嫉妬

恋煩

 妓楼にて梅花に、己の正体を明かしてからはや五日。


 薫風宮にて、白桜は物思いにふけっていた。几の上には、押し付けられた簪が置かれている。

 あの晩、梅花に言われた“金輪際、わたくしに会いに来ることはおやめください”という言葉が表情が、白桜の胸に深く刺さり、気が沈む。

 簪を手に取ると、盛大にため息を吐く。


もう少し、梅花の気持ちを考え慎重に動くべきだった―。

正体を明かすことばかりに気を取られ、梅花の置かれている状況を蔑ろにしてしまった―。

 白桜は、己が一人で思い上がりその結果、梅花を酷く傷つけてしまったことを悔やんでいた。


 桃苑も二人の間に、起こったことを把握はしているが、詳細を尋ねたりましてや進言などはしていない。


 部屋の外から、人が来訪する気配がする。

「白桜様。王様の御成りにございます」

 外で控えている桃苑の声。

 白桜は怪訝そうな顔をする。


 桜月とは、縁談を白紙にした日以来、まともに話をしていない。

何用だろうか―。


 とにかく中に通すようにと指示を出す。

 扉が開き、普段通り唐紅の深衣を身に纏った桜月が姿を見せる。

 白桜は、膝を付き再拝稽首さいはいけいしゅで敬意を表する。


 白桜が立ち上がり顔を上げるのを待って、桜月は口を開く。

「桃苑から大まかな経緯は聞いた。

 そなたの想い人が、妓楼の妓女とは……。驚いた」

 白桜は視線を落とす。

いつ話したのだろう―。

まさか、母上もこの話を―。

 白桜の胸の内を読むように、桜月は言葉を続ける。

「桃苑を責めるでない。余に話したのは、そなたを案じての行いだ。

 そうであろう。桃苑」

 桜月の背後から、「左様でございます」という声と共に、桃苑が姿を現した。両手に、二人分の茶菓子を抱えている。


「お座りになってはいかがですか」

 桃苑にそう言われ、白桜と桜月は向かい合わせに腰を下ろす。

 桃苑は「失礼いたします」と断り、几の上に茶と菓子を置くとそのまま宮を後にする。


 桜月は茶を一口呑み口を開く。白桜も湯飲みを持つと、左の袖で口元を隠し、茶を啜る。

「王妃には、経緯は伝えてはおらぬ」

 桜月の言葉にほっと胸を撫で下ろす。


「だがな」息子の眼を真っ直ぐ見据えて、口を開く。

「心からその女人を娶りたいと所望するなら、これから棘の道になる。

 妓女が王室に嫁ぐなど前代未聞だ」

「ならば王様は諦めろと仰せですか。この気持ちを、なかったことにせよと」

 白桜は身を乗り出す。つい、声が大きくなる。白桜の問いに、即座に頭を振る。

「いいや、そうではない。

 余はそなたの父として、月並みだが息子の幸せを切に願っている。国や王室のためではなく、誠に恋い慕う者と夫婦になれば良いと。甘い父親だと思うだろう。しかし、親は子の幸せを願うものだ」

 桜月から直接、そう言われ気落ちしていた感情が、幾らかましになる。

「だが、その女人を娶るには覚悟がいる。そなたが女人を娶れば、女人はこの国の母となる。

 妓女が国の母となることを、良く思わない官僚もいるであろう。王妃と同じように。

 白桜。そなたは、誠にその女人を恋い慕っているのか。誠に、正妻として娶りたいと」

「わたくしの気持ちに、一寸の狂いもございません」

 きっぱりと言う。


余程、その女人のことを好いているのだろう―。

組まれていた縁談を、白紙にするほど―。

 息子の決意が、確固たるものだと知り桜月は「そうか」と微笑んだ。即座に真顔になる。精悍な瞳が、白桜を射抜く。

「ならば余計に、王妃と王妃側に付いている官吏らを納得させねばならぬ。と同時に、その女人を陰謀と奇聞渦巻く王宮内にて、護るための地固めもせねばならぬ。

 その女人が、そなたの正妻となった暁には、王妃は自分に付いている官吏らを使い、女人を陥れ正妻の身分から引きずり降ろそうと、謀を思案するであろう。

 余も、想いが実を結ぶように、尽力するが一筋縄ではいかぬ」

 どこまでも現実的で、冷淡な物言いにぞくりと悪寒が走る。

「承知をしております。父上」

 白桜は深く頷いた。

 

 白桜に簪を返した日から梅花は、自室に籠っていた。


 実際には、王族と騒ぎを起こしたことが妓楼内に公となり、詳細な処分が下るまで自室での謹慎が言い渡されていた。

 

 そして、葉桜の目立ちはじめたある日の晩。

 突然、自室の襖が開いたかと思うと、楼主の野太い声が耳に届く。

「梅花。処分が決まった。

 今すぐ、芽李月の部屋に行け」

 声に梅花は顔を上げる。充血した目は、何の感情も残っていない伽藍堂がらんどうである。


 梅花は微かに頷くと、のろのろと立ち上がる。ことが起こってから、まともに食事を口にしていないからか、立ち上がった瞬間ふらつき壁に手を付く。

 梅花はふらつく身体を支えながら、一歩一歩足を進める。

妓楼を追い出されるのだろうか―。

 人気のない長い廊下を歩きながら、最悪の処分が頭を掠める。


 梅花は物心付いてから、この月花楼で生活しており、親の顔はしらない。万が一、妓楼を追い出されるようなことになれば、頼る者はおらず物乞いをするしかない。


 前を歩いている楼主は階を上がる。

 上には芽李月をはじめ、上級の妓女らの寝室があり梅花も階を上がるのは両手で数える程である。

 三階の一番奥に、芽李月の自室は用意されている。


 楼主は一番奥の部屋で足を止める。襖には紺色の背景に金の満月が描かれている。芽李月という名の通りの襖絵である。


 楼主が梅花の到着を告げ、襖を開ける。

 広い部屋には、椅子と几、そして箪笥や衣桁、更には寝台が備え付けられていた。


 部屋には菖蒲あやめ色の衣に、薄藤色の裙を身に纏った女性が、二人の到着を待っていた。

 妓女には珍しく、光沢のある白菫色の披帛を流しており、貴族の娘さながらの出で立ちである。

 彼女が芽李月その人である。


「掛けなさい」憔悴しきった梅花を見ても、さして驚かず甘い声音で二人を諭す。

 梅花と楼主が腰掛けるのを見届けると、自分も二人と向かい合わせに腰を下ろし口を開いた。

「単刀直入に言えば、此度の処分は黴雨ばいうの時期まで謹慎。その時期まで、客を取ることを禁じます」

「え……」か細い声で呟き、眼を見開く。てっきり、追い出されるかと思っていた。

 最悪な処分ではないことに、本来なら安堵するべきところだが、今の梅花にはそんな感情すら湧いてこなかった。

「確かに、貴女が起こした件に関して、厳しく問いただすべきでしょう。しかし、此度のことで妓楼に直接被害があった訳ではありません。王宮と朝廷にとっては、大事でしょうが。それ故、これ以上の処分は不当かと」


 話は済んだと言わんばかりに、芽李月は立ち上がり、戸棚を開け白い皿を二・三枚取り出す。皿を梅花の目の前に置くと、優しく笑う。


 皿の上には、芝麻球や琥珀糖、さらには王宮にも献上されるという、龍鬚糖ロンソートンが盛りつけられている。

 芝麻球を目にした瞬間、白桜からの文で好物だと認められていたことを思い出し、思わず視線を逸らす。


「あまり食事を摂れていないと聞いたので。甘味なら口に合うかと」

 下を向いている梅花に、そう言い添える。

 芽李月の言葉にやっと彼女が、処分を伝えるためだけではなく、こっそり甘味を与えるためだと合点が良き、深く頭を下げる。


 芽李月は、暖かい茶を入れると、湯飲みを几の上に置く。

「女性同士の話をしましょうか」

 芽李月の一言で、意味を理解した楼主は立ち上がり部屋を後にする。


何もかも知られている。自分の気持ちも全て―。

 そう察した梅花の眼が再び潤む。泣きつくしたと思っていも尚、とめどなく頬を濡らす。

 芽李月は、梅花の隣に腰を下ろし、手を握り幼子をあやすように頭を撫で背を擦る。

 

「いつから白桜様のことを?」

 芽李月の問いに、梅花は頭を振る。

「違います。そのようなこと……許されるはずございません」

 しゃくりあげながら、そう答える。いや、自分に言い聞かせる。

「恋い慕っているのではなくて?」

 そう問われるが、嗚咽ばかりで言葉にならない。頭を振るのが精一杯である。

違う。自分が恋慕っているのは、白桜様ではなく“若様”なのだ―。

 自分の気持ちを押し殺す。痛々しい梅花の姿。

 梅花の口から、ひゅうひゅうという喘鳴が聞こえてくる。喉が焼けるように熱く、芽李月に繋がれた手が痺れ息苦しい。


「相手が王族ではなければ、ここまで苦しむことはないのでしょう。

 自分で認められない恋心ほど、苦しいものはないと思うわ」

 独り言のように、芽李月が言う。

認めてしまえば楽になるのだろうか―。

 泣くばかりで物言わぬ梅花に、耳元で囁く。

「貴女を厳しい処分にしなかったのは、謹慎が解かれるまで自分の気持ちに、逃げずに答えを出して欲しいから。

 それに今の状態では、他の客の相手をするのは不可能でしょう」

黴雨まで約二ヶ月ー。

答えは出ている。後は、認めるきっかけさえあればー。

 泣き声を聞きながら、芽李月はそう思案する。


 どれだけの時間が経ったのか、梅花の泣き声が小さくなり、鼻を啜る音のみが残っている。


 几の上に置いてある、湯飲みに口を付ける。ほとんど冷めてしまっているが、まだほんのり温もりが残っている。


「お見苦しい所をおみせしました」

 罰が悪そうに言う。

 人前で声をあげて泣いたからか、幾らか気持ちが落ち着いた。まるで、波が引くように。

 芽李月は穏和な眼で見つめ、笑い掛ける。


 梅花は皿の上に乗っている、龍鬚糖をひとつ手に取り口に運ぶ。


 龍鬚糖とは、白い繭に見立てた砂糖の中に胡麻などの餡を入れたものである。

 餡の周りの砂糖は、綿菓子のように軽く、とても甘い。

 溶かした砂糖を熱いうちに、固まらないように素早く、髪の毛の如く細くするには熟練の技が必要になる。


 一口、口に運べば周りの砂糖が一瞬で溶け、えもいわれぬ甘さと美味しさである。

「美味しい……」梅花は、うっとりと眼を閉じる。

 甘さのあとに来る胡麻の香ばしさが、口の中で溶け合い広がる。

 このまま飲み込むのが勿体ないと思うが、意に反して直ぐに溶けてしまう。


 梅花は、あまりの美味しさに思わず笑みを見せる。

 芽李月も同じものを、手に取り口に運ぶ。二人で笑い合う。

 誰かを恋い慕う気持ちは、甘味と同じようなものかも知れない。


 芽李月は、膝に手を置き梅花を見つめる。

「これから、貴女には棘の道が待ち受けているでしょう。命を狙う輩も、一人や二人ではないはずです。これは王族と関わりを持てば、どうしようもないこと。

 ですが私は応援し尽力します。あなたが、想い人と添えるように。例え、妓楼の妓女だとしても、想い人と添えないなどあってはなりません。“民は皆平等”ですから」

 “民は皆平等”という白桜と同じ物言いに、梅花ははにかんだ笑みを向けた。

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