第二章 イチミリも許さない
私は血液は、酷く濁っている。
犬畜生にも汚れた、あの男の血が通っているのだ。最も醜悪な、敵愾心で溢れるくらい。八つ裂きにしてやりたいほど。
この世のどの言葉をどれだけ並べたとしても、いささか表現することが出来ず、なによりも無惨である。
あの男は、紛れもなく恐ろしい魑魅だった。他人に見せる律儀な姿勢と温厚な顔は、己の落ち度の弱さと、支配されていくわたしの傷を、無理やり正当化するための見せかだった。
男は笑った。目じりのシワを寄せて穏やかな表情を漂わせる自然な笑みは、誰もが良心であると。
他人は皆、疑いもなく声を揃えた。その不完全である完全さはとどのつまり、人間のお面を被った呪いであった。
それでいて、身内に潜めば全く以て人格が交代したかのような態度を振りまい、いや、それよりももっと恐ろしい、跋扈する魑魅魍魎の如く私の身体を激しく痛めつけて情緒をも剥ぎ取ったのだ。極めて残忍なやり方だった。
今となっては、古い記憶。脳内にこびりついていて、剥がれないのだ。
私、小比類巻 蛹が、まだ幼かった頃の幼少期。ちょうど物心がつき始めた年齢の、恐らく三歳くらいに、私は自分の役割を知った。
それは、女の子らしくお人形を使って遊んだり、公園の遊具に興味を持ってみたり、はたまた、好き嫌いをせずにご飯を食べて健康な身体を育てたり、決して、そういうものではなかった。
わたしの役割は、最も単純であり、複雑だった。
わたしの生まれた家は、二十五階建ての最上階。当時だとなかなかの高級マンションだったのだと、今になって知った。
広めのリビングと、トイレと浴槽。ウォークインクローゼット。部屋はそれぞれ異なった大きさで四方八方に四つあり、4LDKだった。
私はその中の一番小さい、玄関から遠く離れた部屋にいつもいた。
夜になると、男がやってくる。
ブォン、ブォン——。
聞き慣れたファミリカーのエンジン音が耳を脅してから、数分後。玄関先で重い扉が開く。
ずっと憧れていた外の世界からやってきたのは、魑魅だった。
同じ部屋なのに、今まで吸っていた空気が急に重くなって、黒いモヤがかかった。
男は、ドンドンドンドンドン。
と、足音を立ててわざと床を響かせると、真っ先に私のところへやってきて乱暴に頬を打った。
それから、やってやったぞ、とでも言いたげな冷酷な目つきをした。
よく、わからなかった。わからないけど、ただただ、頬が痛かった。痺れるくらい痛いのに……ちゃんと痛いのに、頬を叩かれたその瞬間だけ、なぜか音が聞こえなくなるのだ。
痛みだけが、感触として残った。
——ガッ……チャン。
玄関扉が閉まる音を聞いてから、たった数秒の出来事。
私の左頬が、一瞬で赤く腫れた。唇が切れた。ひび割れた隙間から、血が滲み出て、よだれのように流れだした。髪の毛も、くしゃくしゃになった。たった数秒で、地獄の底まできてしまう。
これが、わたしの普通だった。
唇が切れたあと、流れ落ちていく血を指先で拭ったら、白い手が真っ赤に染まった。濁った血液が、良く見えた。
それから唇が先に感覚を失った。たぶん、いちばん柔らかいから。
ゴリッ、ゴリッ——。
つぎに、耳もと。首筋。
慣れてくると、感覚を失う場所が、徐々にわかってきた。あとは、目がくすんだ。
もう一度頬を打たれた時に、ゴーンと何かが脳に響いて、それで改めて気づくのだ。
あぁ、そうだ。
大人は。
大人の手のひらは、わたしの顔よりも、すごく……。
すごく、大きいんだ。
そうだった。
わたしの手のひらなんて、比べものにならないくらい、大きくて、じょうぶなんだ。
あたり前だけど。
時々忘れかけて、いつもこの瞬間に実感する。思い知らされる。絶対的に。
あぁ、この人は……大人だ。大人なんだ、と気づいてしまう。
わたしも、大人になったら、大きくなれるのだろうか。
大人になれたら、強く、大きく……。
想像をしたら、少し楽になった。
それから、さらに男が暴れだして、わたしは徐々に意識がもうろうとしていた。
一人じゃ、上手く立てなくなるくらい。
もういっぱいだ、と思った。
だけど、やめない。やめてはくれない。
小さな二の腕を思いっきり掴んで、わたしを膝まつかせた。
それから、何度も、何度も繰り返した。
(何故だ。何故、逃げる)
なぜ、そうなる。
(神の言うことが、聞けないのか)
神なんて、居るわけが無い。
(お前の見方は、誰一人として居ない)
私はずっと、独りだ。
(お前は一生、逃げられないのだ)
私は一生、檻の中。
深くて、どこまでも深い海の底。
自分が吐いた息の音さえも、暗闇と共に段々と小さくなっていく。
光が、遠く離れていく。
あぁ、痛い。苦しい。死にたくない。
このままじゃ、みんな死んじゃう。
単純だけど、複雑な役割。
わたしの役割は……。
ひたすら無になって、この男のおもちゃになること。気がおさまるまで、耐えること。
だけど——。
もう無理だ。限界だ。
私は必死にもがいた。見えなくなった光のところまで。上へ上へ。時折、何かに絡まりながら、何かをかかわしていく。小さな手足をバタバタさせて、何度も、何度も。一生懸命にもがいた。
けれど何も見えない。何も……。何もだ。
あれ、わたしは……。
大人になるのかな。それとも、わたしは……消えてしまうのだろうか。突如、分かっていたはずの孤独感が一気に押し寄せた。
このまま、消えてしまうのかもしれない。泡になって消えてしまったら、もし本当に死んじゃったら……。
そんなことって、あるのかな。
ゴリッ、ゴリッ——。
考えてみたけど、やっぱりわからない。
全身の力が抜けていって、わたしは再び、海の底へと、ゆっくり落ちていった。
あぁ、海は深い。深くて、誰も居ない。一度海に沈んでしまえば、やがて音も光も無くなってしまう。声なんて意味が無い。身体も動かない。
どんなにあがいたとしても、相手が魑魅である限り、全てが無意味だった。
わたしの役割も、無意味なのだ。
あぁ、海は深い。
もう、わたしを探すことができない。
誰も。
誰もだ。
見つけることが出来ないくらい、深いところまできてしまった。
あぁ、海は……人間が探せないほど、深くできているのだ。
あの部屋から出奔して、十四年の月日が経った。
しかしあの男は今も尚、影のように私の脳に住み続けている。最も醜悪な、敵愾心で溢れるくらい。八つ裂きにしてやりたいほど。私を支配している。どんなに強く擦っても、全身に流れる大量の血液は、わたしの身体から、とんと出ていってはくれない。
あぁ、なんて。なんて、おぞましい。
私の身体が、憎い。
運命が、変えることのできない運命が、この胸に残酷な使命感をも持たせるのだ。
何者かが、わたしの中で叫んだ。
受け入れよ。全てを受け入れるのだ。
とうに、宿運であると。血液も、魑魅も、他人も。
考えるな。変に考えるのでは無い。
これこそが、血液(うんめい)なのである。
わたしは、さなぎ。小比類巻 蛹。厚い殻をまとって、動かない。絶対に。もう動かなくなってしまったのだ。
何もかもいなくなって、空っぽの身体の奥底に小さな蟲が宿った。この蟲が一体何なのか、どこから来たのか、やがて居なくなるのか。はたまた永遠に存在するのか。正体の分からない蟲が、わたしの至るところにこびり付いてしまった。
季節はもうじき、春だった。
冬ごもりをしていた蟲達が、外に這い出でる頃だ。
——カサカサカサ、カサカサ……カサ。
——カサカサ……カサカサカサ。
不規則に嫌な音を響かせながら、わたしの 頭の上を、耳を、手足を。
身体の隅々まで、走り回っている。
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