鍵屋の憂鬱

坂門

憂鬱の始まり

第1話 憂鬱の始まり

 憂鬱って感情は負の感情の中でも、割と軽微な部類の感情でしかない。

 僕はいつもそう自分に言い聞かせてやり過ごす。だけど、中々どうして、憂鬱というのは厄介なものだ。

 明日は勇者の凱旋パレード。またいつもの憂鬱が僕の心にどっしりと腰を掛ける。

 この溜め息と一緒に憂鬱も吐き出されてしまえばいいのに。

 狭い店のカウンターに肘をつき、アーウィン・ブルックスは深い溜め息をついた。

 赤いくせ毛は生まれつき、少し垂れた目尻がいつも眠そうに見えるらしい。ただその愛嬌を見せる顔立ちが人の警戒心を取り払ってくれるのか、お客の反応は悪くなかった。

 人が十人も入ればギュウギュウの店の壁を飾るのは、いくつもの鍵の見本。この若さで王都クランスに店を構える事が出来たのはひとえに、育ててくれた、おじいとおばあのおかげだ。手に職を就けてくれて、この店を構える事が出来るほどのわずかな財を残してくれた。

 血の繋がらない僕を困らないように育ててくれた、おじいとおばあには感謝しかない。ふたりに胸を張って報告出来るように日々精進しているつもりだ。


「アーウィン! 明日パレードだな。大丈夫か?」

「サイモンさん。大丈夫であって欲しいね」

「⋯⋯そうか。無理はするな、明日また様子見に来てやるから」

「うん。いつも悪いね。でも、助かるよ」


 いつからか衛兵のサイモンとアークが気に掛けてくれるようになった。彼らにはここ最近、いつも助けて貰っている。国力を誇示する名目で、何かある度に行う勇者のパレード。余程の理由がない限り、王都の人間は全員強制参加だ。ヒューマンも亜人もエルフも関係ない、国力の内外への誇示。一枚岩であるという対外的アピールの場にこのパレードはうってつけらしい。

 小難しい政治の事は分からないし、パレードにもさして興味はない。

 ただ、いつものイヤなループが待ち構えているかと思うと、僕の心は憂鬱になっていく。


◇◇◇◇


 目に映る視界は、色の褪せた写真のように原色だけが浮かび上がる。貧血でも起こしているかのようにザラザラした視界のノイズは消え去らない。


 家の裏には小さな小川が流れ、その奥には青々と茂る小さな森がある。

 僕と弟のラドウィンに、小さな小川は遊び場だ。いつも小さな魚を釣っていた。

 今日もいつものように小さな小川にラドウィンと横並びになって釣り糸を垂らす。小さな小川の流れは穏やかで、そのどこまでも透き通る清流は、目の前に立ち並ぶ木々の緑を映し出していた。


「兄ちゃん、今日は釣れないね」

「もう少ししたら魚がいーっぱい来るから、もう少し頑張るぞ」

「えー。今日は、もう止めようよー」


 釣果の期待出来ない今日の出来にラドウィンは諦め、早々の打ち切りを切望した。

 一匹も釣れないなんてありえない、僕はまだまだと粘りを見せた。もう少し粘ればきっと⋯⋯。


「アーウィン! ラドウィン! ご飯出来たわよ! お父さんも帰って来たから戻ってらっしゃーい!」

「ほら、母さんも呼んでいるよ。今日はもう終わりだ!」


 母親の呼び声にラドウィンは勝ち誇ったように声を上げた。

 僕は半ば意地になり、釣り糸を垂らし続ける。


「もうちょっと、もうちょっとだけ」

「もう! 先に帰っているよ」


 ラドウィンの軽い足音が背中越しに遠のいて行った。

 ノイズの混じるボヤけた視界に映る、水面が反射する鮮やかなオレンジ色。その色が炎であると背中に感じる熱ですぐに理解する。

 刹那、鳴り響く爆発音。

 振り返る。反射にも近いその動作。

 握り締めていた釣竿はいつの間にかにスルリと手から抜け落ちていた。水面に映ったオレンジ色は、振り返ると無くなっていた。

 無くなったのはオレンジ色だけじゃなく、夕飯の準備がされていたはずの家と家族。家は土台だけを残し、細い煙を上げているだけだった。

 父さん? 母さん? ラドウィン? 

 何もない。

 心が空になっていく。思考が停止し、目に映る全ての物を受け入れ拒否をした。

 遠目で大人が何か言い合っている。


(やり過ぎです!)

(知るか! どうせモンスターに食われてたろう)

(ここにモンスターはいなかったでしょう! しかも、そうさせない為のあなたでしょうが!)

(ぎゃーぎゃーうるせえぞ! モンスターの影が見えたんだよ。やっちまったもんは、仕方ねえだろう。加減なんて知るか。イラつくぜ!)


 吐き捨てるように言い放つ、紫色の髪をした痩せこけた男。視界のノイズが顔を隠す。

 言い合っていたのは装備を固めた兵士、こちらに気が付くと肩を落とし駆け寄った。

 兵士は僕の目の前で片膝をつき、やさしく肩に手を掛ける。深い溜め息が聞こえ、穏やかな声色を僕に響かせた。


「あそこは、坊やの家かい?」


 僕は黙って頷く。兵士の顔もノイズが邪魔をしてぼんやりとしか分からないが、その表情は悲しみに満ちていたと思う。


「⋯⋯すまない。本当に⋯⋯」


 兵士はそう言って、僕の右手に金貨を握らせ、両手で僕の手をそっと包んでくれた。きっと優しかったに違いない、だけど僕はその手の温もりは覚えていない。

 ノイズが視界の邪魔をして、全てがぼんやりとしか映らない。僕の脳裏に焼き付いているのは、水面に映った鮮烈なオレンジ色と背中に感じた熱。小さな僕の頭で何が起こったのか把握するのは無理だった。

 家の土台から立ち上る細い煙と、右手で握り締めている金貨の硬い感触。

 僕が覚えているもの⋯⋯。


◇◇◇◇


「はぁっ! はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」


 荒い呼吸のまま、目が覚めた。いつもの事だ。

 憂鬱な一日の始まりを告げる気分の悪い夢。

 この負のループから抜け出せる日は来るのだろうか? この自問自答すら憂鬱だ。

 首から下げている小さな袋に入った一枚の金貨。それをギュっと握り締め、僕は深い呼吸を繰り返す。

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