集積

@gohanpower

左頬

 俺は俺の左頬が嫌い。赤く腫れて強張っていて触ると少し痛くてよく冷やさないと明日も明後日も青ざめた顔のままでいなくちゃいけない左頬が嫌い。あいつから見て殴りやすい位置にある左頬が嫌い。頬骨のところがずっとじんじん痛くてそっち側を枕につけて眠れない左頬が嫌い。ずっと痛いし殴らされている。たまに右頬がぶたれるとかいう気づかいもないのも左頬が殴りやすいところにあるからだし。だから嫌い。俺はぱっと広げた手のひらをゆっくりと頬に当てて、きんとした痛みが走るかどうかを確かめる。のを夜の間に何十回もする。痛いな、どうかな、眠れるかな、無理かもな、と、あきらめたころにようやく眠気が勝つ。朝がやってくる。

 どうだ。左頬の調子は。鏡の向こうの寝起きの自分に無言のまま尋ねる。女の子の顔のケガなんてひどいものでちょっとキズがついただけで四方八方から心配される。大丈夫、痛くない、誰にやられたの、転んだって嘘ついてるのはなんで。俺は女の子じゃないからかそれともすごい強そうでなにされてもキズひとつつかないような見た目してるからなのかそういうカンジで言われたことはない。なのでそれどうしたのって言われたらこう言えば済む。「ケンカ。ヨコチューの奴らと」言い訳するたびに俺はヨコチューの奴らに申し訳なくなる。彼らは一回しかとケンカしたことないのに。

 右頬はいつも異様に軽い。歩くときなんとなく左側に傾いているのがなんも考えないで歩いているとだんだん左にズレてってひどいときは道脇の駐車場のフェンスやら電柱やらによくぶつかる。これも全部左頬が悪い。俺の左頬が叩いたり殴ったりしたら爆発とかする仕様で誰も触れたくないみたいに思うようなものじゃないのがいけない。右頬にはそういう仕様がべつについてないけどきっと右頬は優秀なのでめったに殴られない。やはり出来が違うのだ。ゴミみたいな左頬を持って生まれた奴はつらい。このように苦労する。

 帰り道は薄暗い。部活して帰ってるからあたりまえなんだけど。部活しても部活しなくてもべつに左頬はいつか殴られるし部活なんかする意味ないんじゃないかなって思うけど、部活していると帰宅しなくていいので部活は好きだ。左頬が痛くても部活はできる。

 学生服が道の向こうからやってくる。足取りがおぼつかずふらふらしている。学生服が道の向こうからやってくるのは奇妙で、だって俺とすれ違うってことはそれ駅のほうに向かってるってことだから。こんなくらい時間に駅に向かうってなに。駅から家に帰るならわかるけど。不良かな。なんとなく今日も痛む左頬のせいでなんとなく左のほうに傾いたまま歩いてしまうのを調整しながら前からやってくる学生服を見つめる。あっと思った。右頬にガーゼをしている。どうしてだろう? 俺は首をかしげる。右頬は殴りやすい位置にはない。相手が左利きだったのかな、とついその闇に浮かぶ白いガーゼを目で追ってしまう。学生服と目が合う。あっ。

「こんにちは」このままでは不審者となってしまうと考え焦ってなにか言おうとした結果言わないほうがよかったみたいなことが口から出てくる。よくある。左頬ほどではないがこの口もなかなか役に立たない。

「あ?」ほらみろ、ろくなことにならない。学生服がじっとこちらを睨む。いや見上げている。近づいてみるとそんなに背の高くない奴らしかった。まあ俺がたいていの人類よりでかいだけだが。

 こんにちは、に、あ? って返された奴ってそのあとどうしたらいいんだ。

「相手左利きだったの?」

 考えていたことをそのまま言った。これで実際に学生服からムカつかれ手をあげられたとしてそれがなんなのだろう。ほんとうにほんとうに、なんなのだろう。家の中にいる機嫌のぐらぐらしたわけのわからない、しかし血のつながった生き物よりは、よほどわかりやすい。彼は誰かに殴られてそれで右頬がずっと痛くて痛くてふたふたした歩き方になるくらいで、急に話しかけてきた左頬の腫れた男にきっといらいらしている。

 いいよそれくらい。そういう気分だった。いっそぼこぼこにしてそのまま家に帰ったら親父がびっくりして今日はわざわざ殴らなくてもいいかと思うくらい原型なんかとどめなくていいから俺のことぐちゃぐちゃにしてくんないかな。原型とどめなかったらきっとすごい痛いだろうけど、原型とどめていない俺のことを見ても親父は俺だってわかんないかもしれない。それはいい。すごくいい。

「なんだよ」

 俺ははっとして相手を見る。殴りかかってこない。おびえているようにみえる。困惑しているようにも。よく見ると彼の右頬にあてられているガーゼはとても丁寧に彼の皮膚を保護してはりついている。いいなあ、手当、してくれるだれかがいるんだなあ、よかったなあ。そう思ったらぼろりと涙がこぼれた。右目からだった。左目からも流れたかどうかはわかんない。左頬がいたくてその感覚しかない。

「なんでもない」

「……そのほっぺ、どしたの?」

 はじめて喋る男が気づかわしげにそう聞いてくるので笑ってしまった。どれだけひどい様子なんだ、俺は。いつもどおりに「ケンカ。ヨコチューの奴らと」と言おうとして、ヨコチューの奴らと、はべつにはじめて会った奴には言わないでいいだろと判断し、ケンカ、とだけ答え「わかんない」俺は気が付いたらぼろぼろ泣いている。右目だけで一生懸命に両目ぶん泣いている気がした。目の前の学生服がとても困った顔をしている。当然だ。ごめん。あとその制服ヨコチューの奴だな。いつもごめん、ほんとうに、ごめん。

 帰ったら親父に今日は右頬殴ってくんない? って頼もうと思った。左頬はもうだめだ。むりだ。あと一発でも殴られたら左頬だけじゃなくて俺自身もずたぼろのぼこぼこにされてしまう。心からそう思った。手厚い治療がほどこされている様子の右頬を腫らした学生服に、「お大事に」だけ言って、俺はとぼとぼと帰り道を歩いていく。左側にずれていく。線路わきのフェンスにかしゃんとぶつかり、軽く接触しただけだろうと思ったら盛大にぶつかって事故みたいに転んだ。駆け寄ってくれる足音が聞こえた。ほんとごめん。つぎからヨコチューの奴らとケンカしたなんて嘘つかないようにする。

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