書きたいことは何ですか?

らぴ

心の正体とは?

書きたいことはありますか、なんて言われたらとっさに口を開こうとしても口から何も出てこない。本当はあれがしたいこれがしたいって思うことがあるけれどうまく言葉にならないし、言葉にならない以前に脳みそが疲れていて うまく働いてくれない。 某大先生の作品を読んでいると素晴らしく文章は上手いし、すすすっと頭に入ってくる。しかし、よくよく読んでみれば 正直言って大しことは言っていない。感動させる言葉がびっしりと、ひしめき合っているわけではない。客観的な眼差しを持てば、なんと言うかたんなる冗長な文であるといった印象だ。


物語の展開に関してはスカッとする展開が用意されていることもなくはないが、なんといっても物語で起こる出来事というのは比較的少ない。まあもちろん音楽にサビが少ししかないように、 常にサビを聞かされ続けていったらその音楽には飽きてしまうと言ったものだ。


そうそう、飽きたという状況は何か考えたことがあるだろうか。飽きるという現象を説明しようとしてみると、案外難しい。正体が未だ分かっていないと言っても過言ではないのではないだろうか。一説によると 飽きるというのは脳が疲労していてこれ以上考えたくないという拒否反応を示している状態のことを呼ぶのではないかと考察されているらしい。


なるほど、そういうことか私もかなり疲れてしまっているようだ。コーヒーでも飲んで 休むべきなのだろうか。いや、コーヒーだと目が冴えてしまうから本当のところは ルイボスティーか何かを飲むべきなのかもしれない。とにもかくにも、体を気遣うことは悪いことではないだろう 疲れた時は疲労を癒すためにお風呂にゆっくり浸かって 頭を冷やして寝床に横たわり、可愛い推し でも眺めていたいものだ そして朝は二度寝を所望したいのである。


どうなのだろうか、ひょっとすると朝はシャッキリと目が覚めたほうが幸福感が高いのだろうか。 その後にやることが決まっているれば、もしかしたらそれは良いことなのかもしれない。 しかし残念ながら、私は時間を使うのがあまり得意じゃないらしい。自分が好きなことに没頭できるというのは素晴らしいことだとは分かっていても、果たして自分が何を好きなのか、何をしているのかということに関しては分からないのであるからして仕方がない。いつだって、やった後に気づくからだ。自分はこれが好きだこれが面白いと思うものが一つでもあるとすれば、そこに無心で猛進するのが素晴らしい人生の選択だといえよう。


確かに、私にはしたいことがあるわけではない、 強いて言うなら通勤電車に乗りたくない。膝が痛い本当にやめてくれと言いたい。しかして、どうなのだろう。非常に物理的には簡単なことである。


通勤電車に乗りたくないなら、会社に行かなければいいのだ。 会社に行かなければ通勤電車に乗る必要はない。そうであれば、どうすれば良いか。 まどろっこしいのはどうでもいい。転職でもすればいいのである。しかし、人というのは難儀なもので、今まで積み上げたものには愛着が湧いてしまうらしい。なかなか、そうもいくまい。


好きなことだけで生きていく、というのは非常に大事なことだ。だが、それと同じく人間というのは経験すればそれが好きになってしまうというどうしようもない性質も持ち合わせていることを忘れてはいけない。だからこそ、本当に好きなことだけをしたいのであれば、それは自分の手だけで探し当て己の道を己て切り開く ことができた人にのみ手に入れられる道であることにほかならないのだろう。


こうやって話していれば、文字数など簡単に稼げるものなのに、小説を書こうと筆を執ると途端に筆が止まってしまう。1000文字書くのに一体何時間かかっているというのだろうか。一時間や二時間どころじゃない。下手するところ9時間くらいかかっている。 それこそ時間の無駄である。


さて、ここまで駄文をかきつけてきたわけだが、やはり私としてはやりたいことがどうしてもある。 シンプルだ。とてもシンプルである。私がしたいことは 、読むだけで翌日からパワーがみなぎってくるような小説が書きたいだけだ。小説の書き方を学ぶのは、非常に楽しいんだっていう自分の思っていることと共感してくれる人、その人たちと直接ではなくていい。書物という形で議論して、もっと面白い世界を、もっと面白い世界があることをみんなに知ってもらいたい。それだけなんだ。いや僕が知りたいのかもしれないが、どちらにせよ、とてもシンプルだとは思わないかい?え?やりたいことがないって、さっき言ってたって?気のせいじゃないかな?


ただ冗長な文章を読むのは辛い。正直、言ってつまらない本が世の中には多すぎる。この文章を含めて、そうであろう。いやはや、申し訳がたつまいて。しかし、どの本にも伝えたいことがある。その伝えたいことをうまく表現できている本を選び、そこから抽出し大きい重要な幹のような知識を身につけた後で、まだ他の視点がなかったのかと、可能性として他にもあるんじゃないかと、マイナーどころでいろんな考え方を取り入れてゆくのだ。伝え方が稚拙で、とても上手いとは言えない私のような文章に触れる意義も、多少は生まれてくれることを祈るばかり。


つまるところ、うまい小説からどんどん読んでいって、 つまらない小説をつまらないと思わずに読める能力を身につけていくことが重要なのかもしれないというわけで。もしくは、そこまで来れば自分でその可能性を超えてくる、そんな小説を作り上げる作家という立場になるのもいいかもしれない。可能性の壁を超えてくれ。私はそれを 望んでいる。


そこまで来て、私が君たちに伝えたいこと。それはどうやったらそんな可能性を超えてくるような小説を書けるようになるかというお話だ。ようやく本題に入るというわけだ。まず、基本原理だが 人間が幸せに生きるためにはどうすればのか、について考えたことはあるだろうか?


基本的にどんな問題を解くにあたっても最終的に人類が求める回答は、我々が幸福になるためにはどうすればよいのかという問題の回答に落ち着くのであろう。だからこそ、この疑問は無視できないものであることに違いない。


結論から語ることにしよう。人間は視野を広げることで選択肢を作ることができるらしい。選択肢が多ければ多いほど理想というものは、素晴らしいものになる。百本の映画が売られてるショップと 百万本の映画が売られているショップであれば100万本の映画が売られているショップからえり好みの作品を探した方が、自分 たちの想像を超えてくれる奇跡の作品と出会える可能性は高いと思うだろう。


それと一緒で 人間は選択肢が多ければ多いほど夢を見出すことができ、その夢を目標とすることによって人間は走り出す。その走っている過程では、目標にめがけてあらゆることを考えて、必死になっているからして、他に考えることなんて必要なく人生を謳歌することができると言えるだろう。まさに、全力疾走のようだ。


そこで一つ疑問が生じる。どうすれば視野を広げることができるのか、だ。他にも、視野を広げることが出来れば、必ず理想は夢に変わるのかというところである。


まずどうすれば視野を広げることができるのか についてだが、この答えは簡単だ。行動すればいい。 これは多くの自己啓発本を読めば嫌でもよくわかる。とにかく行動しなければ、視野は一向に広がらない。しかし、多くの人間は行動ができない。なぜだろうか? 人によっては自己肯定感が低いから失敗が怖くて一歩前に進めないとも言われている らしいが。それだけではないだろう。人間は怠けるのがこの上なく大好きな生き物なのだ。自然に生きよう。


自己肯定感を阻害するものは、他者との比較。つまるところ、コンプレックスや劣等感といったものだといわれているらしいが、それは一因にすぎない。ほとんどの場合は、目的と手段のすり替えによるものだ。


例えば、どんなに自己肯定感が高かったとしても 手段を間違えていれば視野狭窄は起こり得る。


小説を書いていて、ある日小説を書く気が起こらなくなったとなった時。どういうメカニズムが働いているのだろうか。小説を書いていると、何のために書くのだとか、こういうことを達成したいから書くとか、本当に人間というものは自分の行動に対して理由を求めたがるものだ。


いきるのに理由が必要ないように、本当に理由は必要だろうか。 理由があれば、時に人は下支えされやる気を思いだし、なかば洗脳のような形で自意識を再沸騰させることができるが、それはあくまで手段の話である。一手段にすぎないのだ。 手段は手段であり、目的ではないし使えないときもある。


多くの場合、小説を書いていてもっと読まれたいもっと読んでもらうためにはどうすればいいだろうか、そうやって本当は書きたいから書いていた。ただそれだけで、理由なんて特になかったにもかかわらず、それにあれこれ理由をつけて読まれたいからだとか、そうするためにはどうすればいいだとか色々な事を考えていくうちに、本当に好きだったこと、本当に好きだった物語を分析していけばいくほどゲシュタルト崩壊を引き起こしかけなくなっていく。かなりの確率でやる気をもぎ取られることだろう。


しかも、副業だったりすると片手間であるがゆえに脳みそが疲れて飽き症になってしまっているときた。 これでは二正面作戦みたいなものでつらい。


ではどうすればいいか? 何も考えず書きたいことだけ書けばいいのである。いやしかしそうは言っても小説を書くからには、それ相応の理由があるはずとも考えたくなるだろう。例えば、副業としてお金を稼いで通勤電車から解放されたいなんてこと考えてませんか?いつのまにか。


まあ、もしあなたが考えてなかったとしたらそれはそれで素晴らしいことであると私は言ってのけましょう。やはり、人間やりたくないことはやりたくないんです。やりたくないことをやらないためには何でもやりたいんです。


そのために小説を書くというのも 致し方ないことではないと思いませんか。だってやりやすいのですもの。それに嫌いな仕事なんて、もうやりたくないんですもの。それの何が悪い?それこそやりたくないからやっていない。やりたいからやっている。それだけの話です。


でも、そのやりたいと思っていたことも、今となってはやりたくないと思っているのであれば、それはもう何がやりたいのかわからないでござる症候群ですわね。


やりたいことと、稼げることが一致してればそれは素晴らしいことだと言われるかもしれないですが、ちょっと待ってくださいよ。


そんなこと本当にありますか?だからこそ、好きなことだけで生きていくってのは辛いんですよ。好きなことだけで生きていくっていうことは、好きなこと以外をやらないという勇気を出す必要があるんです。


それは難しいことですよ。本当になかなかできないとおもいます。普通そんなことできませんよ。


やりたいことで稼ぎたい。しかし、やりたいことでは稼げない。こんな現実だってよくある。ただ、本当に経験してみればこそ分かるのだけれど、続けていれば大抵のことはうまくいくし人が楽しんでる様子を見るのが人間は好きだから、やりたいことを本当にやり続けていれば、そこに人が集まってビジネスも成り立ちます。


もちろん、飽きることだってあるだろうけれど。 飽きたら次のものを探せばいいだけの話です。 一番恐れるべきは、無気力なのかもしれません。


存外、作品と言うものは自分の意図と反して利用される。もしくは鑑賞される作品というのは少なくないでしょう。所詮、自分があれこれと考えて作品を作り上げたところで感じ取るが全く違う捉え方をする事だって全然あるということです。都合のいいように心は解釈する。 だからこそ、芸術は自由であり素晴らしい。そして万人に平等に与えられた権利でもある。娯楽でもある。


自分の意図と全く無関係に人の意図は働くのであれば、どんな作品を作ろうと、それはもう考える必要すらないのでしょう。


本当に好きなことだけやってればいい。我々は理論的に、そういう結論に至ることができる。全くもって素晴らしい理論による理論自身への純粋な批判というわけだ。しかし、本当にそうだろうか。 もうひとつの側面を忘れてはいけない。やはり人気作品というものは実在しているし、対象に見られる作品は実在しているのです。



では、それはどういう作品か?自分が作りたい作品はどういう作品か?そういうことを考えていると、やはり大勢に見られ大勢の心を動かす感動させる共通点を持つようなそんな作品を作りたいと思うに違いないわけですが、これも罠でしょう。それすら理屈なのだから、そんなことを考えて創作しているときというのは、もはや娯楽ではないのだから。


実のところ、作品をうまくしようと思えば意図して人の心を動かそうとしていることに他ならないのにもかかわらず、人の解釈など何だっていいから好きなもを書くのだと吐き捨てるような二律背反とした、ある意味矛盾した感覚を持った人間でなければ、創作というものを存分に楽しめないのかもしれないのです。


ゆえに、やはり無知の知とは言うけれど、まだ我々は何も知らない、そして知ってしまうことは果てしなく不幸をもたらすことになるということなのでしょう。無知というものは、いかに幸せな状態だったのか。


しかし悲しいかな哲学という言葉の語源が philosophia つまり 知を愛するという言葉に他ならない通り、人間というものは知性を愛してやまない。探究心を抑えることができない。であればどうするか?


争うことをやめ、ただ社会ではなく自分が無意識に作る波に流されるように、自己矛盾人間として生きるのが、最も生きやすい幸せな人生なのかもしれない。だとすると、この矛盾のあり方を考えた不能命題の結果こそが感情というやつの正体なのではなかろうか?

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書きたいことは何ですか? らぴ @rapitaso

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