第11話 橘麻衣 その五
戸の隙間から風が入りこんで室内を循環し、淀んだ空気を一掃していった。朝の陽光が障子に当たって弾け、柔らかな光を畳に落としている。
百地百軒の裏庭に面した座敷には、朝食後のゆっくりとした時間がながれていた。
「よくもまあ」と、ため息まじりに漏らしたのは、春平太である。「毎日毎日、えらく熱心ですね、ほかにやることがないんですか? ミス・タチバナ」
英語の授業を受けはじめて以降、春平太は百軒にならって麻衣をこう呼んでいた。
文机にかじりつきつつ、麻衣が答える。
「あんたこそ、毎日毎日なんでそんな暇そうなの? 常夜燈はもう諦めたわけ?」
「まさか。そう簡単に諦められるなら、苦労なんてしませんよ……」
春平太は、言ったそばから大あくびすると、満腹の腹を撫でつつ畳の上に足を放り出してくつろいだ。
そんな春平太を横目に見つつ、麻衣は筆をとった。机上の紙に、「恨む」、「越前守様の命令のとおり」、「祟りが怖くて人殺しができるか」などといった言葉を書き付けていく。
「なにやら不穏な言葉がならんでいますね……」春平太が興味津々に、手元を覗きこんで言った。「いったいなにを企んでいるんです?」
「うん、ちょっと水野忠邦にご勇退願おうかと思ってさ……」
ここ数日、熱心に考えつづけているのは他でもない、水野を老中の座から追い落とす方法である。
思いついた作戦は、くだんの録音の声をつかって死んだはずの花井の亡霊をつくりだすことだった。それをつかって、水野忠邦を脅し、本来の歴史よりも早くその権力の座から引きずり落とすのだ。
成功すれば、常夜燈を取り返すことに、ひいては、花井虎一殺害の一件で北町奉行所に捕らえられた尚之介を助け出すことにもつながるかもしれない。
犬養によれば、尚之介は花井を斬ったあと、自ら出頭することを望んだという。奉行所で、花井や鳥居について、その悪行をあらためて供述しているらしい。
一本木忠太が北町奉行所に捕らえられてから半月、尚之介が捕らえられてからでも、すでに数日が経過している。もたもたしていては、すべて手遅れになってしまうだろう。
麻衣は書きだした言葉に、丸を付けたりバツを付けたり並べ替えたりしながら、新たな文章をつくり上げていった。
やがて出来上がった文章を声に出して読み上げてみた。
『恨む……越前守様の命令……人殺し……た』
「恨む」は、麻衣に言った「恨むならあの男と関わった運命を恨むんだな」という台詞から、「筑前守様の命令」は、花井が常夜燈をもって立ち去る際に部下に言い残した、「筑前守様の命令どおり、目撃者はすべて消しておけ」という台詞から、「人殺し」は、「祟りが怖くて人殺しなんかできるか」という台詞からそれぞれ引用した言葉である。
「いくら常夜燈のためとはいえ、正気とは思えないですね」
春平太が呆れた口調で言った。
「やっぱりそう思う……?」
「そんなことで水野が大人しく引きさがるわけないでしょ。まったくなにをやってるかと思えば、馬鹿馬鹿しい……」
そう言い放つと、春平太はそっぽを向いて寝そべってしまった。
たしかに春平太の言うとおりだと自分でも思う。
平成の時代であれば、迷わずこのデータをそのまま警察に証拠として提出する。かくいう麻衣もいちど、犬養にこの画像を見てもらった。だが、案の定と言うべきか、その返事は、「録音された花井の声を殺人の証拠として採用することはできない」というものだった。
考えた挙句にひねり出したのが今回の、花井の亡霊で水野を脅して辞任させよう大作戦である。
拙い作戦だと自分でもわかっている。しかし、その一方で、こうも思っていた。
「私ね――」と、その背中に向かって、麻衣は切り出した。「このまま、一生この時代で生きていくことになったとしてもしょうがないかもって、最近そんなふうに思いはじめたところなんだ。百軒様も蔵六さんもイチさんも近所のひとたちもみんないい人だし、それにもともと江戸は好きだしね。もう、それはそれでしょうがないかなって……」
春平太の無言を相槌と受けとり、麻衣はつづけた。
「けどこのまま、だらだら時間が過ぎて、ただ気づいたら一生をここで過ごしてたっていうのだけは嫌なの。それだけは納得できない。この先、未来に帰るチャンスがあるにしろ、このままここで一生を終えるにしろ、いま動かなかったらぜったい後悔すると思う。だから春平太君―――」麻衣がその肩をつかんで揺さぶる。「協力して、お願い。もしも協力してくれたら、常夜燈、君にゆずってもいいから」
お前の道を進め、と尚之介は言った。ならば、自分の進む道はこれしかない。
春平太が上体を起こして、ふり返った。
「つまり、常夜燈が見つかったら私に譲るってことですか?」
麻衣がこくりとうなずく。
「……へえ。そんなに木島殿を助けたいですか、未来に戻ることを諦めるほどに……」春平太は言いながら意地悪そうな笑みを浮かべた。しばし考える素振りを見せたあと、面倒臭そうにこう言った。「まあ、いつもただ飯を頂いているわけですし、そもそも協定を申し出たのは私ですからね、それくらいかまいませんけど……」
「ほんと……⁉ ありがとう、春平太君!」
「……で、私になにをしろと?」
「準備しとくから、明日また来て」
約束をとりつけて春平太を追い返すと、麻衣は作業を再開した。例の、『恨む……越前守様の命令……人殺し……た』という音声データの編集である。
その台詞を数回くり返したあとは、『祟り』や『人殺し』などの言葉を、連綿と連ねてみた。現代人にとってはチープな出来だが、この時代の人間には十分だろう。ノイズさえ、不気味さを増大させる効果となっているにちがいない。
出来に満足した麻衣は、さっそく実験にうつった。対象は下女のつるである。
夜半過ぎ、麻衣は再生ボタンを押した状態のスマホを適当な場所に隠し、廊下の先に身をひそめてそのときを待った。録音から数分間つづく無音は、自分がその場所から離れるための時間稼ぎである。
再生がはじまってしばらくすると、まず板戸が開かれた。つるの悲鳴が家じゅうに響きわたったのは、その直後である。半狂乱になって部屋から飛び出すと、廊下を走りぬけた。
途中、麻衣が呼び止めるのも聞かずに裸足で庭へと駆け下りると、最後は稲荷にすがりついて朝まで泣き伏してしまった。
麻衣は、ほんとうに申し訳ないことをしたと反省した。が一方で、その反応に自信を強めたのもたしかだった。
江戸時代の人間がこの声を科学の力などと想像するわけがない。必ず人知を超えた何者かの御業だと判断するだろう。
翌日、春平太はスマホをためつすがめつしながら言った。
「つまり、花井の亡霊を信じ込ませたところで、恐怖におののく水野に自白を迫るって寸法ですか?」
「そういうこと。どうかなこの作戦?」
「どうもこうも……」春平太はそこでため息を吐きだし、こう言い直した。「たとえなんらかの奇跡が起こって作戦が成功したとしても、その自白を証言できるのが私や、ミス・タチバナでは話になりませんよ」
「そこは大丈夫、私にまかせて」麻衣はグッと拳をにぎり、得意げな表情を浮かべてみせた。「いよいよ最終段階ってときには、犬養様にご登場願えることになってるから」
「ああ、なるほどそういうこと……」
春平太は、やれやれ、といったふうに頭を掻き、それから、しばらく真剣な眼差しでスマホを眺めていた。
「春平太君……?」
怪訝な顔で麻衣がその顔を覗きこむと、何食わぬ顔で話をつづけた。
「それで、このスマホとやらを水野の寝室に仕掛けてくるのが私の仕事ってわけですか?」
「そうなんだけど……、ほんとうに大丈夫?」
自分から言いだしたこととはいえ、二本差しに袴の侍がスマホを扱うすがたを見ていると、どうしても不安になってくる。
「べつに、侵入して再生ボタンを押して帰ってくるくらい大したことじゃないですよ。それに、恐怖に慄いた水野の顔を見られる機会なんて、そうそうあるもんじゃないですしね」
そのあと、ひととおりのスマホの説明を受けると、春平太は意外なほど乗り気なようすで猫屋をあとにした。
決行はその夜だった。
麻衣は眠れぬ一夜を過ごしたが、そのような不安は杞憂だった。翌朝、やけに興奮したようすで猫屋にあらわれた春平太の報告はこうだった。
「まず、ヤツの寝所を調べてその枕のちょうど真下の床下にもぐりこんだんですけどね、そりゃあもう効果てきめん。再生がはじまったときのヤツの怯えようと言ったらなかったですよ。最初はすがたを見せよ無礼者が! なんて強がってたけど、しばらくして花井の声だとわかってくると急に声が震えてきて、貴様、死んだはずではなかったのか⁉ わしを祟るなど筋違もいいところだ、貴様が取り憑くなら鳥居が先だろう、なんて言いだしたりして。順番の問題なのかって思わず声を上げて笑い出しそうになったほどです。……え、逃げなかったのかって? そりゃ、まあ最初はそのつもりでしたけど、反応も見ずに逃げるのはもったいない気がして……わかりましたよ。次からはちゃんと再生ボタンを押して立ち去ります。でもそんなに神経質になるほどのものではなかったですよ。たしかに侍たちがわんさと寝所に集まりましたが、殿様の説明が、『亡霊があらわれた。花井の亡霊が』では、まともに侵入者を疑う者はいませんからね。……まあ言われなくても次からはすぐに立ち去るつもりでしたよ。もう満足したし、さすがに二度目は本腰入れて屋敷を見廻るかもしれないですしね」
次の報告はその翌日、内容はこうだった。
「約束どおり、昨夜は再生ボタンを押してそのまま帰りました。それで、さっき気になってようすを見に行ったんですが、屋敷のなかは中上を下への大騒ぎでしたよ。本格的に侵入者を疑いはじめたようです。……そうですね、これからは慎重に行動しなければ」
春平太はそれからしばらく猫屋にすがたをあらわさなかった。不安がなかったと言えば嘘になるが、そこは自称隠密の肩書を信頼するしかない。
変化があったのは一週間後である。すがたを見せるなり、春平太はこんな報告をした。
「水野はここのところ、登城すらしなくなくなりました。ほとんど人とも会わずに、屋敷の奥に引きこもっているそうです」含み笑いを漏らしながら、さらにこうつけ加えた。「あれ、相当効いてますよ」
「そうなんだ……」
本来なら春平太とともに喜ぶべき状況だろうが、麻衣の頭にあったのはべつのことだった。
そういえば本来の歴史では、辞任までのひと月ほど、水野は登城拒否していたのではなかったか……? もしも水野の行動が今回の作戦の結果だとすれば、自分の存在は、未来の歴史に於いてすでに織り込み済みだったということになる。
説明のつかない恐怖が、胸のなかにひろがっていくのを感じずにはいられなかった。
そんな麻衣の不安をよそに、春平太が淡々とつづける。
「ほかにもいろいろと嫌がらせしておきましたしね」
「ほかって?」
「天保の改革への恨みつらみを書き綴った矢文を打ちこんだり、藁人形を庭木に打ちつけてみたり、鼠の死骸を縁に捨て置いてみたり、あなたに倣ってフラッシュつかって超常現象を演出してみたりもしてみました」
「あ、そう……」
さすが、性格の悪さが突き抜けている。老中を脅迫していることに、なんの後ろめたさも感じていないらしい。麻衣は感心と軽蔑を同時に感じていた。
「水野を脅すのはこれくらいでいいんじゃないですか」
「そうだね」
作戦が上手くいき過ぎていることに不安を抱きながらも、麻衣は力強くうなずいた。ここまで来た以上迷いは禁物である。反省は終わってからすればいい。
「では、今夜スマホを回収したら、次の段階に移りましょう。同心の皆さんのほうはよろしくお願いします」
「わかった、任せて」
「じゃあまた明日」
春平太は、いつもながら頼もしい態度で猫屋を去った。
これまでの行動パターンからして、つぎに彼がここへやって来るのは明日の朝だと思い込んでいた。が、麻衣の予想はすぐに裏切られた。
昼過ぎになって春平太がふたたび猫屋に舞い戻ったのだ。そのすがたを見た瞬間、想定外の出来事が起こったのだと覚った。
珍しく慌てたようすで、春平太はこう切り出した。
「水野は屋敷を抜け出すつもりです」
「抜け出すって……どこに行くつもりなの?」
水野は過去にもいちど、こっそりと西御丸の屋敷を抜け出し、三田の中屋敷へ逃亡した前歴がある。
そんなことを思いだしながら、麻衣は尋ねた。
「わかりませんが、その前に片をつけようと思います」
麻衣は、「水野の屋敷へむかう」と言って飛び出した春平太のあとを追っていた。
御堀沿いをまっすぐ進み、鍛冶橋でいったん足を止めて御門を見上げた。とっくにすがたは見失ってるが、この門の中にいるのはまちがいない。
御門を前に緊張が高まったが、堀の内には南北の奉行所もあるのだから、一般人が入れないということもないだろう。
麻衣は、意を決して門をくぐった。
中へ入ると、左右に立派な長屋門の塀がならんでいた。たしか大名小路は、堀沿いの通りよりも御城にちかい東側だった。その道沿いに水野の屋敷もあるはずだ。
麻衣は目の前の道を屋敷ひとつ分奥へと進んだ。横道に差しかかると、角からそっと顔を出してみた。
いかにも大大名の屋敷といった雰囲気の、重厚な海鼠塀が連なっている。ひと気はまばらで、自分の存在はいかにも場違いである。この期に及んで、麻衣は怖じ気づいていた。
来た道を戻るか、それともさらに奥へと進むか―――。
逡巡しているうちに、数人の供侍を従えた地味な乗物がこっちへ向かって歩いてくるのが見えた。
乗り物に描かれた家紋に目がとまったのは偶然である。考えるまでもなく、すぐに思いあたった。矢じりのような細長い葉の紋は、水野家の
そうと気づいたとたん、嫌な予感が脳裏をかすめた。なぜか、この行列と春平太を遭遇させてはいけないような気がする。麻衣の鼓動は急速に高鳴っていった。
一行は、ザッザッと小石を踏みしめる規則正しい足音とともに刻一刻と近づいてきた。
麻衣は頭を下げて、その足音を聞いていた。
まさに、一行が正面を通りすぎようとしたときだった。供侍たちや駕籠かきたちの歩みを追い越すかのように、軽快な足音がこちらへ向かって走ってきた。
思わず顔を上げると、目に入ったのは春平太のすがただった。目指す先が水野の乗物であることはまちがいない。柄に手を掛けたまま、春平太は供侍たちのあいだを兎のような身のこなしですり抜けていった。
ゾクリ、と背筋が粟立った。恐怖に駆られて逃げ出したくなる反面、足は根を生やしたように動かない。
江戸時代へとタイムスリップしてこのかた、天才カラクリ師にも、粋を絵にかいたような同心にも、忍びにも、蛮社の獄という有名事件の当事者にも出会った。が、水野忠邦ほどのネームバリューを持つ歴史上の人物にはまだ会ったことがない。
江戸時代を代表する、あの悪名高き老中が目と鼻の先にいる―――。
ひと目その顔を見てみたいという欲求に全身が支配され、体が動かないのだ。
「曲者じゃ、曲者じゃ!」
水野の一行がやっと状況を理解したとき、春平太はすでに乗物の目と鼻の先にいた。
供侍のひとりが刀を抜き放ってその前に立ちはだかると、ほかの侍たちもようやく我に返った。
あっという間に五人の侍に取り囲まれたが、それで怯むようなたまではない。春平太は落ち着いたようすで手を柄に伸ばした。
刀が抜き放たれたのはその直後である。
電光石火の太刀が、供侍のひとりに襲いかかり、つぎの瞬間には、斬撃音とともに、ひと振りの刀が宙を舞っていた。相手の手から刀が離れたのだ。
春平太は、刀を失ったその侍の腹に、痛烈な回し蹴りを見舞った。
蹴りを受けた侍が背後にいた仲間に倒れかかると、春平太が一足飛びに詰め寄った。同時に繰り出された鋭い突きが、ふたりの鳩尾をもろ共貫いていた。
刀を払い、春平太はふり返った。
残る三人が呆然と立ち尽くす。
そのうちのひとりが、やがて雄叫びを上げながら春平太に突っこんでいった。
しかし、春平太は、飛んで火にいる夏の虫とばかりに、一刀のもとにひとり目を斬り伏せ、その返す刀でふたり目をも沈めた。
どういった偶然か、そのとき東北の空でぴかりと稲妻が走った。直後に響き渡る雷鳴。
麻衣でさえ震えあがってしまったほどだから、相手の戦慄は半端ではなかっただろう。
最後に残ったひとりの刀がゆらゆらとゆらめいている。恐怖に震えているのだ。
春平太はその最後のひとりを素通りして乗物のほうへ向かった。
そのまま黙ってやり過ごせば、命はあるいは助かったかもしれない。だが、その男は動いた。
「やあ!」
雄叫びを上げながら、春平太を追うように突進したのだ。
上段に構えた刀を春平太の後頭部めがけて振り下ろした―――が、春平太はその切先をギリギリで躱すや、腰を落とし、駒のように体を半回転さた。その動きにともなって、木枯らしのような一閃が走りぬけると、最後の男も地面に崩れ落ちた。
駕籠かきや中間などの半分はすでに四散し、すがたが見当たらなかった。残りの半分は腰をぬかし、屋敷の海鼠塀にすがりついている。
水野らしき高官のすがたがそのなかにあった。春平太と、それが巻き起こす惨劇から離れようと、這う這うの体で手足をじたばたさせている。
やがて、足音に気づいたのか、地に落ちる影に気づいたのか、観念したようにふり返った。
「き、貴様、な、なにが目的だ……わしにこのような仕打ちをして、た、た、ただで済むと思うな―――」
水野はまくしたてた。精一杯の虚勢だろう。
春平太が無感情に答える。
「地獄からの使者ですよ」
「たわけたことを……‼ いったい誰の使者だと言うんだ⁉」
「それはもちろん……」春平太が刀を高々と掲げた。その顔に邪悪な笑みが浮かんでいる。「花井虎一―――」
声とともに春平太が刀を振り下ろした。その瞬間、水野の死を覚ったのは、本人ばかりではない。麻衣も同様だった。
しかし、思わずつむった目を開いたとき、そこにあったのは想像とはちがう光景だった。
春平太の刀の切先は、水野の背後の海鼠塀に深々と突き刺さっていた。顔の横三寸の場所である。
当の水野は、状況を理解しているのかしていないのか、子供のように両手で頭をかかえ、ひたすら何かを唱えつづけていた。経でもあげているのだろうか。困難が去っていく僥倖を懸命に願っているようだった。
春平太は刀を引っこ抜くと、わずかに付着した袴の土を払った。そして、麻衣の傍らを素通りし、そのまま鍛冶橋御門から堀の外へと出ていった。
麻衣もすぐにあとを追った。一刻も早く、死屍累々の大名小路から逃げ出したかった。
脅しと言うならこれ以上の脅しはないだろう。だが、明らかにやり過ぎだ。元々の作戦が思うようにいかなかったことは仕方がないとはいえ、もう少しほかにやり方があったはずだ。
麻衣は走りながら、こみ上げる嗚咽に耐えつづけた。
春平太と合流するなり、麻衣は厳しい口調で責めたてた。
「脅すだけだって言ったの憶えてる? ぜんぜんわかってないね」
「あのまま二度と手出しできない場所まで逃げられたかもしれないのですよ。ほかにどうしろと言うんです?」
ひとかけらの罪悪感も抱いていないらしく、春平太はあっけらかんと答えた。その態度に、麻衣のほうがたじろいでしまう。
「それはそうかもしれないけど、でも、次の機会を待つことだって……」
「あるかどうかもわからない次の機会にかけるより、やれるときにやれるだけのことをやっておくのが私のやり方です」
「だからそれがやり過ぎだって言ってるの! あんなことしたらこれから動きづらくなるでしょ!」
「これから? これからのことなんて考える必要ありませんよ。作戦はもう完了です」戸惑う麻衣に、春平太は自信ありげにつづけた。「越前守は完全に落ちました」
答えようがわからず口ごもると、春平太が「では」と言って立ち去ろうとした。その背中を、麻衣があわてて呼び止める。
「スマホ、回収してくれた?」
「ああ、そうでしたね。これ、お返しします」
スマホを受け取ると、麻衣は手に持ってその感触をたしかめた。もう使うこともないだろうし、そもそも充電もほとんどない。だが、触って眺めるだけで、心がすこしだけ落ちつく気がする。
「それ、そんなに大切なものなんですか?」
ふしぎそうな顔で、春平太が尋ねた。
「これがないと、常夜燈が手に入ったとしても未来に帰れないからね」
「どういう意味です?」
「常夜燈って、引き出しがついててね、そこにこれを差し込むことでスイッチが―――カラクリが作動するようになってるんだ。もちろん、時右衛門様は、私に出会ってこのスマホを見てから、その仕掛けを思いついたんだよ。スマホを持つ私だけが、あの常夜燈を作動することができるようにって」
「へえ……」春平太の口から感嘆が漏れる。「つまりそのスマホが常夜燈の鍵ってことですか? なるほど、そういうことでしたか……」
しばらくスマホを眺めていたが、春平太はやがて猫屋をあとにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます