岡山市中央区北中町一丁目893番1共同住宅立退事件

与方藤士朗

時系列年表

第1話 年表 1 終戦の混乱から平成まで

時期不明 佐々本哲治(哲治)・本件土地所有開始


1949 盛元伸介(伸介)、哲治より土地(一部?)賃借開始。

     当時の現地主佐々本朝子(朝子)14歳、佐々本滋(滋)3歳。


1957.12.03 哲治死去。この時点で佐々本勇一(勇一)・滋両名持分各2分の1にて本件土地全部相続と後の調停申立書にはあるが、不動産登記簿記載事項との照合では、この時点で哲治の妻が持分の全部を相続したものと思料される。

 1957年時点で朝子22歳、滋11歳であり、1972年に相続との上記事項記載を加味すれば1957年に哲治より現地主らが直接相続はやや不自然(勇一は成人済と思われる。当時朝子との婚姻の有無不明)。

 なお、当時の大卒初任給約1万1,000円。


1960.03.29 区画整理事業完了

1960.07.11 同上に付登記


1964.05.04 伸介、本件共同住宅(建物)、本件土地(一部)に新築

 ~地代月5,000円、年間6万円(当時の大卒初任給は約2万円)。

 それ以前も同額の可能性大。

 また、その後も一切改定されず2006年度に至る。

 地主ら(一部もしくは全員)は地代徴収にこだわらなくとも困らないだけの経済力を地主らは持っていたし、現在もそうである(そうでなければ当該土地に担保が設定されたり、既に売却されていたりするはずだが、それは現在に至るまで一切ない)と思われるが、明らかに、値上げ等による地代適正化努力を一切怠っていたことの裏づけである。


1972.08.27 勇一及び滋持分各2分の1にて本件土地全部相続。これは後の不動産登記簿上の記載により明らか。

 ここで、哲治の妻にして勇一もしくは朝子及び滋の母になる人物が死去し、それによって当該相続が発生したと考えられる。地主勇一はいわゆる「婿養子」で、だとすれは現地主の朝子と滋が哲治らの実子ということになる。

 なお、当時の大卒初任給4万9,000円程度。かなり物価に見合わない地代になりつつあったということだろうが、高度成長末期の物価高を招いていたこの頃でさえ地代値上げなどの方策を地主らは講じていない。

 前述のとおり経済的困窮がないことに加え、効果的に土地活用をできる者がおらず、また、そのような人物を活用する術を知ったものがいなかったことも伺える。

 さらに、当時朝子37歳、滋26歳で、それぞれ関東地方にて生活を営んでおり、岡山の土地に関わるだけの時間的ゆとりはなかったことも伺える。


1979.11.18 伸介死去。同日相続発生。以後同人妻盛元美枝(美枝)及び同人ら娘盛元清子(清子)の建物持分各2分の1となる。


1989.08.17 上記土地につき、1972.08.27日付相続原因に付、当日付にて所有権移転登記を実行。正味17年間の長期にわたり所有権移転登記を怠っていることから、地主らに登記の重要性に対する意識がまったくと言っていいほど欠落していることが裏付けられる。


1989年当時の地主らの住所

   勇一及び朝子 横浜市港南区(現在と同一)

   滋 千葉市(花見川区~現在)

    * 07年には現住所 千葉県習志野市

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