明日彼氏にフられます。

咲く桜

第1話 彼氏に振られました


「もう、終わりにしよう俺たち。……別れてくれ」


「え?」


 30歳目前にして私、彼氏にフられた⁉


  急転直下、晴天の霹靂、寝耳に水、足元から鳥が立つ、なんて言って表していいか分からない。ただただ冗談であってくれと、そう願うばかりだった。


「ちょ、ちょっと、今日は4月2日よ? エイプリルフールは昨日だよ! 卓也ったら――」


「――ごめん……冗談でこんなことは、さすがに言わない」


「……あ……」


「……俺、このあと用事あるから。じゃあ、さよなら」


 そう言い残して私の彼氏、前原卓也は去っていった。別れを告げられたのは渋谷のハチ公前。集合場所になんでここを選んだのか分からなかったけど、今となっては分かる。これだけ周りに人がいれば騒ぐことなんて出来ないからだ。


 こんなところで30手前の女が泣き喚いていたら、それはもはや珍事だものね。故に下手に食い下がられることもないと考えたのだろう。元カレながら、頭の良さに感心してしまったよ……


 山田早紀29歳、30歳を目前にして彼氏に振られた瞬間だった。



※  ※  ※



「大将! どう思う?! 私は彼にどれだけ尽くしてきたか……!」


「はっはっは、早紀ちゃん今日は一段と荒れてるねぇ。でも、その彼氏さんもなにか思うことがあったんだろうね。浮気の気配なんかはなかったんだろう?」


 卓也に振られた後、私は逃げ込むように行きつけの居酒屋『後ろ向き』へと入った。ここは料理も美味いし酒も美味い。大将も気さくで面白いのに、立地が悪すぎるせいで――おかげ・・・で隠れ家的な店となっている。店の名前が面白いのが特徴だ。


「それは、無かったけど……」


 確かに彼に浮気の気配とかはなかった。もしかしたらバレないようにしていた可能性も0ではないけれど、彼は嘘をつくのが上手なほうじゃない。ということは、やっぱり私が悪かったということなのかな……


「お嬢ちゃん、彼氏に振られたのかい?」


「お、お嬢ちゃん? あはは、実は、そうなんですよ……って、お婆さんにこんなこと言っても仕方ないですよね」


 お嬢ちゃんと言われたことに嬉しくなってついつい答えてしまったけど、このお婆さんいつからこの店にいたんだろう。最初からいたのかな? だとしたら私の愚痴が全部聞かれてたって事だよね。どれだけ周りが見えていなかったんだろう。


「なに、これでも無駄に歳はとっちゃいないよ。お嬢ちゃんくらいの歳の人生相談なんてお手の物さ。それに、人生一期一会。出会いには全部意味がある、ここで会ったのはきっと何かの縁さね」


 でも確かに、ここで会ったのは何かの縁なのかな。お婆さんなら人生経験も豊富だろうし、お酒の力を借りているからかなんとなく話しやすい。せっかくだから、話を聞いてもらっちゃおう。


「婆さん、そうやって調子の良いこと言ってまた奢ってもらおうとしてるんだろ? 早紀ちゃんはうちの常連さんなんだから、ほどほどにしてくれよ?」


「わかってるよっ! さ、これで邪魔は入らないよ。何があったか言ってごらん」


「は、はい。実は――」


「おっとその前に。お互いグラスが空だねぇ……?」


「ふふふ、そうですね。大将、生中2つで!」


 大将が肩を竦めながらも笑顔で生2つを注いでくれた。


「お嬢ちゃん分かってるじゃないのさ! ほら、話してごらん」


 こうして私は、不思議な雰囲気を持つお婆さんに、彼氏と出会ってからの話をしたのだ。自分で振り返って話す内に、自分がどれだけ彼が好きなのか再確認してしまい、途中からは涙が溢れてしまった。


 それでもお婆さんは「うん、うん」と焦らせるようなことはせずに話を聞いてくれた。そのおかげもあって、1時間くらいで言いたいことを言い終え、一息つくことが出来た。


「アタシもね、お前さんと同じくらいの歳の頃に男に捨てられた経験があるんだ。だから、お前さんの気持ちは痛いほど分かるんだよ。……女にとって、30歳ってのはひとつの区切りでもあるからね」


「お婆さんもそんな経験が……。そうなんですよ! 彼とは3年近く一緒にいたし、結婚しようねとも話していました。夜の相性も悪くなかったと思うんですが……」


 彼は家事があまり得意ではなかったから、付き合ってから2年目に同棲を始めたときは率先して家事を頑張った。家を買ったりペットも飼いたいという話もしていたから節約も頑張った。なのに……


「何が原因だったかなんてのはアタシにゃ分からない。けどね、いつの日も男女が別れる原因の大部分は『価値観の違い』なのさ。浮気にしろ愛情が冷めるにしろ、いつもその根本は価値観の違いが悪さをする」


 価値観の違い……。言われてみると、いくつか思い当たる節はある。彼はお昼は同僚と一緒に外食したいと言っていたけど、節約のために私がお弁当を作ったんだっけ。あとは、彼の手取りはあまり多い方ではなかった。それなのに、無駄な物を買いたがるからその度に止めていたこともあった。他にも考えればきりが無い……。


 もちろん性別も違えば育った環境も違うのだから、男性の考えることに分からない部分があるのは仕方ないと思える。けど、『結婚しようね』とか『家が欲しい』とか『ペットは犬がいいな』など、将来に夢を持っている彼氏と同じ夢を見たいがために、私も節約を頑張っていたのに……。


「お婆さんが言っていること、なんとなくわかる気がします。それでも、私は彼との将来を思ってのことだったんですよ?!」


「お前さんの言いたいことは分かるよ。けどね、人の気持ちってのはそう簡単に伝わるもんじゃない。特に男ってのは子供っぽい生き物だ。将来のことよりも今を見ているやつが大多数を占める。だから、想いを伝えるにはきちんと『言葉』にしないといけない。よく女にある『察して』ってのは男に通じないのさ。どうだい? あんたはちゃんと想いを言葉にして伝えたかい?」


 想いを、言葉に……。


 振り返ってみると、私は想いを言わずにいたことが多い気がする。というか、伝えることの方が少なかった。あんまり言い過ぎてウザいと思われたくなかったし、彼から結婚の話があったから、そんなのは当たり前だと思ってさえいた。


「いえ、言っていませんでした……。でも、それって私が悪いんでしょうか?」


「ここでさっきの『価値観の違い』に繋がるのさ。誰が悪いとかじゃなく、価値観が合わなかったって事だよ」


 価値観の違いと言ってしまえば、確かにそれまでだろう。……けど、そんな簡単に諦められることじゃない。それくらいに彼のことが好きで、運命の人だと思ってすらいたのだ。


「お婆さんは、運命の人に出会ったことはありますか?」


「お嬢ちゃん、面白いことを聞くね。まだ運命を語れるような経験もしていないだろうに。だが、教えてあげるよ。アタシにも運命の人はいたよ」


「いた。ってことは……」


 お婆さんの手元に視線をやると、高そうな指輪が目に入った。ダイヤが何個も付いていて、一目見て高級品だと分かる。そしてその指輪がある位置は左手の薬指。つまりはそういうことだ。


「いい人だったよ。我が儘なアタシに愛想を尽かせることもなく、ずっと一緒にいてくれてねぇ……。その人の存在に気づくのには時間がかかったけど、アタシは無事に出会えたよ。こんなアタシでも出会えたんだ。お嬢ちゃんでも出会えるはずさね。ほら、元気をだしな!」


「は、はい! ちょっとだけ、前を向けた気がします。ここは私が奢るので、好きな物を飲んで下さい!」


「へへへっ、すまないね! 生中おかわりだよ!」


「大将、私も!」


「あいよっ!」


 こうしてこのあとも私はお婆さんと飲み明かした。お婆さんと他人とは思えない程話が合ったせいで、気がつけば終電を逃してしまった。お酒も今までにないほど進み、生中10杯以上飲んでしまった。もちろん、お会計も今までにないほど高かったのは言うまでもない。


 歳の差女子会も案外悪くない。


 店を出てタクシーで家に帰ろうとしたとき、お婆さんに小箱を手渡された。


「お嬢ちゃん、これはお礼だよ。今日は御馳走になったからね。家に帰ったら中を開けてみるといい。きっと、今のお嬢ちゃんに一番必要な物が入っているはずさ」


 手渡された小箱に視線を落として直ぐに前を向いたのだが、お婆さんはタクシーに乗って帰ってしまった。しかし、この小箱の中に今の私が一番必要な物が入っているって言っていたけど、何が入ってるんだろう?


 開けたい衝動に駆られながらも、なんとか我慢してタクシーに乗った。酔っていたせいもあってタクシーでは寝てしまったが、そのおかげですぐに家についてような気がした。ちょっとお得な気分だ。


 家に帰って化粧を落とし、コンタクトを取ったところで力尽きた。本当はお風呂にも入りたいけど、明日は日曜ということもあって諦めてしまった。むしろ、化粧をちゃんと落とした自分を褒めてやりたいくらいだ。


「そういえば、小箱の中身ってなんだろう?」


 酔ってふらふらになりながらも小箱を開けた。そこに入っていたのは、12時ちょうどで針が止まった腕時計が1つ。小さな手紙も入っていたけど、酔いすぎいてて読むことすらままならなかった。


「そういえば、今の腕時計は彼から貰った物だったっけ……」


 彼から貰った腕時計は捨てて、新しい時間を刻めってことなんだろうなと思いながら、試しに腕に付けてみた。シンプルな黒革ベルトの腕時計。これがまた以外としっくり似合っている。


「あぁ、だめだ……眠い……おやすみ……」


 眠さに勝てずにそのままベッドへと倒れ込み、あっという間に深い眠りへと落ちていった。




 

 深夜、止まっていたはずの腕時計は徐々に針がぐるぐると回り始め、長針が12時から11時を指したところで止まったのだが、このときの私は気づくことができなかった。

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