星合の宵

千羽はる

星合の宵

七夕の空を見上げると、香奈子は無性に泣きたいような衝動に駆られる。


 日本の七夕なんて、大概が梅雨のせいで曇り空。


 湿気が多い今日に至っては、普通に雨が降っていた。大学が終われば止んでいたから、最近多い通り雨だったのだろう。


 七夕に雨が降ると、織姫と彦星が会えないというのは有名な話だ。


 しかし、「宇宙がある」と知っている現代人は、「織姫と彦星はデートを見られるのを恥ずかしがっている」なんて、昔の人からしてみれば「屁理屈だろう」ということを言ってのける。


 それに、たとえ晴れていたとしても、東京で天の川は見ることができない。


 香奈子は、生まれた時から東京住まいなので、天の川を見たことがない。


 通っている大学にいる長野や岩手出身の子からは、「見たことないの!?」と笑われたけれど、東京育ちはせいぜいプラネタリウムで見るのが関の山だ。


 けれど、七夕には必ず、空を見上げてしまう。


 曇り空でも、雨模様でも、晴れていてもほとんど星の見えない真っ黒な夜空でも。


 そうして、たまらなく泣きたくなる。


 空を見上げたまま、つーんと鼻が痛くなって、何かあったわけでもないのに、勝手に涙が溢れてくる。


 ぽろりぽろり。止めどなく溢れるしょっぱい水。


「……なんでなんだろうなぁ」


 物心ついた時には、こうやって空を見上げては涙を流していた。


 ただ、何も言うことなく、静かに。親は最初の頃こそぎょっとしていたけれど、いつしか「香奈子の変な癖」と言って笑うようになった。


 自分もまた、毎年、必ず七夕になるとふと空を見上げてしまう癖を、直せない。


 まぁ、誰にも迷惑をかけていないし、別にいいかと最近は放り投げている。


 けれど、今回は大学の帰り道でぼうっと空を見上げてしまったのがまずかった。


「どうかしましたか? どこか痛むとか?」


「ふえっ!!」


背後から、心配そうに声をかけられてしまった。


どうやら、道の中央でボケっと立っていたから具合でも悪いのかと思われたらしい。


 香奈子は「問題ないです!」と言おうとして、慌てて背中から声をかけてきた人物を振り返り、微かに息を呑んだ。


 群青色の人。端正な美貌を彩る深い青色の瞳に吸い込まれそうな、錯覚。「可愛い」というには美しすぎて、けれども「精悍」というには儚すぎる。


 どちらにしろ、香奈子の普通過ぎる日常にはいない、とびぬけて非日常めいた容姿の持ち主であるが、身に纏っている服はシャツに黒いズボンと、どこかのカフェの店員のようなものだった。


 強いて印象に残るものといえば、胸元についた青い石のループタイだろうか。


「あ、大丈夫です! すみません。通行の邪魔をしちゃって……」


「いいえ。それよりも、ご気分がすぐれないのですか?」


 香奈子の涙で赤くなった目を見て、彼(?)はズボンのポケットからハンカチを取り出し、ティッシュを取り出そうと宙に浮いていた香奈子に手渡す。


「どうぞ、お使いください」


 薄青色の、美しいハンカチ。布地の端には、小さな青い花の刺繍がある。


 ああ、これは露草だ。


 随分かわいらしいデザインをしたハンカチに、香奈子がぼうっと見入っていると、彼はクスリと小さな微笑を落として言った。


「店の配りものなので、お気遣いなくお使いください」


「お店?」


「ええ。いつか、お嬢さんもいらっしゃることがあるかもしれませんね」


ではまた。


「えっ、あっ、ちょっと待って……」


まだ、お礼も言ってないのに――。


 しかし、顔を上げても、彼の姿はもうどこにもない。あるのはいつも通り、空を見上げることもなく淡々と帰路へ着く、同じ大学の学生や社会人の姿だけ。


「あ、あれ?」


 香奈子は、目をぱちくりさせながら周囲を見渡す。けれど、あの妙に存在感のある美しい人の姿は、ない。


「え、まさか幽霊、とか?」


 そんな考えがよぎるものの、「ハンカチを手渡して去っていく幽霊」が怖いはずもない。友人たちからよく「鈍すぎる」と言われる香奈子は、こういう事態にも鈍いらしかった。


 しかし、問題はまだ続く。


 香奈子は、手渡されたハンカチに布らしからぬ感触があることに今更ながら気づく。


「ん? 何だろう。何か包まれてる」


 よくよく見れば、ハンカチは何かを包むように折りたたまれていた。


「えっ、これ。ネックレス……かな……」


 中に入っていたのは、小指の爪ほどの大きさの石が一つだけ付いたシンプルなネックレス。青い石の中に金色の小さな粒が無数に入った、まるで星空を中に封じ込めたような繊細なもの。


 シンプルだが決して安物には見えないそれに、香奈子はぎょっとした。


「か、か、か、返さなきゃ……!?」


 きっと、かの青年(?)も間違って渡してしまったに違いない。香奈子はとりあえず青年が向かった(気がする)方に走ろうとしたが。


―――。


「ん……?」


呼ばれた気がして、再び周囲を見回した。


 先ほどと同じ、数人の通行人が行く駅近くの何でもない道。商店と家が混在しているような、いつも通りの細い路地だ。


 けれど、香奈子の目は、不思議と一つの路地に魅入られていた。普段だったら目にも止まらないような、家と家の間にある、人ひとり通れるくらいの小さな細道。


 意識はしなかった。ただ、勝手に空を見上げてしまうように、ただ、勝手に涙が流れてゆくように、香奈子の足はそちらへ向かっていた。


 そう。それが、当然のことであるかのように。


         ・   ・   ・


 細道の先は、どこか柔らかな闇だった。


 洒落っ気のないパンプスの底から伝わる感触はアスファルトから柔らかな土へ変化し、鼻先には雨の後のような甘い水の香りがくすぐるように伝わってくる。


 10分ほど歩いただけなのに、そこはもはや「東京の路地裏」ではなく、自然公園のような、人を受け入れる余裕を持つ細やかな森の中になっている。


 さすがに鈍い香奈子であっても、これが「普通じゃない」ことは理解できた。けれど、恐怖はない。それどころか胸の中には「待ちに待った」と言わんばかりに、今まで感じたことのない高揚感で溢れそうだ。


 早くいかなきゃ。早くいかなきゃ。早くいかなきゃ!!


 走り出したい。けれど、その衝動をなだめるように、手の中にある星空の石がひんやりと存在感を放って、香奈子の熱を抑え込む。


 進むほどに、周囲には柔らかな輝きが満ちていく。


 (私は、この光を知っている)


 香奈子は、心の中で呟いた。


 子供の頃じゃなく、もっと昔、映像としては記憶に残らないような、本能的な感覚が、既視感を訴える。


 そう、かつても、こうやって歩いた。「あの人」を探して。


 金の髪をした美しい人に「そのものは大河にいるよ」と教えられ、俊敏な動きをする輝く獣に「僕に置いて行かれないように」と導かれ、鈴のような声ではしゃぐ七人の小さな姉妹たちに「必死になっては意中の殿方が逃げてしまうわよ」と、その様子をからかわれ。


 転がるように道を駆けては、「あわいで好き勝手に走り回るな」と、「守り人」の青年に諫められ。


 髪を風にもてあそばれては、「せっかくの美しい髪が台無しですよ」と、守り人の「相手」である女性に整えられ。


 —――そう。かつての私も、こうやって歩いたのだ。


 こうやって、「あの人」を探したのだ。


 ほのかに輝く森を抜ける。そこに広がるのは。


 ―――「対の大河」だ。


 手を伸ばせば届きそうなほど近くに、天の川が流れるのが見える。色とりどりの星々が擦れ合いながら、鈴よりも高く遠くまで、澄み渡った音を立てて流れてゆく。


 その真下、同じ場所へ流れてゆく大河が、香奈子の目の前に迫っていた。


 波立つことのない静かな水面。しかし、それはゆっくりと時間をかけて流れているので、決して水が濁ることはない。


 河底には金剛石が敷き詰められている。神の時代から流れ続けている水により、途方もない時間をかけて削られた金剛石。普段は香奈子が見る様な石と同様のものだが、七夕の時だけ、石はおのずから輝きだす。


 空に流れる天の川に負けないくらい、きらきらと。


 —――ここの主の、力によって。


 絶景の中央、水面の中心、河の中央に、その人はいた。


 この河の水の色と同じ頭髪を持つ男性。体さえ仄かに輝き、星の化身のように圧倒的な存在感を放つ人。


 香奈子が手に握る星空の石と、同じ不思議な光彩を持つ人ならざる人。


 「■■様」


 香奈子は、今までずっと思い出せずにいた彼の名を呼んだ。心の中にずっといた、誰よりも愛しい人の名前。それを呼びながら、自身の足にとうとう走ることを許した。


 つま先が水面に触れた瞬間—―すべての物語が、脳裏を駆けてゆく。


                ・ ・ ・


 神は人と愛し合っては、いけなかった。


 それでも、星の川を守護する一柱の神が人の娘を娶った。


 二度と愛する両親のいるところには戻れなくなっても、娘は神の妻として彼を追って天に上った。


 神の父は、仲睦まじい二人を見て哀れに思いながらも、二人が一緒にいることを許さない。


 なぜならば、人と神が共にあるには、双方の在り方があまりにも違いすぎたためだ。神は常世が決めた「お役目」に縛られ、人は理(ことわり)が決めた寿命に縛られる。


 自らの「お役目」を全うしなければ、神は存在することができない。


 しかし、それに添うには、人はあまりにも脆すぎた。心も、体も。


 ゆえに、神の父は決めた。


 神の父は、娘に幾多の試練を与えた。それを乗り越えた娘に、神の父は確かに約束したのだ。


 7月7日にのみ、逢瀬をすることを叶えよう。


 娘の命が尽きた後、それでもなお、お互いを想い合うのならば―――。


                ・ ・ ・


 「【奇跡を、起こそう】」


 頭上から聞こえる青年の声が、感極まったように震えている。


 香奈子には初めて聞く声だけれど、魂は知っている。


 抱擁した指先が震えるのを、抑えることはできなかった。どうして自分が七夕に空を見上げて涙を流していたのか、今ならばよくわかる。


 —――この人を、想っていたのだ。


 青年は待ち続けていた。娘の命が尽きた後も、「自らの役目」を全うしながら、ずっとずっと、この冷たい水の中で待っていた。


 それを知っていたからこそ、香奈子は涙したのだ。


 人の身である娘は、本来ならば神である夫と添い遂げることはできない。


 けれど、常世から「お役目」を与えられれば違う。


 神の父は、一度死した娘の生まれ変わりである香奈子に「お役目」を与え、二人が添い遂げることのできるように奇跡を起こした。


そして、時が満ちて、香奈子が「お役目」を思い出したならば。


「【……待っていた。ずっとずっと、待っていた】」


「お待たせしました……我が愛しき、星のお方」


愛する人の腕にきつく抱かれながら、香奈子は自らの役目を思い出す。


―――私の「お役目」は、ここで【奇跡を起こす】こと。


 例えば、生と死、異なる時間、異なる場所など、様々な理由によって隔てられ、それでもなお、お互いを想う【私達】のような人々に、一時の逢瀬を許す「奇跡」を司り、それを守ること。


 今、その「お役目」は果たされた。


 これからは、ずっとこういう素敵な奇跡を起こして、生きてゆく。


 


 ――――この人の、隣で、ずっと―――

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星合の宵 千羽はる @capella92

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