第7話 守るべき存在



「イネス!」


 グレゴリウス卿を見送るため、廊下に出たところで、小さな影が全力で私にぶつかってきた。


「エアニー!」


 私に抱きついてきたのは、エアニーだった。


「イネス、遊んでよ」


 私は膝をついて、エアニーと目線を合わせた。


 グレゴリウス卿の屋敷で過ごすうちに、いつの間にか私とエアニーは、本当の姉弟のような関係になっていた。


「ごめんなさい、エアニー。まずは、閣下をお見送りしないと」


「私は構わないよ。君は、エアニーと過ごすといい」


 グレゴリウス卿が、そう言ってくれた。


「・・・・もうすぐ、一緒に過ごせなくなる。その後は、どうなるかわからない。だから今は、ともに過ごせる時間を大事にしなさい」


「・・・・はい」


「一緒に過ごせない?」


 エアニーは不安そうに、目を瞬かせた。


「それでは、私はこれで」


 召使い達に見送られ、グレゴリウス卿は屋敷から出ていく。


「残り時間って、何?」


 グレゴリウス卿の後ろ姿が見えなくなってから、エアニーが問いかけてきた。


「・・・・説明する。大事な話だから、あなたの部屋で話しましょう」


 私はエアニーを連れて、彼の部屋に向かった。



 エアニーの部屋は、散らかっていた。



 彼はもう八歳だけれど、十分な食事を与えられていなかったから、背が伸びきらず、もっと幼く見える。


 身体だけじゃなく、精神面の成長にもばらつきがあり、年齢以上に幼い面もあれば、大人達を驚かせるほど、達観した一面を見せることもあった。



「――――私、皇宮に入ることになったの」



 私がそう伝えると、エアニーの大きな目が開かれた。



「皇后候補者に選ばれたのよ。近いうちに、ここを出るわ」



「・・・・・・・・」


 エアニーは混乱したようだ。視線を彷徨わせて、しばらくは何も言わなかった。



「・・・・もう会えないの?」


 そして、消え入りそうな声で聞いてきた。


 その声に、表情に、胸が締め付けられる。



 エアニーはずっと、敵に囲まれて育ってきた。この広い屋敷でも、エアニーが心から頼れる人は、多くはいない。


 側にいて、これからもエアニーを守ってあげたいけれど、私は復讐心を捨てることもできない。



「・・・・会えないということはないわ。でも、今のように毎日会うことはできなくなるでしょうね」


「・・・・・・・・」


「だけど皇宮に入っても、時間が空いたら、ここに戻ってくるから」


「約束してくれる?」


「約束する」


「・・・・絶対に会いに来てね」


 エアニーは私の小指に自分の小指を絡める。


 約束することで安心できたのか、エアニーは私の肩に寄りかかってきた。私は、彼の小さな身体を抱きしめる。



 家も家族も、本当の名前も失った。残っているのは、復讐心だけ。でも復讐だけが生きる目的になってしまったせいで、私の心は乾いていた。



 でも、エアニーを守るという目的を持ってからは、それが希望になってくれた。こんな私にも、守るべき存在がいるのだと思えば、立ち上がる気力が湧いてくる。



 エアニーが私を心の支えにしてくれているように、私にとっても、エアニーが心の支えだ。



「・・・・お菓子、食べる?」


 エアニーの次の言葉に、笑ってしまった。


 エアニーなりに、気まずい空気を和ませようとしたのだろう。普段、大人びている子なのに、こういうところはとても子供っぽい。


「チョコチップクッキー、嫌い?」


「ううん、好きよ。もらうわ」


 エアニーはお菓子の箱からチョコチップクッキーを取り出して、私の口の中に入れてくれた。


 ――――最後の時を、ただ一緒に過ごしているうちに、エアニーはいつの間にか眠っていた。



 日が暮れはじめ、赤みを帯びた日差しが、エアニーのふっくらした輪郭を縁取っている。



 皇宮に入れば、エアニーにはめったに会えなくなるだろう。エアニーは寂しがっているけれど、私も寂しい。


 エアニーの寝顔を見て、私は彼の髪を撫でる。癖毛で、柔らかな髪の感触が、手に残った。



(あなたのことは、必ず守るから)



 ――――ヘレボルスを退け、エアニーを守る。



 そのためなら、何だってできる。


 エアニーをベッドに寝かせながら、私は自分の中の覚悟を確かめ、部屋を後にした。



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