前が自ら俺たちの前にあらわれたからだ。だが、やっとわかったよ。お前の狙いはこの未来のカラクリだろう」尚之介は懐からスマホを取り出し、春平太に見せつけた。「お前はこれを探るために麻衣に近づいたんだ」

 手にしていたスマホを床に置くと、春平太の視線がそれに伴って移動した。やはり狙いはスマホで間違いない。

 観念したように、春平太がはっとため息を吐きだした。

「持ち帰ってから部品の一部が足りないことに気づきましてね……」

「それで、麻衣がなにかを知ってる可能性があると踏んで近づいたわけか……」

「ええ、麻衣殿が長いあいだ時右衛門といっしょに暮していたことは知っていましたから……。このカラクリがそれだと気づいたのはつい先日です」

「なるほどな……」

「スマホ、大人しく渡してくれませんか。できれば、あなたを斬りたくはないので」

「それはこっちの台詞だ。お前こそ、いま常夜燈を渡せば、悪いようにはしない」

「残念です」

 春平太が刀の鯉口を切ると、尚之介もそれに倣った。

「……同感だ」

 言うなり、尚之介は刀を掴んだ。

 立ちあがる勢いをつかって、一歩、前へと踏み込む。二歩目で跳び上がると、割れんばかりに音を立てて床が軋んだ。

 中空で抜刀し、土間に着地する。逆袈裟の一刀を繰り出すと、春平太は抜きがけの太刀でそれを受け止めた。鍔迫り合いがはじまり、ふたりは動きを止めた。

「私に勝てないことは承知済みかと思っていましたが……」

「やってみなければわからん」

 押し合いながら、ふたりは言い合った。

 しばしの力比べがつづいたあと、尚之介の連続攻撃がはじまった。

 春平太はそれを一歩二歩と飛びずさって躱していったが、やがて壁際に追い込まれて足を止めた。

 尚之介の突きが繰り出される。が、それを難なく躱すと、春平太は壁にピタリとくっつき、転がるように壁際を移動した。棚のガラス製の照明器具を手にとるや、振向きざま、それを尚之介の額めがけて思いっきり振り下ろした。

 派手な音とともに、砕け散ったガラス片が顔と言わず肩と言わず、降りそそいだ。

 思わず動きを止める尚之介の隙を突いて、春平太がその背後に回り込んだ。

「とった」

 刹那、春平太はそうつぶやいた。右手の刀が、上段から尚之介の後頭部を狙って、いまにも振り下ろされようとしていた。

 視界を塞がれ、尚之介になすすべはない。

 しかし、春平太が勝利を確信した瞬間、尚之介の口からこんな言葉が漏れた。

「そうだ、永井。その場所で完璧だ―――」

 春平太は、自分が罠にはまったことを覚って目を見開いた。不審な音に気がついたのもそのときである。

 キリキリキリキリ―――。

 さらに、ヒュッ、という聞き覚えのある音がしたあと、春平太の呻き声がそれにつづいた。

 見ると、激痛にのたうちまわる春平太のすがたが土間に転がっていた。

 尚之介はしばらく剣先を向けたままようすをうかがっっていたが、よほど痛いらしく、春平太が立ち上がることはなかった。

 諸葛童子から放たれた矢に殺傷力はない。尚之介を殺しかけた反省から、改良に至ったという経緯があるのだ。

 とはいえ、まともに当たれば死ぬほどに痛いらしい。

「諸葛童子、と言うそうだ。驚いたか。俺もそれにやられそうになったからお前の気持ちはわかる」

「まったく……ここにはさんざん出入りしていたのに……こんなカラクリ屋敷だったなんて……」

 春平太が怨みのこもった目で尚之介を見上げた。

「たしかにお前は強い。だが、技術というものには想像を絶する力がある。そう思わんか、永井」

「しかと肝に銘じておきますよ」

 ふっと笑みを漏らすと、春平太は力なくつぶやいた。

 尚之介は春平太から背後に視線を転じた。百軒と麻衣が襖の隙間から顔を出していることは知っていた。目配せを送ると、ふたりが恐る恐る入ってきた。

 土間に横たわる春平太に気づくと、百軒が言った。

「どうやら上手くいったようですな」

「当たったのは左肩です。見てやってください」

「どれどれ……」

 百軒はしゃがんで、興味深げに春平太の顔を覗きこんだ。框に腰を下ろしてふたりのようすをうかがっていると、麻衣が背後から声をかけてきた。

「春平太君を同心に引き渡すつもりですか?」

「常夜燈のありかを聞き出してからな」

 ふり返らず、尚之介は答えた。

「まだあんなに若いのに、可哀そう……」

「やつも侍だ。覚悟していたはずだ」

「そうですね」と、麻衣は口先だけで答えた。それからしばらく黙り込んでいたが、やがて、あの、と切り出した。「さっき言いかけたことなんですが……」

「……ああ、途中だったな」

「選択肢がほかにないというなら―――」ひと呼吸の間のあと、つづいた言葉はこうだった。「私と一緒に未来に行きませんか?」

「未来に? 俺が……? いったいなにを言いだすかと思えば……まったくお前は面白い女だな」尚之介は思わず吹き出したが、やがて笑いがおさまると、こうつづけた。「しかし、歴史を変えることが危険だと言ったのもお前だろう?」

「それは……未来から過去に戻って過去を変える場合のことです。過去の人間が未来に行くのには問題ありません」ここぞとばかりに、麻衣が言い募る。「あなたは頭もいいし、体力だってあります。未来なら、もっと自分に合った、人の役に立つ仕事がきっとあります。もっと自分らしい生き方を探せるはずです。この時代は、あなたに向いていないんです」

「俺らしい生き方……? もしも本当にそんなものがあるなら、お目にかかりたいものだな」

「だったら―――」

 麻衣は言いかけたが、尚之介は首をふって遮った。

「一本木忠太に寿司を奢る約束がある。もう行かないとな」

 そう言って、尚之介は刀に手をのばした。が、麻衣が先にそれを掴んだ。ふり返ると、こちらを睨む麻衣と目が合った。

「最後に答えてください。苦しむことが分かってて、なんでまた戻ろうとするんですか?」

 なぜだろう、と自分でも思った。しばらく考えてから出した結論はこうだった。

「俺は少し前まで、この世界に絶望していた。自分の人生にも、公儀にもだ。だが、お前に会ってすこし変わった。この国が、まだ捨てたものじゃないと思えるようになったんだ。お前を見ていてそう思った。未来は明るいのだとな」

「百軒様も同じようなことを言われたことがあります。そう言えば、時右衛門様にも……」

「気持ちはよくわかる」そう答えると、麻衣の手から刀を取り返した。立ち上がり、最後のつもりでふり返る。「お前と永井がいろいろと動いてくれたという話は聞いている。そのことについては感謝している」

 そう締めくくると、尚之介は会話を打ち切った。それから、百軒と麻衣に一礼すると、応急処置を終えた春平太を連れて、猫屋をあとにした。


 一本木忠太の市中引廻しの当日、江戸は曇天であった。

 道程の五ヶ所の通りには、朝早くから好奇心旺盛で噂好きの江戸っ子たちであふれかえっていた。

 かの大泥棒を最後にひと目見ようということだろうが、彼らの期待はそれだけではない。多町での捕り物のあと巷で評判になったその美声にあるのだ。

 群衆の期待どおり一本木忠太は、牢屋敷を出るなり、流行りの長唄や詩吟などを口ずさんでは通りの見物人を魅了していた。死地に赴く義賊の身の上が、声にいっそうの滋味を与えているのは言うまでもない。

 一本木忠太は後ろ手に縛られた状態で馬に乗せられていた。その両脇を検視役の与力や犬養を含む同心連中が囲み、さらにその一行を、罪状を書き連ねた告知文をかかげる非人が先導していた。

 尚之介は最後尾から馬上の一本木を眺めつつ歩いている。

「罪人のくせにえらい人気だな、一本木」

「まあ、あんた方よりはひとの役に立つことをしてきたつもりだからな」

 犬養の軽口に、一本木忠太がさらりと言い放った。そんなやり取りが不意に耳に入り、思わず苦笑が漏れてしまった。

 たしかに、一本木の言うことは一理ある。町人たちの心は、天保の改革ですっかり悪者になった役人より、そんな役人たちから奪った金品を貧乏人に施してきた義賊のほうにあるのだ。

 一本木忠太の吟じる唄に涙ぐむ若い女はいても、役人に好意的な視線を向ける見物人がいないことがなによりの証拠であろう。

 犬養が反論をあきらめて口をつぐんでしまったのは、そういった事情によるところが大きかった。

 日が天中に差しかかる少し前である。

 日本橋の寿司屋の前で、同行の与力が尚之介をふり返り、一本木とともに店内へ入るように命じた。

 なにかしらの裏取引があったのは想像に難くない。むろん、それほど手間暇をかけたのだから、よほど寿司が食いたかったのだろう、と、尚之介は思っていた。

 だが、どうやらそうでもないらしかった。いざ寿司を目の前にすると、一本木忠太は意外なほど少食だった。かんぴょう巻きに赤貝、小鯛など数巻を口にしただけで、もうあがりを口にしている。最後くらい好きなだけ食べればいいものを。

「人様の金に手をつけてきた一本木忠太にしては遠慮深いな。やはり偽物なんじゃないのか」

 フン、と一本木は、茶をすすりながら鼻を鳴らした。

「さすがのお前でも物が喉を通らないか?」

「たしかにな……」

 一本木はそれきり黙りこくってしまった。あのときの話のつづきを今しないというなら、いったいいつどこでするつもりだろう。

 間もなく、与力の周辺が慌ただしくなった。店を出る準備をはじめたらしい。

 尚之介が立ち上がろうとしたときになって、ようやく一本木が動いた。

「小便、行かせてくれ」

 二人きりで話したいということか―――。

 そう直感して見張りをかって出ると、すんなり許可された。中年男の厠へ付き合いたいと思う者はおらず、不審に思う者もいなかった。

 一本木の縄を掴んで、尚之介は店の裏へと向かった。

「こんなところまで来てやったんだ。あのときのつづきを聞かせてもらおうか」

「水野は常夜燈を持ってる。その設計図もな」

 一本木がさらりと言ってのけた。

「お前、その名前をどこで……、いったいどういうことだ……?」

「そう慌てるな。小便が先だ」

 そう言って厠へ入ると、ほんとうに用を足しはじめた。

「まったく呑気なものだな」

 思わず、ため息が出る。

「神妙にしてようが、呑気にしてようが出るものは出るさ。生きてるんだからな」

 やがて用を足し終えると、一本木はふり返ってそのまま井戸へと向かった。手を洗うのを我慢しろとも言えず、仕方なくついていく。

 桶で手をゆすぎながら、一本木は切り出した。

「長年泥棒家業をやってると、わかるもんでな。ひと目見てピンときたぜ。一見なんてことないカラクリだが、途方もない価値があるお宝だってな」

 詳しいすがたかたちを確認すると、それはたしかに話に聞いた常夜燈のようだった。

「クソッ」と、口から舌打ちが漏れていた。「よりによって水野が常夜燈を所持したままとは……」

 水野がこのまま他藩へお預けともなれば、回収はほとんど不可能である。いつかどこかであのカラクリが悪用されでもしたら、いったいどんな事態が巻き起こるのか。

 そもそも、なんでそんなことになったのか―――。と、そこまで考えたとき、麻衣が言った台詞が出し抜けに頭に浮かんだ。

 いつだったか、あの女が、はじめて久松時右衛門に会ったときの話をしていた。

 ―――時右衛門様は、私の持つカラクリを見た瞬間、いま自身が作成している常夜燈の完成したすがたなのだと気がついたようでした。

 たしか、こんなことを言っていたのではなかったか。

 つまり、麻衣が未来から持ってきた常夜燈と、時右衛門がつくりかけていた常夜燈が存在するということか……?

 そして、春平太がそうであったように、おそらく水野も常夜燈を手にしたあとになってその一部が不足していることに気がつき、ふたたび百軒の家を家探ししたのだ。

 そう考えればつじつまが合う。

 だんだん頭が混乱してきたが、尚之介は気持ちを切り替えて尋ねた。

「なぜ、いまそれを言う? なぜそのとき盗み出さなかった?」

 尚之介が睨みつけると、一本木は吹き出した。

「まさか盗まなかったことを咎められるとはな」そして、笑いながらこうつづけた。「そもそも俺はカラクリなんぞ興味ないんだよ。どれほど高価だろうが、あんなもん換金すれば一発で足がつくしな」

 言われて、尚之介は口ごもった。たしかにここで泥棒を責めるのは筋違いだろう。

「とにかく左衛門少尉様に報告しなければ……」口からひとり言が漏れていることに、尚之介は気づいていなかった。「しかし、それで取り返すことができるか……?」

「無理だな。水野がそんなもの持っていないと言えばそれまでだ」

「やはり、回収は無理か……」

「あんたのその反応を見て確信したよ。常夜燈ってカラクリは、やはりとてつもなく危険極まりない代物らしいな」そこで舌なめずりし、一本木はつづけた。「だが、俺なら水野から盗み返せるぜ」

 尚之介は得意げな一本木の顔をしばし見つめ、やがて大きなため息とともにつぶやいた。

「そういうことか……」

 一連の茶番は、すべてこのための逃亡計画の一部だったということだ。

 そのために、わざわざ投獄中に北町奉行所に会いにきて、尚之介に寿司を奢らせる算段をつけた。常夜燈を盗み出させるためなら、逃亡に協力すると踏んでいたのだ。

 尚之介は、その思惑を覚って瞑目した。自分がこの役に選ばれたのも偶然ではないだろう。そう思えば、心中は複雑だ。

 静寂が訪れた。背後から声をかけられたのは、しばしのときがながれたあとだ。

 尚之介は、思わずピクッと肩を震わせた。ふり返ると、犬養が怪訝な表情でこちらを窺っていた。

「なにをしている。さっさと戻れ」

「ああ、手を洗わせたら行く」

 そう言って邪魔者を追い返そうとした。が、犬養は動かなかった。煙草の煙を吐きながら、鋭い目つきで尚之介の一挙手一投足を注視していた。

「おい、もしかして―――」と、犬養に切り出され、脳裏に嫌な予感がよぎった。そして、つぎの瞬間、その予感は見事に的中した。「まさか迷ったってわけじゃねえだろうな?」

「いったいなんの話だ」

「もしも、一本木の提案に少しでも乗ろうって気を起こしたんなら、やはりお前はこちら側に戻るべきじゃねえな」

 どうやらすべて見透かされているらしい。尚之介は観念し、犬養の視線を受け止めた。

「まったくお前は抜け目のない男だな」

「当然だ。一本木忠太がわざわざお前を今日のために指名したんだ。なにかあるだろうと踏んでいた」

 尚之介は、ため息とともに地面に視線を落とした。

 足下を眺めつつ、自分のとるべき選択肢と、それによってもたらされるであろう先の人生を思い描いた。が、すぐに面倒臭くなってやめた。

 頭を空っぽにして顔を上げると、自分でも驚くほど自然に体が動いた。

 手を柄に伸ばしつつ、目で間合いを確かめ、腰を落として身構える。

 犬養は落ちついてその行動を受け止めた。

「それがお前の答えか。いいだろう」ふっと煙を吐きだすと、キセルを手放し、その手を腰の物にのばした。「こいつらを拘束しろ」

 その声に応じて、背後からぬっとクマが顔を出した。

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