結び目に愛


恋はいつから愛に変わるだろうか。


目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎを見ながらそんな事ばかりを考えていた。誰かと話す気にもなれなくて、ただ髪の毛を指でいじる。


大人になっていく君に愛想をつかされたくなくて、必死に大人ぶって選んだ服装や髪型は好きでも何でもなかった。前髪はある方が好きだし、ロングヘアは手入れが面倒だ。オフショルダーのトップスはもっと可愛らしいものが良かったし、短いパンツより柔らかなスカートの方が好きだ。丈は長い方がいい。ヒールよりスニーカーの方が好き。けれどお洒落する時は少しだけ踵を高くして。そんな事を考えながら今の自分の服装が自分のためでない事にようやく気付く。


運命だとか言いながら、紅い糸が見えるくせに結局の所この糸が解けて終わってしまうのが怖かった。何年経っても私は私のままでこの運命に縛られている。あの日、自ら選んで糸を指に結んだのに、時間というものは残酷だ。幸せになった後の未来が、こんなものだとは思いもしなかったのだ。


一時的な幸せが継続的な幸せに変わるまで、どのくらいの時間がかかるだろうか。いつかの未来から見れば、この出来事も継続的な幸せの中のたった一瞬だと言えるのだろうか。もし言えるのなら教えて欲しい。私に予知能力はない。あるのは人の運命を知れる、酷く使えない能力だ。


もしかしたらさよならをする未来が見えたのだろうか。それか、こうやって喧嘩をする未来が見えていたのか。見えていたのなら避けて欲しいし、さよならをする未来であるのなら先に教えて欲しかった。何年経っても想いは褪せる事なくここにある。けれど、慣れてしまったのも事実だった。


隣にいられる事がどれだけ幸せなのか、あの頃はそれを噛み締めていたというのに今の私はその幸せに慣れてしまった。帰ったら当たり前に君がいる生活に慣れてしまった。当たり前に時間を共有するようになった。その当たり前は確かに私を狂わせた。


高校時代、君が大人になっていくのを指をくわえて見つめていた。早く、一秒でも早く、その隣にいて誇れるような自分でありたいと思った。恋は間違いなく私を狂わせた。


帰りに髪の毛でも切ろうか。鋏を持って自分であの頃と同じくらいにしよう。頑張る必要はどこにも無くなった。君の言葉で、私の努力は水の泡だ。


久し振りに実家でも帰ろうか。大嫌いと言った手前、君の元に帰るのは嫌だった。顔を合わせてどんな話をすればいいのか分からない。


そんな事を考えていれば、持っていたグラスに誰かの糸が絡まった。糸の先、隣を見れば見知らぬ男性がいる。どうやら酒に酔ったのだろうか。こちらを見る視線は、君の物とは違う情欲を感じた。さすがにこの状況で、吐き出される言葉を予想出来ないほど純情でもなく、肩に回された手がゆっくりと腕へ滑る。気持ち悪くて硬直しかけたその時、耳元に男性の唇が近づいた。そして、言葉を紡ごうとした。


その時、近づいてきた顔の間に誰かの手が割って入って来た。


「何してんの」


その人は随分と不服そうで、額にはまだ春だというのに汗を滲ませていた。いつも上げている前髪は乱れてしまっている。けれど、世界で一番大好きな人である事には変わらなかった。


「お前なんだよ」


男性は君に食いかかろうとする。しかし、君はこれまでに見た事もないような目で相手を睨み私の腕を引っ張って立たせた。鞄を持ち、舌打ちをする。それが私に対してなのか、男性に対してなのかは分からなかった。


「この馬鹿の彼氏だよ」


それだけ言い切って私の腕を引き居酒屋を後にする君に、突然の展開で何も追い付かなかった私は転ばないようにだけを気を付けて足を動かす。


春の夜はまだ寒くて、精一杯背伸びをして着た洋服では寒かった。繁華街は光り輝いていて、紅い糸は乱れに乱れている。足元に引っかかって転びそうになりながらも必死に付いて行く。君は口を開かなかった。


掴まれた腕が痛い。熱を放つ。露出した肌が寒い。自分が情けなくて恥ずかしくて泣きそうになった。繁華街を抜けた時、耐えられなくなった寒気に思わずくしゃみをする。そこでようやく、君は足を止めた。大きな溜息を吐いて、着ていたジャケットを脱ぐ。そして私の肩にかけた。けれど怖くてその顔を見れずにいた。


「何で怒ってるか分かる?」


「…はい、存じております」


頭上から降って来る怒りの声に、思わず敬語が飛び出した。君に敬語を使うのはいつ振りだろう。あの高校にいた頃しか使っていない。まだ君が私の先輩だった頃だけだ。その時でも砕けた敬語を話していたけれど。


「馬鹿じゃないの」


「…返す言葉もありません」


自業自得だ。あのまま君が来ていなかったらどうしていただろう。きっと私は流されてそのまま連れて帰られていたかもしれない。好きでもない人と、馬鹿みたいな行為を及ぼうとして嫌悪感で泣いていたかもしれない。今だって同じような思いだけれど、そうならずに済んだのは間違いなく君のおかげだ。


「…あれ?」


ふと、家を出た時の事を思い出す。そもそも喧嘩の発端は何だった。君が見た予知のせいじゃないのか。私が浮気すると言って、信じてもらえないのが悲しくて、おまけに背伸びした格好に文句を言われたからじゃないか。


それって今の事じゃないのか。


「ねぇ、もしかして予知って」


「…そうだよ今の事だよ」


未だ怒りを隠さず吐き捨てるように言った君の顔を見た。汗はまだ額に滲んでいる。


「…変わったじゃん」


「俺が変えたの」


「予知は絶対とか言ってたのに」


「絶対にしたくなかったんだよ」


大体、と言葉を続けた君に耳を塞ぎたくなる衝動を堪えた。長年一緒にいたから分かる。これは間違いなく説教だ。


「そんな格好してるからだよ」


「これは…」


「これは何?大体何で大学入って突然変えたわけ?俺は予知は出来るけど、人の気持ちを読めるわけじゃない」


ああ、あの頃の自分に伝えたい。あれほど言葉にしなければ何一つ伝わらないと知って、口を開き想いの全てを吐き出したのに、今の私は昔の自分に逆戻りだ。何一つ伝えずに分かってくれるものだと思って、勝手に決めつけた。当たり前に注がれた愛情が、当たり前に続く日々が、私の感覚を麻痺させた。


息を吸った。


「不安だったの」


「は?」


「解人が勝手に大人になっていっちゃうから、ずっとずっと不安だった」


本当はずっと怖かったのだ。君の隣に見合う女性になんて言いながら、本当は大人になって離れていく君に置いて行かれるのが怖かった。少しでも私が大人になれば、隣を歩けるだろうかと思った。本当はずっと、飽きられるのも呆れられるのも怖かった。全部が怖かったのだ。


「運命だよ。そう、運命を選んだの私は」


予知は外れた?笑って飛び込んだ腕の中、自らの意思で選び取った運命は必ずしも私を幸せにするものではないと知った。何度も喧嘩をして、仲直りをするまでの間、これが最後になるんじゃないかと思った。次なんてどこにもなくて、他の誰かと結ばれる結末が訪れるのではないかと不安になった。その度にもう一度と結び直して歩き出した。けれど、そんなものいつ終わるか分からないと悟った。


「でも運命が必ずしも幸せになるわけじゃないって知ったの。怖かった。いつか目の前から飽きられて、呆れられて消えちゃうんじゃないかって。だから少しでも隣に並んでおかしくないような存在でいようと思った」


本当は、丈の短い洋服なんて好きじゃない。オフショルダーのトップスは黒じゃなくて白がいい。ひざ丈くらいの紅いスカートが好きだった。髪の毛は肩くらいまでの方が楽だし、色は落ち着いている方が好きだ。決して私の好みではなかった。けれど、君の好みではないのも事実だった。


「…馬鹿じゃないの」


再び、頭上から重たいため息が降って来る。肩を震わせて、次に落ちて来る言葉を待った。ああ、これで本当に最後になるかもしれない。そしたらどうしよう。この小指に垂れ下がった糸を解かざるを得ないのか。


しかし、落ちてきた言葉は私の想像とは違っていた。


「俺はつむぎが好きだよ」


「…は?」


「今も昔も変わらず、どんな格好してようが好きだよ」


視線を上げた先、君はまっすぐこちらを見ていた。


「例え運命でなかろうがつむぎが好きだし、もし糸が繋がっていないのなら何十回だって結び直して、つむぎに繋がる誰かの糸を全部切って、最後に俺が残るまでやり続けるくらいには好きだよ」


「うわ、重…」


「おい、最後まで聞け」


思わず零れ落ちた本音に突っ込みを入れられた。


「だからつむぎが好きでその格好してるならもう何も言わない。別に似合ってないわけじゃないし」


「似合ってないって言ったじゃん」


「それは建前。露出が高いのも好き、だって俺男だもん」


「…そういうのはいいです」


「でもさ」


かけられたジャケットのボタンが閉められた。私には大きすぎる服だった。


「俺の隣にいるために無理にしてるならやらなくていいよ。だって俺はつむぎが好きだから。背伸びしなくても、大人ぶらなくても、そのままでいい」


顔にかかった髪を優しく払う君の手が好きだった。


「飽きる事なんて一度もなかったよ。この先もずっとない。呆れる事はたまにあるけど、でもつむぎが嫌いだから呆れるって事はない。ただ馬鹿だなこいつとは思ってる。今も」


「後半悪口入ってるんだけど」


「でもそれ以上に、俺のために変わろうとしたのが嬉しかったからチャラ」


目頭が熱くなった。君は眉を下げて笑っている。幾度となく見た、愛おしいものを見る表情だ。向けられる対象は世界でたった一人。きっとこの先も、継続的な幸せに気付く瞬間はこの笑顔を見る時だ。


「…元に戻っても笑わない?」


「笑わないよ」


「子供っぽいとか言わない?」


「言わないよ」


「…変わらず好きでいてくれる?」


頬から、一筋の熱が零れた。それに気付いた君は親指で熱を拭う。ああ、どうしようもなく好きだ。何年経っても、変わらず君が好きだ。いつか君に伝えたい事があったのだ。私の世界は君が思っている以上に君が教えてくれた事で出来ていると。今日だってそうだ。私の日々は君への愛で動き続けている。


「糸が切れてもずっと」


言葉が耳に届いた時、私はためらいもなく腕の中に潜り込んだ。小さい声で謝罪の言葉を口にした。君は背中を優しくさすって帰ろうと言った。小さな部屋の一室は、出てきた時よりもずっと温かな愛情で溢れていた。



「とりあえず髪を切ります」


「いいじゃん、俺が切ろうか?」


「は?絶対嫌なんだけど」


「任せろ、上手だよ俺」


「貴方が言う言葉ほど信用性のない物はないです」


「言ったな」


二人でベッドに倒れこんで、お互いの頬を引っ張り合った。ひとしきり笑った後、私はふと思い出した事を口に出す。それを聞いた君は嬉しそうに笑って目を閉じた。


「予知は外れたね」



「俺が選んで変えたんだよ」




運命はまだ、私たちの小指に存在し続ける。けれど増える結び目は、時間と共に増えていく愛を証明していた。

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