第2話 名前


 跪いた俺がそっと手を差し出すと、少女は俺の顔と手をじっと見つめて、首をこくりと傾げて訳が分からないといった様子で俺の手の上に自らの手をそっと乗せてくる。


 そうしてにぎにぎと俺の手を握り……目を大きく見開いて、凄まじい勢いでその手でもって俺の頬を掴みぐいぐいと引っ張ってくる。


「いてぇいてぇ、いってぇな!?」


 子供とは思えない力で、一切の遠慮なくそうしてくる少女に、俺がそんな声を上げると、少女はぽかんとした表情となって、ぽつりと声を漏らす。


「本物……?

 本物のウサギさんが服を着て喋ってる……」


 このご時世にそんな差別的なこと、普通だったら口にしないんだが……まぁ相手は子供だ。その事情も複雑そうだし、今はどうこう言わずに置いておくとしよう。


「ああ、見ての通りウサギだよ、俺は。

 服を着て喋って、毎日毎日真面目に働いているウサギ獣人だ。

 で、そんな俺の名前はラゴスな訳だが……お前の名前は?」


 出来るだけ優しく、自前の太い声を出来るだけ柔らかくしてそう言うと、少女は俺の頬を掴んだままこくりと首を傾げてから口を開く。


「私? 私はー……私の名前……?」


「……おいおい、その年で自分の名前が分からないってことは無いだろう?」


「んー……わかんない」


「マジかよ……。

 名前が分からないってことは……両親が誰かとか、家が何処にあるとかも……?」


「うん、わかんない」


「マジかぁ……。

 ……まぁ、その様からしてなぁ、親元に戻すのも問題ありそうだしなぁ。

 仕方ねぇかぁ……とりあえず警察署に連れていって、その後は神殿にでも預かってもらおうかぁ」


 そう言って俺がため息を吐き出すと、少女はぐいと俺の頬を引っ張ってくる。


 さっきよりかは弱い力であるものの、それなりに強い力でそうされた俺が痛みに顔を歪めていると、少女は頬を膨れさせて不満を顕にしてくる。


「……なんだよ、警察署は嫌なのか?」


 と、俺がそう言うと少女は顔を左右に振ってから語気を強めてくる。


「違う!」


「……じゃぁ何だよ、神殿が嫌なのか?」


「違う違う!」


「……はー? じゃぁ一体何が不満なんだよ?」


「名前」


「あん?」


「名前が無い、私の名前!」


 そう言って少女はバシッともう片方の手を伸ばし、俺の両頬を引っ張るという斬新な抗議の仕方をしてくる。


 自分に名前が無いことが不満だってのはまだ分かるとして、その不満を俺にぶつけてやろうってのは一体全体どういう了見なのか。


 痛みに顔を歪ませながら少女のことを睨んだ俺は……少女が冗談などではなく本気で、心の底から自分に名前が無いのを嫌がっているのだと気付いて「あー……」と声を上げながら頭を悩ませる。


「……あー……そうだな。

 アメリア……とか?」


 悩みに悩んで俺がそう言うと、少女はがっかりしたような表情になり……その両手に力を込めてくる。


「あだだだだ!?

 じゃ、じゃぁあれだ、ベシ―はどうだ!?」


 今度の案はそれなりに良いものに思えたのだが、これすらも不満であるようで更に力が強まっていく。


「ああああもう、じゃぁアリス! アリスなら良いだろ!!」


 僅かも悩んでいない、ただの思いつきのその名前を耳にした瞬間……少女の力が緩み、その手が頬から離れ、その顔に笑みが浮かぶ。


「……それなら良い、ラゴスに似てる」


 笑みを浮かべたままそう言った少女……アリスに、一体何処が似ているんだとか、こんな適当な名前で良いのかとか色々言いたいことがあったが、俺はそれらをぐっと呑み込んで……上着として着ていた黒白柄のジャンパーを脱ぎ、アリスに手渡す。


「とりあえずはそれを着ておけ。

 警察署に行けばまともな服を貰えるだろうから、それまでは貸しておいてやるよ」


 機械油が染み付いて、なんとも素敵に汚れてしまっているそれを、嫌がられるかなとも思ったが、意外にもアリスは嫌がることなく素直に頷き、おぼつかない手付きでジャンパーを羽織って、そのアザだらけの身体をしっかりと覆い隠す。


 その格好ならば町の中を歩いても問題無いだろうと頷いて、立ち上がって町の方へと歩き出そうとすると、アリスがその強い力でもって俺の、これまた機械油が染み付いたデニム生地のズボンをぐいと引っ張ってくる。


「……なんだよ、流石にズボンまでは渡せないぞ。

 んな格好で町中を歩いて変態扱いなんてのは笑い話にもならねぇよ」

 

 と、振り返りながら俺がそう言うとアリスは「違う!」と力を込めた一言を返してきてから……その両手を大きく広げて、俺が何かをしてくれるのを待っているかのような、何かを期待しているかのような表情を向けてくる。


 その表情をじっと見つめて……俺が何も言わず、何もせずにじっと見つめ続けていると、アリスは更に一言「抱っこ」とそう言って両手を更にぐいと大きく広げる。


 その一言を受けて俺は大きなため息を吐きかける……が、人間の足が裸足で歩くことに適していないこと思い出して、ぐっとため息を呑み込む。


 俺は獣の足を持っているから裸足でも平気だったが、アリスはそうじゃない。


 ……町までそれなりの距離があることだし、これ以上余計な傷を増やす必要もないだろうと考えて俺はアリスのことをそっと抱き上げる。


 するとアリスは、俺のことをぐっと抱きしめ……何かが不満だったらしく「ぶーぶー」と声を上げてから、シャツのボタンを勝手に外し、シャツの中から出てきた俺の茶色の体毛の中に顔を埋め始める。


 その行為は完全に、言い訳も出来ない程の差別的行為であり変態的行為な訳だが……まぁ、子供相手にそんなことを言っても仕方がないだろうと、色々なことを諦めた俺は、アリスのことをしっかりと抱えながら町へと向かって足を進めていく。


 くたくたのエンジニアブーツで石畳を踏みつけていって……石畳が土道へと変化し、土道がレンガ道へと変化していくと、そこでようやく町の姿が見えてくる。


 海へ向かって一直線に伸びる下り道と、その左右に並ぶ大小様々な家々。

 その一帯を中心として左右に道が伸び、家々が伸び……。

 そしてその向こうには青い海が広がっていて……海の上を様々な船が行き交っている。


「……変な町」


 なんてアリスの呟きを聞き流しながら俺は、町に入ってすぐにある、一番高い位置にある行政区画へと足を進める。


「……ここだけ大きな建物いっぱい」


 とのアリスの言葉通り、行政区画には警察署やら病院やら学校やら、大きな建物が行儀よく綺麗に並べられている。


「何かがあった時に、波を受けて使い物になりませんでしたじゃ話にならないからな。

 重要な行政施設はここに集められているんだよ。

 港湾管理事務所だけは港の方にあるが……台風なんかの時には職員達がここまで書類を抱えて逃げてきているのを見かけるな」


 との俺の言葉に対し、アリスは「ふーん」との言葉を返してくる。

 それを受けてことも相手に何を話しているんだと自分に呆れた俺は、ため息を吐き出しながら警察署へと……この町にしては珍しい4階建ての大きな横長の建物へと足を進める。


 出来上がったばかりの頃は綺麗だったのだろう、薄汚れた白ペンキの鉄筋コンクリート造りの4階建て。

 台風でも津波でも爆弾でも吹っ飛ばないとの触れ込みの、いかついその建物の玄関には、守衛の姿があり……老人間の守衛は俺の姿とアリスの姿を見るなり、


「またか!!」


 と、そう言って笑い声をゲラゲラと上げ始める。


 そしてその笑い声を聞きつけたのだろう、警察署の奥から慌ただしい足音が響いてきて……180cmと少しという、かなり高い身長の俺よりも20cm以上はあるだろう、いかつい身体を持つ髭まみれのおっさん……。


 40歳だか50歳だかを過ぎても一本の白髪もない生命力と筋肉に溢れた男……俺がこの島に来た時に既に警察署長だった、警察署長のグレアスが俺の下へと駆け寄ってくる。


「ラゴォォォォス!! お前って奴は、お前って奴は本当におんもしれぇなぁ!!

 美女の次は少女ってかぁ!! しかもなんだぁ、その髪の色は! 一体全体何人なんだってんだよなぁ!!」


 警察官の制服である真っ白なシャツと真っ白なスラックスを身にまとい、日に焼けた茶色の肌をはちきれんばかりに躍動させ、その肌に合わせたかのような茶髪をオールバックにして。


 汚い髭さえなければそれなりの色男にも見えるグレアスは、そう言ってから「ガハハハ!」と大きな笑い声を上げて俺の肩をバシンバシンと叩いてくる。


 そしてその影響を受けて身体を揺らすことになったアリスは、なんとも嫌そうな顔をしながら「ぶーぶー」と、グレアスへの抗議の声を上げる。


 その声を受けて更に大きな笑い声を上げたグレアスは、アリスのことを撫でてやろうと手を伸ばし……そこでようやくジャンパーの隙間から覗く、青アザに気が付く。


 そうして警察官の顔になったグレアスは、優しく微笑みながらアリスの頭をそっと撫でて、それから俺の肩をぐっと掴み、


「よくやった、見直したぞ」


 と、以前にも聞いたことのあるような、そんな言葉を口にするのだった。


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