華を愛した鬼は何故死を望むのか

渡邉 実心

プロローグ-1 二人は出会い、物語が始まる

  川沿いの桜が満開だった。

雪華はグレーのワンピースの式服に身を包み、母親の三和坂 冴子に手を引かれて歩いていた。肩より少し長い髪は毛先がくるんと跳ねている。背中には真新しいパステルカラーの紫のランドセル。今日は小学校の入学式だった。長々とした校長先生の話をじっと動かずに我慢して聞いていたが、式が終わって緊張が解放されたようだ。足取り軽やかに川沿いの桜の下を歩いていた。

「今日の晩御飯は何がいい?」

 母親が雪華に尋ねる。

「ん~とね、ハンバーグ!チーズが入ったやつがいい!」

「はいはい。今日は雪華が好きなものいっぱい作るからね」

「やったぁ!デザートはチョコのアイスね!」

「んもぅ、今日だけ特別よ」

「えへへへ」

 雪華は愛らしい顔を母親に向ける。

 その時、冴子はズシャと砂利を踏むような音が聞こえた気がした。

何の音かしら?

辺りを見回してみるが、ひらひらと舞い散る桜の花びらがあるだけだ。

気のせいね。

今日は娘のためにご馳走をいっぱい作らねばならない。

「優しそうな先生でよかった~」

 可愛い一人娘は屈託のない笑顔を見せている。


 ズシャ。


 やっぱり聞こえる。

 母親は背中がヒヤリとするのを感じた。

「ねぇ雪華、何か変な音が聞こえない?」

 耳を澄ましてみる。


 ズシャ。


 足音みたい。

そう気づいたとたん、不意に辺りが暗くなった。

 まだ、暗くなるような時間じゃないはずなのに。

「ねぇお母さん、あれ」

 雪華は川の中を覗き込んでいた。川幅は10メートルもない小さな川だ。水深だって、大人の膝ほどしかない。両岸はコンクリートで固めていて、ところどころから草が生えている。

おかしなところは何処にもない。


ズシャ。


でも、もし川底を歩いたら、川底の砂利を踏んだら、こんな音がするのではないかしら?

「お母さん、あれなに?」

娘の興味と恐怖の入り混じった声にはっとする。

雪華が見ているほうを見てみると、川の中に大きな山椒魚がいる。


ズシャ。


さっきまでは何もいなかったのに!

体長10メートル以上、頭の大きさは両腕を広げたより大きい。体の表面は赤黒く、炎のような模様が入っている。ぬめぬめと光っていて気持ち悪い。体を水に漬かりながら、川の中をこちらに向かって歩いている。

こんな大きなものが、こんな近くにいるのにどうして気が付かなかったのだろう。

巨大山椒魚との距離は5メートルほど。冴子はどうしていいのか判断が付かなかった。

こんな大きい山椒魚がどうしてこんなところに?


ズシャ。


一際大きな足音をたてた巨大山椒魚はゆっくりと顔をこちらに向けた。一見しただけでは目がどこか分からなかったが、赤く怪しく光ったので、そこが目だと分かった。

 巨大山椒魚は大きな体をのっそりと動かし、川岸の3メートルほどのコンクリート塀を登ろうと足を掛けた。ぐぐぐぐぐっと大きな顔が塀の向こうから現れた。

 こっちに来る!

「雪華!」

 冴子は雪華の手を強く引くと、後ろに下がろうとした。

 その時、巨大山椒魚の口が、ぱかっと開いた。中から真っ赤な舌が飛び出して、雪華の体を捉えた。舌が縮むと母親の手から雪華がもぎ取られてしまった。

「いやああああぁぁぁぁ!!」

 雪華の絶叫が響き渡った。冴子は一瞬何が起こったのか理解できなかった。

雪華の体は巨大山椒魚のぬめぬめとした舌に捕らわれていた。

いやっ!きもちわるい!

雪華は舌から逃れようともがいた。

 すると、巨大山椒魚の口が一段と大きく開いた。

 雪華を食べようとしている!

「おかあさああぁぁん!」

雪華も自分が食べられるということを理解したらしく、顔が恐怖に歪んで泣き叫んでいる。

 なんとかしなくては!

 でも、どうやって?

 母親は咄嗟に近くに落ちていた1メートルほどの桜の枝を拾い、山椒魚の目の辺りを刺した。が、ぶにんとした感触が伝わってくるだけで、ダメージを与えられたようには感じない。母親は何度も何度も刺した。山椒魚は煩わしそうに顔を動かしただけだった。この方法ではだめだと悟ると、今度は雪華の手を引っ張った。しかし、雪華の体は接着剤で固められてしまったかのように、巨大山椒魚の舌に張り付いて離れない。母親は雪華の腕が抜けるのではないかと思うほどあらん限りの力を込めて強く引っ張った。それでも少しずつ雪華の体が巨大山椒魚の口に引き寄せられている。

「誰か!」

 自分一人では無理だ。娘を助けることができない!

「誰か、助けて!」

 冴子は叫んだ。こんなに叫んだことは一度もない。

 しかし、雪華の足は山椒魚の口に徐々に飲み込まれていく。

「おかあさん!!」

 雪華は足に生暖かい感触を感じていた。

 わたし、ほんとうにたべられちゃうの?

 たすけて、たすけて、おかあさんたすけて。

 雪華は心の中でずっと叫んでいた。

「雪華!」

 どうして誰も来ないのか!これほどのことが起こっているというのに!人も車も全く通らない。近くの住民が来る様子もない。警察に通報する余裕もない。

 すでに雪華の太股までが巨大山椒魚の口に飲み込まれていた。

母親の胸に絶望が下りてくる。

「せつか」

 娘の名前を呼ぶと、母親の目に涙が溜まった。

「おかあさん」

 雪華も母を呼んだ。

 二人の視線が交差した瞬間、時間が止まったかのように感じられた。


 ザシュ!

聞きなれない音と共に時間が再び動き出した。

音がしたほうを見ると巨大山椒魚の頭が吹き飛んでいた。

鮮血の尾を引きながら巨大山椒魚の頭は桜の根本にごろりと転がる。雪華も、雪華の手を握っていた母親も勢いで一緒に道路に投げ出される。母親は道路で打った体の痛みを意識的に無視してすぐに立ち上がり、巨大山椒魚の口から雪華を引っ張り出した。雪華の体はべとべとになっていたが、怪我はないようだ。

「おかあさん!」

 雪華は母親にしっかりと抱きついた。

 母親は塀の上から川を覗き込んだ。そこには首がすっぱりと切られ、横たわった巨大山椒魚の体があり、そしてその傍らには一人の青年が立っていた。

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