船の到着(5)

「昨日はごめんね。何だかちょっと、気分がすっきりしなくて。でも、今日は大丈夫だよ」

 マヤはその翌日も、いつもの時間に東の小屋へ現れた。

「昨日ね、あれから船を見に行ったんだ。修理の邪魔だってファティに追い払われたけど、でも木陰からこっそりずっと見てたんだよ。すごいよね、あんな大きい船」

 マヤはいかにも嬉しそうに、生まれて初めて帆船を目にした感動を語った。

「それにね、島民のほとんど全員が、船の修理を手伝っているんだって。他にすることがなくって退屈だっていうのもあるだろうけど、やっぱりみんな海の男だし、船に興味があるんだよね」

 どうやらサン・サルバドラ号を間近で見たことで、マヤはすっかり元気になったようだ。

 そんなマヤとは正反対に、ムラコフの心は昨日以上に沈んでおり、せっかく彼女が熱っぽく船の感想を語っても、「そっか」とか「そうだな」とか、適当に相槌を打つことしかできなかった。

「そういえば、前の服に戻ったんだね?」

 ムラコフがあまり船の話に乗り気でないのを悟ったらしく、マヤは別の話題を持ち出した。

 マヤが今指摘した通り、ムラコフは船が島に到着してからは、再び以前の僧衣とコートを着用していた。あの白い半袖シャツに膝まくりという適当な格好で、ラウロ司祭の前に出るわけにはいかないからだ。

「暑いでしょ? 無理しなくていいのに」

「そうだな」

 マヤが笑うのでムラコフもつられて少しだけ笑ったが、しかしそれでも、以前のような明るい気分にはなれない。マヤがどんなに笑顔で話しかけてきても、誓約書のことが頭をチラついてしまう。そうすると、すぐ隣りにいるはずのマヤの存在が、途端に遠く感じられてしまうのだ。

「……」

 ムラコフは、内心ずっとそのことばかりを考えていた。

 マヤにサインをさせるのは、そう難しいことではないはずだ。ラテン語の文章など読めないだろうから、どうとでも都合のいいように説明すればいい。そうすれば、ムラコフにとっては確実に好都合なことばかりだ。帰国と同時に神父に叙階される可能性もあるし、この島が領地になれば、またここへ来るチャンスだってできるかもしれない。

 ただそれは酋長の意思に反することだし、それに何より今自分の目の前にいる、この少女を騙すことになる。

 それなら、このまま何もせずに帰ったら?

 そうすれば、この島は守れる。しかしそれ以外のメリットは、ムラコフにとって何もない。今回のような大役に抜擢されたにも関わらず、何一つ成果を収めずに帰国すれば、ムラコフに対する教会の評価は当然下がるだろう。それはただでさえプライドが高く、一日も早い出世を目指して今日まで努力してきた彼にとって、およそ耐えがたいことであった。

「どうしたの?」

 怪訝そうに尋ねるマヤの声で、ムラコフはハッと我に返った。

「何か悩んでるの?」

「いや」

「嘘だ。さっきからずっと、上の空じゃない」

「何でもないんだ」

「本当?」

 マヤは心配そうな表情で、ムラコフの顔を覗き込んだ。

「そうやって真剣に悩んでる顔も格好いいけど、私もうちょっと、ムラコフ君の声が聞きたいな」

 遠慮がちにそう口にしたマヤを見て、ムラコフはようやく気が付いた。

 船が到着する前までとは、確実に何かが違う。

 しかしながら、マヤは少しも変わっていないのだ。変わってしまったのは、他でもない自分の方である。

「――……」

 それに気付いた瞬間、ある種の確信に近い感覚がムラコフの中に湧き起こった。

 山頂で手をつないだあの時には、あるいは浜辺で一緒に寝そべって過ごしたあの時には、もうどうやったって戻れない。そう考えるともう、いてもたってもいられなかった。

 ムラコフは誓約書を取り出した。

「何それ?」

「ラウロ司祭に渡された。……右下の空欄にサインが欲しい」

「サインって私の? お父様のじゃなくて?」

「ああ」

「何が書いてあるの?」

「……」

 適当に作り話をすることもできたが、しかし嘘はつきたくなかった。

 マヤは一瞬ためらうような表情を見せたが、ムラコフの真剣な顔を見ると、黙って誓約書を受け取った。

「うん、わかったよ。右下にサインをすればいいんだね?」

 マヤの顔から視線をそらして、その問いに無言で頷く。

「あ、でも書く物が何もないな……。それじゃ仕方がないから、ちょっとだけ預かってもいいかな? サインして、明日持ってくるね」

「ああ」

「でも私なんかがムラコフ君の役に立てるなんて、何だかちょっと嬉しいな。えへへっ」

「……」

 マヤの笑顔を見るのが辛かった。

 その幸せそうな笑顔が、自分の役に立てることが嬉しくて出たものだと思うと、さらに胸が苦しくなる。

 だがしかし、こうして船が着いた以上は、先に進まなければならない。

 マヤはその後もしばらく楽しそうに話し続けたが、ムラコフの耳にはもう何も入ってこなかった。

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