南の島(3)
東の小屋は、島の中心から少し離れた海沿いにあった。
質素な木造りのその小屋は、以前は島民の漁具置き場だったらしく、中には木組みの小さなベッドが置かれているだけだった。それでも酋長が言った通り日当たりがいいし、静かな環境が気に入った。酋長の家なんかで世話になったら、それこそ周囲の視線で気疲れしてしまうに違いない。
ムラコフは小屋の窓から海を見渡したが、水平線はどこまでも青く遠くへ広がっている。
船はおろか、他の島の陰さえ一つたりとも見当たらない。
どうやらこの島は、完全な孤島のようである。
(……)
何もない小屋の中に、ザザーンという波の音だけがやたらとよく響く。
(暇だな……)
船上でも確かに暇だったが、それは新大陸に到着するまでと期間が限定されていたので、耐えることができた。しかしそれとは違って、今はいつ来るかもわからない船を待っている状態なのだ。もしかしたら、このまま永遠に来ない可能性だってある。仮にそうなったとしたら、これから先の人生を、ずっとこの小さな島の中で過ごすことになる――。
ムラコフは深いため息をついたが、ずっと小屋の中にいても仕方がないので、外へ出てみることにした。
小屋から海までは、すぐだった。
青く透き通った海が目の前に広がり、顔の横を浜辺特有のさわやかな風が吹き抜けていく。
(これがもし余暇だったらな……)
ムラコフは考えた。
もし仮にそうであれば、少しは南の島にやって来たという解放感も感じられようものの、今はこの島からこの先一生出られないかもしれないという状況だ。そう考えると、こんなに美しい海を目の前にしても、そう単純に明るい気分にはなれなかった。
ムラコフはしばらくの間無言で考え込んでいたが、やがて何者かの視線に気付いて顔を上げた。
「?」
視線のする方向を見ると、背の高いヤシの木の陰から、マヤと呼ばれた先程の少女がこちらの様子を窺っている。
(何だ?)
ムラコフが顔を向けるとマヤは慌てて隠れたが、彼が前を向くとまたこちらを覗いているのが、視界の隅の方で確認できた。
……何だか、無性に落ち着かない。
ムラコフは特に見られるのが嫌いなわけではないが、物陰からこっそり覗かれていることに何となくイライラした。
見たきゃ見ろ。隠れるくらいなら見るな。
白黒はっきりしたムラコフのこの性格は、彼の長所であり同時に短所でもあった。
「あの……何か?」
ムラコフは極力感情を出さないように、丁寧な口調でマヤに声をかけた。
「っ!」
おそらく、突然声をかけられて驚いたのだろう。
マヤは猛獣にでも見つかったような顔をして、声にならない悲鳴をあげると、いきなり回れ右をして走って逃げ出した。
が、その三秒後につまずいて砂の上に転んだ。慌てすぎたせいだろう。
「……」
ムラコフは、あっけにとられてマヤを見つめた。
声をかければ木陰から出てくると思ったが、まさかいきなり走って逃げ出されるとは思わなかった。取りようによってはかなり失礼な行為とも言えるが、しかしだからといって、このまま放っておくのも忍びない。今のは、突然声をかけた自分も悪いだろう。
「大丈夫ですか?」
「!」
ムラコフが近付いてくるのを見たマヤは、慌てて立ち上がろうとしたが、その拍子に砂に足を取られてしまったらしく、もう一度派手に転んだ。
ムラコフはマヤの前までやって来ると、そっと右手を差し出した。
「そんなに怯えなくても、いきなり噛み付いたりはしませんよ。神父ですから」
いやいや。たとえ神父でなくっても、いきなり噛み付いたりはしないだろう。
心の中で自分に突っ込みを入れながら、ムラコフはもう一度右手を差し出して、その場に座り込んでいるマヤに立ち上がるよう促した。
しかしマヤは、なかなか差し出したムラコフの手を取ろうとしない。
「だ、大丈夫。何でもないのよ。たまたまちょっと、近くを通りかかっただけなの」
そう言いながらも、マヤは一向に立ち上がらない。
よく見ると、浜辺に転がった小石で打ったのか、右膝から赤い血が流れていた。
「出血しているようですが……」
「平気よ! このくらい、舐めておけば治るから」
それなら僕が舐めましょうか――と言おうか一瞬迷ったが、初対面の女性にその手の発言はさすがに良くないだろう。
ムラコフは、コートの内ポケットから消毒薬を取り出した。
教会学校で衛生係をしていたムラコフは、薬一式を習慣でいつも持ち歩いている。塩水に浸かったせいでだいたいは駄目になってしまったが、小瓶入りのこの消毒薬だけは無事だったのだ。
「少し沁みるかもしれませんが、唾液よりは効くはずです」
マヤは脚を触られて一瞬ビクッとした様子だったが、ムラコフが特に危害を加えないのを見て取ると、大人しく傷の手当てを受け入れた。
長い黒髪が潮風に揺られて、そよそよとなびく。耳の上に付けている赤いハイビスカスは、どうやら造花ではなく本物の花らしく、近付くとかすかに甘い香りがした。
「……」
彼女はキョロキョロとよく動く大きな瞳で、傷の手当てをするムラコフの顔を興味深そうに見つめたが、目が合うと慌ててパッと視線をそらした。しかしその後もチラチラとこちらを見ているようで、その様子が視界の端の方に入ってくる。
こんな至近距離でそんな風にまじまじと見つめられると、さっきとはまた違った意味で落ち着かない。
ムラコフがそんな風に考えていると、マヤは意を決したように話しかけてきた。
「その服装、変わってるね」
「服装?」
「うん。暑くないの?」
マヤがそう尋ねるのも当然だった。
ムラコフの服装は教会学校にいた時とまったく同じで、長袖の厚手の黒い僧衣の上に、膝下まで届く長いコートを羽織っている。おまけに手にはしっかりと白い手袋をはめ、さらに足元は黒革のロングブーツという装いだ。ほとんど胸と腰しか隠していないマヤからすれば、見ているだけで汗が噴き出そうな格好だろう。
「それはつまり、僕に脱いで欲しいという意味ですか?」
「うん。暑いなら、脱いだ方がいいと思うよ」
「……積極的ですね」
そうではない。
別にムラコフに服を脱いで欲しいわけではなく、暑いなら我慢するなと言いたいのだ。
それはもちろんわかっているが、しかしここで暑いと認めたならば、この島特有のファッション――つまり、腰布を勧められかねない。
そんなわけで、ムラコフはマヤのその問いをさわやかに否定した。
「それほど暑くはありませんよ。風があるので」
「そう? 私だったら暑いけどなぁ」
いやいやいや。実際のところ、俺もかなり暑いさ?
ムラコフは心の中でそう考えたが、その横顔を見ると、マヤがさらにこう尋ねてきた。
「ねえ、あなた名前は?」
「名前? ムラコフです」
「ふーん、変わった名前だね。年齢は?」
マヤは次々と質問を畳みかけてきた。
どうやら、最初の警戒心はすっかり消えたらしい。そもそも木陰からずっとムラコフを見ていたのだって、話がしたかったからだろう。初めて見る島の外の人間に、興味があって仕方がないようだ。
「十六です」
「じゃあ、私と一緒だね!」
ムラコフの返事を聞くと、マヤはパッと顔を明るくした。
「ふふっ。この島には同い年の人がいないから、嬉しいな!」
そう言って笑ったマヤの顔を見て、ムラコフは不思議な感覚を覚えた。
違和感というと言葉が悪いが、何だか妙に落ち着かないというか、いい言い方をすれば新鮮である。同年輩の異性と会話をすること自体が久し振りなので、そのせいだろうか? それは落ち着かないと同時に、心地良くもあった。
「終わりました」
膝の傷がすっかり手当てされたことを確認すると、マヤは立ち上がった。
「ありがとう。ねえ、またここへ来てもいいかな?」
「どうぞ」
断る理由なんてない。ただでさえ、することがなくて退屈なのだ。
マヤは返事の代わりにムラコフにニコッと笑顔を向けると、それからクルリと背中を向けて長い髪を揺らしながら駆けて行った。
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