啓蟄 (けいちつ)
珀 ーすいー
第一章 魑魅は死んだ
どうせ溺れて死んでしまうのなら、
一度だけ、たった一度だけ、
とびっきりの、あまささに
溺れてみたいものだ。
大きめの椅子にちょこんと座って文庫本を開いた。机が高すぎるので、文庫本は手もとに持ったまま。大きな瞳だけを小さく上下に動かしてページをめくった。
教室の床には、もう少しのところで足先がつかなくて、まるで人形のように微動だにせず座っていた。
窓から風が入ってくると、ショートヘアの黒髪が妙な時間差でふわりと舞った。落ちてきた少しばかりの横髪を、遠慮がちに、耳もとにかけなおした。
生徒の声や不快な音が飛び交う中、小さな文字を次々と飲み込むように、ひたすら文庫本のぺーをめくった。本に、空想に、ただ耽っていた。
わたし、小比類巻 蛹(こひるいまき さなぎ)は、今年の春から高校二年生になった。まだ高校生といえど、あまりにも小さ過ぎる体格は、限りなく目立っていた。ひとよりも遥かに、小さい手足。胴体、輪郭、背丈。
とりわけ、軟弱な外貌であり、なおかつ、幼顔であった。さらに言うと、身体だけではなく顔つきまでもが子供と似た特徴で埋め尽くされていたのだ。
わたしは産まれ持ったこの軟弱な外貌が、幼顔が、とてつもなく憎かった。歯がゆい、といった表現のほうがただしいであろうか。この外貌のせいで、女であることでさえも憮然として期待はずれに思ったのだ。
しかるに、女というのはなにかと苦がつきまとう。決着のつかない物事があるとして、その物事をより単純にしようとすればするほど、なぜか遠回りになってしまうのだ。
仕方ないが、それが女だ。
せめて顔だけでも違っていれば、はたまた、こんな外貌でなければ。頭の中でたらればが広がり、あぁ、いや、やはり男でなければ同じことか、と失望してしまう。
しかし、そうこうしているうちに、結果、その単純さに負けてしまうのが、なんとも皮肉である。
かといって、単純さをぶつけてきた者に対して知能が通用するわけでもなく、結局のところそのほとんどは無意味なものであった。未熟で、尚且つこのどうしようもない幼顔。それでいて、女だ。どうやっても、無理なのだ。
兎にも角にも、わたしにとって幼顔とは欠点でしかなかった。
それであるのに、わたしのまわりには無知であるが故にわざわざ嫌味を添えてくる厄介な人間たちもいた。
おそらくあの席の女も同じであろう。教室の廊下側の一番最前列。長い茶髪を無防備に垂らしたその席から、やたらと視線を感じるのだ。決して自意識過剰などではない。なんとなくだか、これにはひとつ、心当たりがある。
と言うのも、高校二年生になって、当たり前であるがクラス替えが行われた。
そしてなぜか、わたしの右側の席が、やけに眩しくなったのだ。圧倒的に、目鼻立ちのバランスが良くて、鼻筋の通った、いかにも若い女たちが好むであろう美少年と、隣の席になってしまったのだ。
まさに、これが根源である。
たぶんだが、わたしたちがこの高校に入学をしてきた頃に、かなりの美少年が入ってきたと、一時期噂になっていたあのときの男子生徒なのだ。このひともまた、産まれながらの強い特性をもっていた。わたしとは真逆の長い手足。高い身長。大きくて、たくましい骨格。
そして、ほとんどの女たちが、いや男たちでさえも羨むであろう美貌が、どこにいても眩しかった。
しかしだ。
聞いたところによると、その美貌とは裏腹、彼は女付き合いが酷いらしい。定期的に、次から次へと短い期間で女を変えている、との悪い噂がたっていた。
無論、わたしにとっては関係のないこと……で、あったのだが……今はそうもいかない。わたしに嫌味を添える茶髪の女は、次から次へと変わっていく美少年の数々の女たちのひとりなのだ。
女がわたしに視線を送っている。威圧的な空気を醸し出して渋い表情をすると、キリッとした目もとがなおのこと細くなった。
茶髪の女が、怒っていた。
わたしは窓際に身を寄せて静かに読書を続けた。
風がそよいで、草木が揺れた。授業がはじまる前の朝はなんとなくしらけていて、教室の外はひとの声があまりしなかった。
どこからか、ジージーと、虫の鳴き声がした。なんの虫なのかはわからないけれど、やけに耳にのこった。
ふと教室のなかに視線をもどしてみると、隣の席に座る眩しい美少年と、目が、合った。
動揺して咄嗟に視線を外した。
今度は、茶髪の女と目が合った。身体ごとこちらに向いていて、やはり渋い顔をしていた。
あぁ——。
女は嫌いだ。弱いくせにバリアだけは頑丈なのだ。大した武器などないのに、分厚い盾だけを身構えて戦ったつもりになっている。借りてきた盾を本物のちからだと思い込んでいる。ほとんどの女がそうだ。バリアを大きくすることで、自分の存在までもが大きくなったと、勘違いをしているのだ。
多くの人間は、それを知らない。
気づかない。
だから女は嫌い。弱い女が嫌いだ。
もっとも、わたしもその女ではあるのだが……。
「おはよう、さなぎ」
そしてだ。
弱い女は無論のこと、男らしい男は、もっと嫌いである。キリッとした顔立ちで、長くて大きい手や足。背が高くて骨格や筋肉も桁違いの、いかにもたくましい男、美少年が、わたしの名前を呼んだ。
「おはよう、さなぎ」
「……」
「君、本が好きだってね」
「……」
「少し変な子とは、聞いていたけれど」
「……」
「それって、本当におもしろいのかい?」
耳障りだ。
あぁ、無知が。読書の邪魔だ。
いかんせん、純白である幼い子ども達はもとより、この美少年も無知な上に極めて残酷なのである。悪く言えば無神経、とでも言えようか。
視線も合わさずに小さな文庫本のページをめくった。
わたしの癒しは、ひとつだけ。たった、ひとつ。文学という空想だけだ。なんといっても空想は無限なのである。本から飛び出す空想が、無数の虚構こそが、わたしのこころを癒すのだ。
目を通して飲み込んだたくさんの文字が、身体の中に入り込んでいく。身体の奥に、血液の中に。
ぜんぶ読み終えて文字と空想でいっぱいになったとき、ほんの少しだけ、憎い身体が溶けて消えてくれそうな、そんな気持ちになるのだ。
いつしかたくさんの本に囲まれて、あきるほどの空想にひたすら耽ってみたいものだ。
わたしは小さな指先で紙の感触を堪能しながら、再び本のページをめくった。
紙と、印刷の匂いがした。それと同時に、懐かしい香りもほんのり香った。この本は、何度も触れてきたずっとむかしのものだ。
教室の中で不快な音に囲まれたとき、淡い記憶を辿りながら空想に浸っている。
ガタン——。
突然、右側で鈍い音がした。
美少年が立ち上がって何かを言った。なにを言ったのかは聞こえない。
わたしの視界に入ってくると、手もとにあったはずの本がするりと抜けて、美少年のもとへと行き渡った。
「こんな紙の束が好きだなんて、やっぱり、へんなやつじゃん」
美少年がわたしの本を持ち上げた。
大きな手のひらで文庫本が強引に包みこまれ、抵抗する間もなく、美少年がわざとらしく片手でパラパラとめくりだした。
文庫本がバランスを崩して逆さまになった。
と、その拍子に、栞として挟んでいたポスターカードがひらひらと床に落ちてしまった。
美少年が、表情を歪めた。
「うぁ、蜘蛛だ!」
わたしは咄嗟に立ち上がって美少年を睨んだ。
それから、しわがれた細い声で言った。
「……蜘蛛では、ない」
蟹だ。コワタクズガニだ。ポスターカードに写った生き物は海の仲間。擬態を得意とするけど、堪え性が無くて、なおかつ臆病であるためすぐに素の姿に戻ってしまうコワタクズガニだ。
わたしは美少年から本を取り返すと、床に落ちてしまったポスターカードを拾って椅子に座り直した。
「ねぇ、さなぎ」
美少年は懲りない。
「なんだね、君」
わたしは、本のページをめくりながら、だるそうに生返事をした。文庫本のどこにポスターカードが挟んであったのか分からなくなってしまい、結局、適当なページを開いてそこから読み始めることにした。
「君っていつもひとりだよね。寂しくないの? そうだ、きょうの放課後、ぼくといっしょに、かえらないかい?」
「なぜだ。なぜ、わたしが君といっしょに帰宅しなければならないのだ」
「だって、友達がいないみたいだし、ぼくがなってあげるよ」
「いらぬ、おせわだよ」
「せっかく、さそってるんだよ」
「……」
「ねぇ、そうでしょ?」
はぁ、とひとつため息をして、読みかけの本を開いたまま再び美少年を睨んだ。
「わたしは、君に、はなしなどない」
少し黙ってはくれないかね。そう言いかけたとき、タイミングよく予鈴が鳴り始めて、扉が開き、分厚い出席簿を手にした担任が教室の中に入ってきた。
美少年は不服そうな顔を浮かべながら、姿勢を正して担任のほうを向いた。
それから、なんとなくクラス全体が静かになり、総務委員が号令をかけた。
起立、気をつけ、礼。掛け声と共にホームルームが始まった。担任は教卓の前に立っていつもより少し早めに出席をとった。
出席確認が終わって、ひとつ咳をした。
そしてなぜかそわそわしながら、
「えーっと、みんな、じつは今日、この学校で研修をすることになった先生がいる。音楽の先生だ。音楽の授業と、それから、このクラスのホームルームを一緒に過ごすことになる。少しの期間だが、先生が困っていたら、みんなも教えてあったげるように。では先生どうぞ」
担任が教室扉に視線を送った。
咄嗟の出来事に、クラスのみんなは少し動揺しているようだった。徐々に教室の中がざわつき始めて、そして、その空気を遮るかのように、ひとり、男が足を踏み入れた。
淡い水色のワイシャツに、瑠璃色の無地のベスト。アンサンブルであろうスーツパンツを身につけて、教室の中へ入ってきた。筆記用具やノートなどが入った赤色の小さな籠。脇で抱える姿が良く似合う。いかにも教師らしい雰囲気だ。
しかし……若い。若くて、なにより小柄だ。小柄な体格で余計な筋肉は見えず、少しばかり華奢だった。だが、凛々しく立ち振る舞う華麗な姿は、著しく健康的な身体をしていた。
男は軽々しい足元に一歩一歩重みをのせながらゆっくりと歩いた。鈍い足音が規則的に響く。教室の中央に来ると、担任との距離を少し保ちながら正面を向いた。慣れているのか、それとも単に緊張をしているのか。なんとも、不思議な空気が漂った。
それから——。
黒い真珠のような瞳が、写った。
まるで、深い海底を見ているかのような、沈んだ瞳。ずっと見ていたら吸い込まれていきそうな、深い色をしていた。
男が、口を開いた。研修生とは思えないほどの、かなり落ち着いた表情で淡々と自己紹介をした。
「今日から二週間、みなさんの音楽の授業を担当します。花田 蛍です。よろしくお願いします」
短く言い終わると、軽く一例をした。やっぱり、凛々しい。
男が華麗に顔を上げる。
再び黒い真珠が見えた……と、思ったつぎの瞬間、分かりやすく口角があがって、目元にしわが寄った。顔がくしゃくしゃになって、あからさまに目が細くなった。沈んだ瞳が、見えなくなった。
男が、空笑いをしたのだ。
みんなは少し戸惑った。ざわついていた教室が、水を打ったかのようにしんとなった。
わたしはそのまま、表情をつくった花田先生の瞳を見つめた。沈んだ黒い真珠を、探した。見えそうだけど、隠れてやっぱり見えない。
だけど、もう一度見てみたい……。
と、何かを遮るかのように担任が勢いよく喋りだした。
「えーっと、じゃあ、一時限目はちょうど音楽だから、みんな……移動教室だ」
ぼんやりとホームルームが終了して、みんなは颯爽と音楽室へと移動し始めた。音楽の教科書と、筆記用具。それから読みかけの本を抱えた。「ねぇ、さなぎ……」と、隣の席から声が聞こえてきたので、これ以上美少年に近寄るまいと、急いで音楽室へと向かった。
教室の中では担任が独断で決めた席順にみんな座っていた。一貫性もなくてバラバラだった。
しかし、移動教室になるとなぜか全て統一されて五十音順になる。席の並びによっては不服に思うことがあった。特に音楽室。よりによってわたしの席は最前列のど真ん中なのだ。落ち着かないし、いやだった。ほんの少し前までは……。
今日はちがう。
やけに落ち着いた表情で、冷静かつ沈着な、時折、空笑いをする花田先生が目の前にいた。
「うむ、きょうは最初の授業だ。教科書は使わずに、むずかしいことはさけよう」
長めのチョークを選んで黒板の中央に大きく何かを書き始めた。すごく達筆な、美しい字。黒板に文字を刻んでいく音だけが、音楽室で静かに鳴り響いた。書き終わると、手についたチョークの粉をパン、パンと軽く払いのけて、薄く笑った。
「みんな、ベートーヴェンは知っているね? もっとも有名な曲の、交響曲第五番。日本では一般的に運命と呼ばれる。今から先生が、この交響曲第五番を弾く。みんなは、聴いた感想をなんでも、用紙に書いていください」
わたしは、教科書や本を机の中にしまって、筆記用具だけを残した。
みんなは、「えぇ、どうして」とか「難しい書けない」などと小声で言っていたが、先生は眉一つ動かさずに、あらかじめ準備をしていた白紙の用紙を配りだした。
全員に行き渡ったことを確認すると、赤色の小さな籠から楽譜らしきものを手に取った。黒板の直ぐ左横にあるピアノの椅子に座り、それを置いた。
ゆっくりと、深呼吸をした。
花田先生が、ピアノを弾き始めた。
大胆な音が音楽室に響き渡って、空間をつくった。
なんだか、文学みたい。楽譜から飛び出したメロディが、魂を乗せてわたしの身体の中に入り込んできた。音を、魂を、体内に直接飲み込んでいるような、そんな感覚だ。聞き覚えのある部分でさえも、花田先生が奏れば、まるで即興で弾いているみたい。不思議だった。
わたしと花田先生は、同じ音の中にいる。と、そんな気もした。不確かだけど、きっと似たようなものだった。うまく表現はできないけれど……。複雑で、あまりにも残忍で、憎くて、他人が想像出来ないほど無惨な世界なのだ。
曲の後半になるにつれて、それは強い確信へと変化していった。きっとこのひとは、そうだ。このひとは、きっと……花田先生は……。
花田蛍は……わたしの音を、知っている。ほかの人にはわからない。
複雑な音を——。
リズムがゆるやかになって、曲調が変わった。メロディはまだ続いた。白紙の用紙を見つめて、それから、力強くペンを握りしめた。
✱
その日の放課後。
鞄の中や、引き出しの中……。何度も確認をしていたが、やっぱり無かった。今朝まで読んでいた本が、教室のどこを探しても見当たらなかった。
必死に記憶を探った。おそらく音楽室の机の中に置き忘れてしまったかもしれない。と、不意に思い出した。
はぁ……。
ため息を漏らし、荷物をまとめて、仕方なく音楽室へ向かうことにした。
わたしたちの校舎は、旧館と新館に別れている。一年生と二年生の教室は旧館に、三年生の教室は新館にある。
そして、音楽室も新館だった。新しい校舎の、最上階にあったのだ。そのため三年生以外が移動教室をするときは、少し遠くて苦痛だった。
校舎を移動して、すぐ階段がある。授業と授業の合間にこの長い階段を昇り降りして、たまに息切れをするのだ。もう一年くらい経ったのに、まだ慣れない。
ほかのひとは知らないが、あまり運動をしてこなかったわたしにとっては若干、苦痛なのだ。
長い階段を眺めていると、ちょうど踊り場の窓から光が差し込んできてきた。いつもは必死に駆け上がっていた階段を、今だけは、ゆっくりと昇ることにした。
最後の階までくると、廊下に付けられた大きな窓から、さっきよりも明るい日差しが見えてきて瞼を襲った。目を細くしながらなんとか昇りつめた。廊下に出ると、ようやく左手に音楽室が見えた。音はしないが、少しだけ、扉が隙間を作って開いていた。やけに静かだ。
扉の隙間をそっと覗いた。やっぱり誰もいない。電気もついていないみたいだ。
無造作に扉を大きく開けた。中に入って、今日の朝座っていたあの席に向かう。中央の最前列。わたしは少しかがんで、引き出しの中に手を入れた。中を、覗いた。
あれ……。
引き出しの中には何もなかった。おかしい。確か、教科書と一緒にしまったはず……。ここじゃなくて、違う場所に置き忘れてしまったのだろうか。思いだせない……。
と、その瞬間、なぜか不意に身体がひんやりとした。生ぬるい風が吹いてきて、横髪が微かに揺れ動いた。
窓が、開いている。そういえば、扉も。不自然に開いていた。すこしこわくなって、だけど……おそるおそる、振り向いた。
あぁ、やっぱりそうだ。この空気感は、このひとだったんだ。
振り返ると、一番奥の窓際の席に、沈んだ瞳をした花田先生が座っていた。
わたしの本が、見つかった。
花田先生は、どうやらわたしに気づいていないようだ。ひたすら、本のページをめくっている。まるで、空想の中に吸い込まれて、身体だけ現実の世界に取り残されたような……。美しい姿で読み耽っていた。
しばらくして、少し近づいた。
「は、はなだ……せんせい」
わたしの声は、思った以上に、かぼそかった。しゃがれた声が、春の風によって一度かき消されて、妙な時間差で、花田先生の耳へと届いた。
目が、あった。黒い真珠が光って、少し驚いたような表情をして、直ぐにはにかんだ。
「あぁ、すまない。君の本をかってに……その、わるぎは無いのだけれど、とどけけるまえに、つい、少しだけ、と……」
すこし驚いたようにも見えたけれど、やっぱり落ち着いた表情だった。
「はなだ先生も、その本、きにいったの?」
「はは、そうみたいだね……本は、空想は、無限だからね」
名残惜しそうにしてわたしの本を静かに閉じ、表紙を見つめたまま静かにつぶやいた。
「ほんとうは、みんなの前に立ってはなしをするのは、あまり得意ではなくてね……むろん、ピアノはすきなのだけれど、たぶん、ぼくはこうして、本をよんでいるほうが、きっとにあっているのだ……」
続けて花田先生が何かを言おうとして、だれど、唇が少しだけ動いて、やめた。
「あの、はなだせんせい……その、わたしの本……」
「あぁ、ほんとうに、すまなかったね」
笑みをこぼしながら大事そうに本を抱えてわたしのほうへと近づいてきた。怒ったらいいのか、笑ったらいいのか、それとも、全然違う表情をしないといけないのか、結局、何が正解なのか分からなくて、そっぽをむいた。
風が吹いてきて、カーテンが、ふわりと舞った。ふたりの間に、甘美な香りが漂った。
「その本、貸してあげる」
「貸して、くれるのかい?」
「えぇ、そうよ」
「ほんとうに、いいのかい?」
「かまわないわ」
視線を戻して、少し不思議そうに見つめる花田先生を眺めた。瑠璃色のベストと淡い水色のワイシャツが、黒い真珠をより一層美しくさせた。
わたしの目の前に差し出された本。ゆっくり近寄って、そのまま、本を手に取り、花田先生の胸に押し当てた。
「じゃあ、らいしゅうね、先生」
わたしは花田先生の横を通り過ぎた。
そして、振り向きざまにどうしても見たくなった。
「うん、らいしゅうね、小比類巻」
沈んだ瞳の奥で、黒い真珠が小さくきらりと、光った。
玄関口で靴を履き替えて校舎を出ると、美少年の姿がいた。隣の席の、やけに眩しい美少年。
わたしはそのまま過ぎ去ろうとして、強引に、腕を掴まれた。
「さなぎ!」
長袖のセーラー服にシワがよった。力が強い。男だ。だけどなぜか、少しだけ太い声が震えていた。
「えっと、その……いっしょに帰りたくて、それで、さなぎを、待っていたんだ」
「はぁ」
「だから、えーっと……」
わたしは君を、待たせてはいない。そう、言おうとしたけれど、なんとなく、今はそんな気になれなくて、嘘をついた。
「わたしは……すこし、わすれものをしてね……いま、きたところだ」
美少年は目を丸くして驚いた。
わたしは美少年と一緒に並んで歩くことになった。教室の中でも。そして、今も。ふたりが、並んでしまった。彼は悪くない。
しかし、あぁ、無知というのは、非常に残酷だ。何もかも全て。
聞きたくない言葉がわたしの耳を痛めつけた。
(消えろ、無くなれ)
(ぜんぶ消えてしまえ)
校門が見えてきて、目の前に淡い何かが落ちてきた。
と、その瞬間、どこからか華麗な音楽が聞こえてきた。ピアノだ。音楽室のピアノだ。花田先生が弾いている。
わたしは振り向いた。音楽室の窓が全て開いている。確かに花田先生のピアノ。だけど音がまるっきり違う。今朝に聴いたメロディとはなにもかも違っていたのだ。なんというか、真逆だった。軽やかで、きらびやかで、そしてなぜかちょっと切なく感じる、暖かい音色。
どこかで、聞いたことがあるような、そんな懐かしい感じもする。
(どこだっけ……)
やっぱり、おもいだせない。
だけど——。
不思議だった。思い出せないのに、うれしい。
わたしは、風に乗せた音色を捕まえるように、校舎をゆっくりと離れていった。
✱
次の週の週末。
帰りのホームルームは普段と変わりはなく、今日も予鈴と共に簡潔に終わった。担任は、「体調に気をつけましょう、以上」とだけ言って生徒を見送った。
クラスのみんなは、週末の挨拶を交わしながら、部活へ行くひとやそのまま帰宅するひとが次々と教室を出ていった。
少し遅れてわたしも同じように教室を出た。長い廊下の床には、窓の外から侵入した枯葉がちらほらと落ちていた。ところどころヒビがはいっている。
わたしは、足をとめて眺めた。むろん、この枯葉も過去には若葉であった。鮮やかな色をまとって、木になっていたのだ。 しかし今は、若葉であった頃の役割をまっとうして灰になろうとしている。枯葉だけでは無い。やがて、ときが過ぎて灰になるとき、きっとわたしは迷うのだ。果たして己の役割は合っていたのだろうか、正しかったのだろうか、はたまた、酷く後悔をしてしまうのか。永久に分からず疑問を抱えたまま消えていくのであろう。と、ふと思った。
わたしは、この、役割をまっとうしたいちまいの枯葉が羨ましく思った。
「さなぎ」
わたしの名前が呼ばれた。教室に視線を移すと、美少年がまだ教室の中にいたようでこちらを見ていた。あぁ、まただ。また要らぬ話を持ちかけてくるのだ。強い嫌悪感を抱き、早足で歩いた。すまないが、無駄な体力は使いたくない。
長い廊下を渡りきって、降り階段へ続く一番奥の角を、左に、曲がった。
と、思ったら、突如、視界に黒い真珠が映りこんできて思わず足を止めた。大きく身体が前に倒れて、バランスが取れなくて、結局、
トサッ——
衝突をした。
瑠璃色のベストが写ったかと思うと、つぎの瞬間、視界が真っ暗になった。衣服の繊維なのか、それとも、全くべつの何かなのか、深い匂いがした。鼻の奥が、くすぶったくなった。
慌ててすぐに離れると、深い匂いは薄くなって視界がもとに戻った。見上げたら、花田先生が空笑いをしていた。
「……だいじょうぶかい?」
「あっ、すみません……えっと、あの……さようなら」
挨拶だけをして、軽くお辞儀をした。
「うむ、さようなら」
そのまま何事も無かったかのように、冷静かつ沈着な表情を浮べた花田先生は、わたしの横を速やかに通り過ぎていった。
我に返ったあと、美少年の声が耳にはいってきた。
階段を走って降りた。ふたつめの踊り場に到達したとき、鞄ごと、今度はうしろに引き寄せられた。
「ねぇ、さなぎ! なんでにげるのさ」
つかまってしまった。仕方なく、うしろに倒れかかったまま美少年の右足を軽く踏みつけた。
「は、な、せ」
ようやく突き放すことができたわたしは、氷のような視線で美少年を睨んだ。
「ちょっと、渡したいものが……ある、んだけ、ど……」
困ったように眉をひそめだして、それから……肩を落とした。少しばかり不服な顔をしている。
と、その時だった。美少年の後ろから、渋い顔をしたひとりの女がこちらに向かって歩いてきた。ひときわ背が高くて若干ませたような。腰の辺りまで伸びた真っ直ぐな茶髪を、わたしに視線を送りながらゆっくり揺らした。最前列に座るあの女だった。
女は、踊り場までやってくると美少年の太い腕を強引に引き寄せた。
「これいじょう、れんくんに、ちかよらないでください。ほんとうに……あなたは、ほんとうにめいわくです!」
迷惑なのは、こっちのほうだった。
だけど、これで美少年も着いてはこない。わたしは戸惑ってあたふたする美少年を横目に、
「……だ、そうだ。わたしは……さきに帰る」
と言ってその場を去った。
玄関口までたどり着くと辺りは静かになった。ほとんどの生徒はみんないなくなっていていた。運動場を走る陸上部の掛け声だけが、遠くで聞こえるくらいだ。
はぁ、と小さくため息をした。クラスの番号と、わたしの出席番号が書かれた下駄箱を、
ガチャン——
だるそうに開けた。
すると、下駄箱の中からひらひらと、なにかメモのようなものが落ちてきた。四つ折りになって出てきた紙が、そのまま足もとにに落ちた。拾って中をひらくと、達筆な文字で、〝きょう ほうかご おんがくしつ〟とだけ、書かれていた。
きょう、ほうかご……。
そのときだった。どこからか、ピアノの音がした。かろやかで、きらびやかな、そして、少しせつなくさせる音色が、校舎の奥から聞こえてきた。きっと、そうだ。わたしを待っている。すぐに振り返って小さなメモをぎゅっと握りしめた。新館のいちばん最上階へと急ぐ。
はやく、はやく行かなくては……。
息をきらして上へ上へと駆け上がっていった。どこかで耳にしたような、居心地がよくて、懐かしいメロディ。わたしは、この音色がすきだ。タイトルすら知らないけれど、一度聞いたらまた思い出せる。音が、五感を刺激していくのだ。
ちょうど曲調が盛り上がってきたとき、音楽室の前にたどり着いた。
扉を、大きく開けた。
ピタッと、音楽がとまった。
ピアノの奥で、花田先生が、沈んだ瞳を光らせていた。
ついさっきまで甘美な音を奏でていたその姿は、とてつもなくうつくしかった。
「……はなだ、せんせい」
「すこし、おそいのではないかね?」
花田先生がはにかんだ。
「あら、はしって、ここまできたのよ。わたし」
「はは、じょうだんだよ、小比類巻。もしかしたら、帰ってしまったのではないかと思ってね、すこしふあんになったから、こうしてピアノを弾いていたのだよ」
「じゃあ、やっぱり、わたしに知らせるために、弾いていたのね」
「あぁ、もちろんだよ」
花田先生は立ち上がって、赤色の小さな籠の中からわたしの本を取り出した。
「これ、ありがとう」
「もうよんだの?」
「あぁ、そうだ。おもしろくて、すぐによんでしまったよ」
「ふふ」
わたしは思わず笑って、本を受け取りながら花田先生を見つめた。
同じように花田先生も笑って、少し照れたような表情をみせた。
「その、なんというか、礼ではないのだが……きょうのよる、もしたいくつであれば、すてきな場所を、おしえようと思ってね……」
「かくれが、みたいなところ?」
「あぁ、そうだね。かくれがみたいなところだ」
「あら、すてきね! なんじに待ってればいいの?」
花田先生ははにかんで、甘美な香りを漂わせた。
「じゃあ、二十時に、がっこうで」
「ふふ、わかったわ。準備ができたら、すぐに向かうわね」
「あぁ、待っているよ」
本を受け取って不意に裏表紙を見た。黒いインクがだいぶん消えていて、文字が薄くなっていた。そういえば押してあった。薄くなって気づかなかったけれど。
あぁ、そうか——。
わたしは花田先生に視線を戻した。先生はわたしの手もとをぼんやりと見つめていた。
しばらくして、目が合った。なぜかせつなさを残して微笑んでいる。
先生、わたし——。
微笑む花田先生を見つめて笑った。めいいっぱい、子供みたいに笑った。
「わたし、花田先生の音楽がすきよ」
✱
学校へ到着して時計を確認すると、秒針が小さくカチッっと動いた。ちょうど二十時を過ぎた。先生はまだ居ない。校舎の向かいに側ある歩行者用の信号機が点滅して、赤色になった。明かりといえば、来た道に頼りない街灯がいくつか並んであっただけで、辺りは真っ暗だ。
街は、ジージーと、お昼に聞いた虫の鳴き声がするだけで、とりわけ静かだった。少しばかり心細さを感じた。草木も、校舎も、街も。まるで昼間のそれとは恐ろしく違って見えた。
すごく、こわい。だけど、少しだけわくわくする。しかるに、その不安と恐怖が人間の好奇心を作り出していることももちろん知っていた。相反しているのに、変に納得をするのだ。もっとも人間は複雑であり、単純なのだ。
わたしは、校舎をじっと眺めた。霧のような灰色の雲が、校舎の背後からゆっくりと出てきた。少しだけ、校舎が動いて見えた。
しばらくすると灰色の雲が消えていっていって、嘘みたいに綺麗な一筋の光がわたしを照らし始めてた。満月が、顔を出した。
きれい……。
暗かった街が、少しだけ色づいた。街みんな、満月に従ったようだ。
ブォン、ブォン——。
どこからか、ものすごい排気音が聞こえた。おそらくバイクのエンジン音だ。静まり返った街に、一台のバイクが走っている。音は派手に響く。
ブォン、ブォン——。
排気音が徐々に近づいてきた。不規則に響くエンジンの音は、やがてわたしの目の前でぴたりとまった。
排気音の正体は、花田先生だった。いや、正確に言うとそこに居たのは、先生ではなくて、花田 蛍だった。教師らしくないカラフルなカッターシャツに、これまた、教師らしくない青色のパーカーを着ている。袖は七分袖に調整をして、緩めに折り曲げていた。わたしと似た、色白くて華奢な腕がひっそりと伸びている。
花田 蛍、三十一歳。その姿は、どこにでもいる若い成年の、とある夜であった。月の光に照らされて、ヘルメットの中に潜む沈んだ瞳が、きらりと光った。ほんの一瞬だったけど。あぁ、やっぱり花田先生だ、と思った。
暮夜ひそかに。校門の前で、制服じゃないわたしと、小洒落たベストを脱ぎ捨てた先生が、白々しく見つめあった。数時間前、学校の廊下で挨拶を交わしたときのように。
わたしは、少し照れた。顔が上手く隠れていて、表情が見えない先生はずるい、と思った。どことなく妙な空気と、ふたりの距離感に耐えきれず、わたしは先生のそばに駆け寄った。
「おそいじゃない、先生。わたし、ちょっとこわかったのよ」
「はは。それは、すまなかったね。一度、君の自宅の前まで行ったのだけれど、もう先に出ていたみたいだ」
「まあ、迎えに来てくれていたのね」
「女の子だからね」
バイクから降りた先生は、小さめのヘルメットを取り出した。
「なんか変な感じね。なんていうか、その、先生って、意外とふつうなのね」
「ほぅ、失望したかい?」
「いいえ、そうじゃないわ。逆よ」
「逆?」
「えぇ、安心したの」
「ぼくがふつうだったから?」
「えぇ、そうよ」
「はは、君は相変わらずふしぎだね」
「先生だっておなじじゃない!」
わたしは笑った。
先生も、つられて笑った。
少し照れくさそうして、花田先生のほうがさきに目を逸らした。「はい、これ、さなぎのね」と言って小さなヘルメットを取り出して渡されたヘルメットを被り、バイクの後ろにちょこんと座った。
わたしがちゃんと座っていることを確認すると、先生もバイクにまたがった。
ブォン、ブォン——。
慣れたようにアクセルを踏み、エンジンの音を激しく鳴らした。
ブォン、ブォン。ブォーン——。
排気音と共にふたりは大きく揺れて、あっという間に学校から遠ざかっていった。風の中に、吸い込まれていった。
やはり、不思議であった。花田先生が出す音は、昼と夜とでは正反対なのだ。太陽の光が差し込んだ小さな音楽室で、軽やかに、きらびやかに、そしてなぜかちょっと切なく感じる音色が、夜になるとその全てが嘘みたい。排気音に、変わっていた。
花田先生が出す音は、空想のように自由自在で、無限だった。
たぶん、学校からはそう遠くない。
人気のない小道を右へ左へ何度か曲がって住宅街を抜けたら、ひときわ目立つアンティークな外観の建物に辿り着いた。
先生が先にバイクから降りた。わたしは後ろに乗ったままヘルメットが外されたかと思うと、身体ごと持ち上げられて気がつけば地に足が着いた。
「ここだよ、小比類巻」
「あぁ。もう、ついてしまったのね、少しざんねん」
「はは、そのうち、また乗せてあげるよ」
ふたりが被っていたヘルメットをメットインの中へしまいこみながら小さくはにかんだ。
慣れない風に強くあたっていたから、少しだけ肌寒かった。小さな身体をもっと小さくして、丸く縮こまった。
なんだか、ほんのり熱い。
冷やされた身体の中で、ぼんやりと残る人間の体温がわたしの中で変に熱くなっていった。
「さむいかい?」
心配をして花田先生がわたしの顔を覗き込んだ。
「いいえ、へいきよ」
「そうか、それならよかった。」
「先生のかくれがって、このたてもののこと?」
「あぁ、そうだよ。みてて、もうすぐ分かるから」
先生に言われた通り、アンティークな建物を見つめた。静まり返った街に、聞きなれた虫の鳴き声が響き渡った。
花田先生が、わたしの名前を呼んだ。
「みてて、小比類巻」
その数秒後——。
突如、パッとライトがついて目の前が光った。アンティークな建物は、無数のライトによってきらきらと光に照らされたのだ。あかいろ、おれんじ、きいろ、みどり。 様々な色をまとって、扉や、窓や、看板が、一瞬で明るくなった。
「すごい!」
建物がイルミネーションみたいになった。
扉に近づくと、手書きの文字で、
〝ものがたりと珈琲〟
と、小さく書かれた看板が置いてあった。
ものがたりと、珈琲……。ということは……。
「先生、ここって喫茶店?」
「あぁ、そうだよ。」
「もしかして、その……本とかも置いてあるの?」
「さなぎはするどいね。あぁ、そうだよ。ぼくのかくれがだ。君の好きな空想も、ここにはたくさん置いてあるよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「じゃあ、あきれるくらい読めるのね」
「あきれるくらい、ずっとね」
うれしくなって、わたしは咄嗟に花田先生の手を掴んだ。はりのある上品な肌質。わりと華奢な、だけどちゃんと健康的な、先生の美しい手。わたしの身体に残る、微かな温もりの出どころ。
そのまま先生の手をぎゅっと握りしめた。花田先生も同じように握りかえした。
あまい。
果汁よりも濃厚で、ミルクのようなやわらかさ。
「なんて、すてきなの!」
ふたりは、手を繋ぎ合ったまま。きらきらと光る、あたらしいものがたりの入口へと、勢いよく駆け出した。
扉の向こうには、わたしの想像を超えるくらいの沢山の本たちが待っていた。文学やエッセイ、専門書、さまざまなジャンルの本が、巨大な壁本棚に敷き詰められていた。また、各テーブルの仕切りにまで本は散乱している。
ふたりは、低めのソファが並んである席に座った。テーブルの横には、図鑑のように分厚い本が、ずらりと並んでいた。
ほんとうに、おとぎ話の中にでも入り込んでしまったようだ。現実とはかけ離れた、特別な空間。なんだか、夢を見ているような気分にもなった。床も、天井も、壁紙も。異国のような、深い色に染まっていた。
ちょうど天井を見上げたとき、先生の声がした。「のみものは、なににする?」と聞かれたので、甘いカフェオレが飲みたい、と言った。先生は何を飲むのかを聞くと、少し悩んで、ブラック珈琲を選んだ。
「はなだせんせい、苦いのはへいきなの?」
「うむ……あまりへいきではないが、ちょっと飲んでみたくなって」
ウエイターを見つけて視線を送ると、軽く右手を上げた。
視線がこちらに戻って、わたしと目を合わせた。
「ぼくも、ずっと、甘いのを飲んでいたからね、すこしだけ、ちょうせん」
「じゃあ、わたしと、おなじなのね」
カウンターのほうから、ウエイター近づいてきた。鼻と口の間に髭を生やしていて、白髪の、ダンディな男性ウエイター。ウエイターは、速やかに注文をとって、小さく会釈をした。広げてあったメニューをたたむと、そのまま、カウンターへ戻っていった。
そして、数分後。
香りを飛ばす小さなマグカップと、洒落たグラスに入ったお冷をふたつづつ。丸盆に乗せて、再びウエイターこちらにやってきた。テーブルの前まで近づくと、マグカップの中の香りが蒸気と共にふたりを囲んだ。もう既に、鼻が喜んでいた。
ウエイターは、「お待たせしました」とだけ言って、丸盆のバランスを保ちながら、香ばしい香りを先生の前へ、甘い香りを私の前へと置いた。洒落たグラスに入ったお冷も添えて、ウエイターは速やかに去っていった。
小花の模様が入った可愛らしいティーカップ。その中に、零れそうなくらいのカフェオレが、可愛らしく待っていた。深みのある珈琲豆と濃厚なミルクの絶妙な香りを、うんと鼻に吸い込んだ。
すうぅぅ——。
「はぁ……」
わたしの、好きな匂いだった。ティーカップを優しく持ち上げて、ゆっくりとくちへ運ぶ。ひとくち、のみ込んだ。
「あまい。あまくて、すごくおいしい」
「うむ、気に入ってくれたかな」
「えぇ、すごくね」
「それは良かった」
「ほんとうよ、先生」
「あぁ、分かっているよ、小比類巻」
ここは、私の好きな香りと空想で、いっぱいだ。ティーカップの中も、この空間も。沢山の空想の中で、夢のような現実を見ているのだ。
「せんせい、苦い珈琲はどんなかんじ?」
「あぁ、少しばかり、ぼくには苦味がつよすぎたようだ」
そう言って、テーブルの中央に置いてあった角砂糖を、トングでつまんで、ひとつ、ふたつ入れた。軽くかき混ぜてから、ひとくちのんだ。
「うむ。だいぶ、ましだ」
「ふふ。やっぱり、へんなの」
先生は、はにかんで言った。
「はは、君だって同じじゃないか」
わたしは少しふくれて、なんとなく怒ってみせた。
けれど、すぐにおかしくなって笑った。見つめあって、いっしょに笑った。
花田先生は、テーブル横の本棚から、いちばん分厚い本を手に取った。
「これだけたくさんの空想だ。うんと持ち帰ろうと思ってね」
「それは大変ね。ほら、あのいちめんはもう、せいは出来たでしょう?」
中央にあるアンティークな置時計。その背後に、たぶん、ここで一番大きいであろう壁本棚を指さして言った。
花田先生は、壁本棚をちらりと見て、また笑った。
「いや、全然だ」
「あら、先生ならきっと簡単よ。簡単に読み切ってしまうわ」
「ふふ、よしてくれよ」
「じゃあ、わたしも手伝うわ」
「ほぅ、一緒に手伝ってくれるのかい?」
「えぇ、もちろんよ。わたしだって、うんと空想が好きだもの」
「うむ、それは楽しみだ」
先生は分厚い本のページをめくり出した。
しばらくすると、黙り込んで無表情なった。本に耽ると、先生は顔つきが変わって、無表情になる。わたしの本を見られたときもそうだった。もぬけの殻みたいになって、先生はどこかへ消えちゃう。空想に吸い込まれていって、身体だけが現実の世界で置き去りにされたように——。
その姿は、どことなく美しかった。まるで美麗な置物のように、流れる時の中で、そこだけ時間が止まったかのように存在するのだ。ピアノを弾くときもそう。先生はいつだって、美しい。
美しくて、あまい。
(せんせいも、きにいったの?)
(空想は、無限だからね)
(じゃあ、らいしゅうね、先生)
(うん、らいしゅうね、小比類巻)
なんてことない会話が、なんとなく幸福で、常にあいまいで、わたしはそれを知った。きっと本質そのものには意味はない。
だけど——。
わたしの知っている、それ——無意味——とは、なにもかもが違っていた。
花田先生は、ひたすら、あまかった。
あまくて、愛おしかった。
店内の背景音楽が、ゆっくりと消えていった。ポップな曲調から、ジャズに変わった。
すっかり空想に耽ってしまった花田先生を横目に、わたしも、分厚い本を読み始めてみた。
しかし今日は、なんとなく落ち着かない。不意に、思い出すのだ。今もなお、記憶に残った、残忍な世界。花田先生も、それを知っている。同じ音のなかでもがいてきた。
「ねぇ、先生」
「どうかしたのかい?」
「……うん、あのね、たぶん。たぶん、へんなことを言ってるって、そう、おもうかもしれないのだけれど……」
「うん」
「その、なんていうか……空想の対義語って、なんだとおもう?」
「……ほぅ。対義語かぁ……なんだろう」
「じゃあ、もっとへんなこというけど……もしだよ。もし、わたしが、人間じゃなくて、人間じゃなくてね……。魑魅、だとしたら……。せんせいは、じぶんが、魑魅だったとしたら、どうやって人間の世界に、溶け込めるとおもう?」
どことなく険しい表情をした花田先生は、ゆっくりと本を閉じた。
「小比類巻、君が、魑魅なのかい?」
わたしは、黒い真珠を見つめた。
「えぇ……わたしが、そうよ」
「……ぜんぶ、はなしてごらん」
少し戸惑って、悩んで、しばらくしてから話すことにした。
「わたしはね、魑魅なの。魑魅から生まれたの。だから、わたしの血液は、濁っている。汚染しているの、すごく。それから……それからね、魑魅と同じ空間にいたころの記憶も、鮮明に残っているわ。今も、ずっと。消えないし、すごく、憎いの。それなのに、その憎い魑魅に、むかし、忠誠心を抱いていたの。そのことを思い出すと、なおさらじぶんが恐ろしくて、虫唾が走るの」
ひたすら、淡々と話した。花田先生は表情をひとつも変えずに、姿勢を正して聞いていた。
「うむ、たしかに。君のように、確実な血液に忠誠心が宿ってしまうのは、決して、不思議な事ではないよ。決してだ。ごく自然な流れであるように。はたまた、のちに、確執だって生じることもある」
「えぇ、せんせい」
「もっとも……」
「えぇ」
「もっとも、人間の血液であれば、のはなしだが」
「……うん」
「もし君が、君の身体に対して嫌悪感を抱いているのであれば、ひとつ、いいことを教えてあげよう」
「いいこと?」
「あぁ、そうだ」
しばらくして、何を思ったのか花田先生は……空笑いをした。沈んだ瞳が近づいてきた。暗く、深い海底の色に、思わず吸い込まれていきそうだ。
「血縁なんてものはね」
「えぇ、せんせい」
「血縁なんてものは……」
沈んだ瞳といっしょに、先生の声も深くなる。
「血縁なんてものは、ただの箱なのだよ。じっさいは、糸よりも細くて、もろいのだ」
「血縁は……箱、なの?」
「箱、なのだよ」
先生はつよく言い切った。単なる、集合体であると。とりわけ、望まない集合体であれば、そうであるほど、紛れもなく他人であるのだ、と言った。
「それにだ」
「えぇ、せんせい」
「小比類巻。きみがもし、ほんとうに魑魅だったら、そのときは……」
「うん、そのときは……」
わたしは先生に近寄った。先生も、こちらを見つめて大きく身を乗り出した。暖かい吐息が小さく漏れて、わたしの耳をくすぐった。
脳裡に、淡くて懐かしいメロディが流れだした。先生が、ピアノを弾いている。軽やかで、綺羅びやかで、そしてなぜか、少しばかりせつない音色。やさしくて、カフェオレのような、あまさ。
うつくしい花田先生が、わたしの耳元で、そっと、ささやいた。
「ぼくが、殺してあげるよ」
しわがれた小さな声で、一瞬にして、脳裡の音色を消し去った。
ピアノの音が、聞こえなくなった。背景音楽のジャズや、珈琲豆をひく音。楽しげな会話と共に、重なり合って聞こえてくる食器音。
かくて、店内に溢れていた雑音が、再び、徐々に響き出した。
「先生が……殺してくれるの?」
「あぁ、ぼくが、殺すよ」
「そしたら、濁ったわたしの血液も、消えてくれる?」
「ああ、消えるとも」
「ほんとうに?」
「ほんとだよ」
先生は微笑んだ。大きな瞳を細くして、シワを寄せた。黒い真珠が、見えなくなった。
甘美なあまさの中で、弾ける果汁の如く、花田蛍が、わたしの五感に降り注いだ。みんなにとっては当たり前の、わたしにとってはただならぬ心地よさ。
そして、少しばかりいびつな……。罪悪感を感じてしまうほど、わたしは今、甘さにたっぷりと浸かっている。このまま、ずっと、えいえんに。そう、望んでしまうのは、迂闊なことだろうか。
「やくそくよ、先生」
「やくそくだ、小比類巻」
少しのあいだ見つめあった。
しばらくして、おかしくなった。
ふたりは、そのまま笑いあった。
✱
週明けの、朝のホームルーム。
草木が生い茂る大きな窓に、大きすぎて、合わない机と椅子。虫の鳴き声。静まり返った生徒たち。目の前には、教卓と、担任の先生。
それから——。
自分が写った数十枚もの写真たち。授業中の姿や帰宅後のわたし。本を読んでいる姿。それに、自宅の写真まで。
複数の写真が、赤色の小さな籠の中から飛び出して、わたしの生徒手帳と共に散乱していた。
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