復讐に必要な五つの方法
炭田おと
第1話 皇帝の愛人
――――何かが決定的に崩れたのは、どの瞬間だったのだろうか。
パンタシア帝国の皇帝、カエキリウスに嫁いだ時だったのか、それともカエキリウスの愛人のルジェナの提案を、跳ね付けた時だったのだろうか。
「――――イネス。お前は、カエキリウス陛下と結婚するんだ」
パンタシア帝国の貴族、クレメンテ家に生まれた私は、幼い頃からそう言い聞かされ、育ってきた。
そしてお父様の言葉通り、カエキリウス皇帝陛下に嫁いで、皇后になった。
でも、皇后としての生活は、惨めなものだった。
カエキリウスは私に冷たく、夫婦らしい触れあいは一切なかった。
皇帝の愛を得られない私は、役立たずの烙印を押され、徐々にまわりから軽んじられるようになる。
――――どうしてカエキリウスに避けられるのか、その理由を、ある日私は偶然、知ることになった。
「ルジェナ。必ず君を、次の皇后にする」
明るい部屋から、暗い廊下へ、扉の隙間から零れる光とともに、囁き声が滑り出てきた。
――――深夜、話し合おうと思い、カエキリウスの執務室を訪ねた時の出来事だった。
執務室の扉を開けようとして、私はカエキリウスが別の女性に囁いている声を聞いてしまったのだ。
その瞬間に頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。
「ではなぜ、他の女性を妻に迎えたのですか?」
「身分にこだわる者が、君との結婚を反対している。だから、クレメンテ家の令嬢を妻に迎えるしかなかった」
――――嫌だった。
だけど、仕方なかった。
そう要約できる言葉が、ガラスの破片のような鋭さで、胸に突き刺さってくる。
愛情を得ようとして私がしてきた努力は、すべて無駄だったのだと、その瞬間に思い知らされた。
(・・・・ルジェナ? もしかして今、陛下と一緒にいるのは、ヘレボルス家のルジェナなの?)
ルジェナ・ガメイラ・ヘレボルス――――彼女は権力者の一人、ダヴィド・ガメイラ・ヘレボルス卿の愛人の娘で、カエキリウスに侍女として仕えていた。
母親が平民のため、幼い頃は別宅で平民として暮らし、父親のとりなしで
権力者の娘だとしても、彼女は皇宮では、侍女の一人にすぎなかった。
なのに彼女は、皇宮で自由奔放に振舞い、私や身分の高い方々を敬おうとせず、横柄な態度を取ることもあった。
なのにその目に余る態度を、誰も咎めようとしない。
その理由が、これだったのだ。
「皇后と離婚する準備は、進めている」
カエキリウスのその言葉に、また呼吸が止まった。
「だから、もう少しだけ、耐えてほしい。必ず君を、皇后に――――」
聞くに堪えず、私は身を翻して、自分の部屋に駆け戻った。
(もしかして、前の皇后陛下も同じ目に遭っていたの?)
暗い部屋で泣きながら、私は、私より前に皇后を務めていた、ダフネ前皇后陛下の言葉を思い出していた。
ダフネ前皇后陛下は、原因不明の病に倒れ、心を病み、それを理由に廃位されてしまった人だ。皇宮を去ってまもなく、亡くなられたらしい。
花に例えられるほど美しい人だったけれど、本当に、花のように儚い女性だった。
私は一度だけ、彼女に会ったことがある。
私が皇后候補者として
まわりは私達を会わせないようにしていたけれど、一度だけ、庭で出くわしてしまったことがある。
――――あなたが、次の皇后になるのね?
私は、ダフネ前皇后陛下を追い出す形で、皇后になる。
だから敵意を向けられることを覚悟していたのに、ダフネ前皇后陛下は力なく笑うばかりで、敵意どころか、むしろ憐れむように私を見た。
――――可哀想な人。あなたが次の犠牲者なのね。
その言葉の意味を、私は今、思い知っている。
――――その日の夜、ルジェナが私の部屋を訪ねてきた。
「大人しく、陛下との離婚に応じて」
開口一番に、彼女はそう言い放つ。
「大人しく去って、ここで起こったことを口外しないと誓うのなら、こちらも何もしないと誓うわ」
彼女の口調は、格下の人間に命令するように尊大だった。
ルジェナは、男性が好む女性像を、よく知っている。
表向き彼女は、声も仕草も可愛く仕上げ、完璧なまでにあどけない、無垢な女性を演じていた。――――毒の棘なんて、一本も持っていないように。
――――私もその瞬間まで、その演技に騙されていた。
居丈高に振舞う彼女を見て、ルジェナの本質は違うのだと気づく。
「分をわきまえなさい、ルジェナ。皇帝の愛人だろうと、あなたは侍女で、私に命令する権利はないのよ」
「お飾りの皇后様が、何を偉そうに」
ルジェナは勝ち誇ったように笑う。
「あんた、私と陛下の話を盗み聞きしてたんでしょ? なのにいまだにそんなことが言えるなんて、分をわきまえていないのはどちらなのかしら?」
「・・・・・・・・」
「残念だけど、あんたに入り込む隙間はないのよ。皇后の一番の役目は、皇帝陛下の子を授かること、でもこのままじゃ、あんたにはその機会は永遠に訪れない」
ルジェナの言う通りだった。
カエキリウスは、私の部屋を訪れない。カエキリウスに務めを果たそうとする意志があっても、おそらくルジェナが止めている。
「わかった? わかったのなら、明日、ここを去る準備をして。理由はこちらが考えておく」
「――――断るわ」
毅然と顔を上げて、私はそう言った。
「これは、私一人の問題じゃない。私は、家を背負ってここにいる。横柄な侍女ごときに脅されて、引き下がるわけにはいかないの」
「・・・・・・・・」
「あなたの思い通りにはさせない」
ルジェナの目が、すっと細められる。
その濁った両眼は胡乱で、危険な光を孕んでいた。目的のためならば、何でもする女性なのだと、その時本能で、彼女の本質を感じ取っていた。
「・・・・後悔することになるわよ」
ルジェナはそれだけ言い残して、身を翻す。
後悔はしなかった。
――――お父様が、反逆の罪で捕らえられるまでは。
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