奇聞

 都を春嵐しゅんらんの如く、一つの奇聞が駆け巡ったのは、桜が満開を迎えていた時期と同時期である。


「聞いた? 白桜様の縁談のこと」

「ああ。もちろんさ」

「白紙なんだってねぇ……。勿体ない。お相手は、左丞のお嬢様だろう?」

「でもなんで白紙に?」

「どうやら他に、思いを寄せていらっしゃる方がお見えだとか。

 王様と王妃様にそう仰ったらしい」

 そこまで話が進むと決まって、「白桜様に見初められたなら、相当な身分の御息女だろうねぇ……」と続く。


 老いも若きも男女関係なく、都のあちこちで顔を見合わせ囁き合っている。

 当然この奇聞は、梅花が属する月花楼にも届いていた。


「縁談を白紙に……」妓楼にて、常連客の御猪口に徳利を傾かせながら梅花が尋ねる。

 三十代程の客は、酒を一気に飲み干し大きく頷いた。

「しかもお相手は、国の重鎮のお嬢様だっていうのに、王様と王妃様に白紙にして欲しいと、懇願なさったらしい。

 お陰で、王宮は大騒ぎだ。もしかしたら、朝廷にも影響が及ぶかもしれん」

 いつも、飄々としたもの言いをする客だが、その日はどこか思いつめたような物言いであった。

 王宮や朝廷の動きは、梅花にとって遠い場所での物事で、実感が湧かない。

 だが官吏である客にとって、この騒ぎはよほどのことなのだろうとは、想像できる。


「縁談を白紙にされた“王子”とは、どのようなお方でしょうか」

 ふと気になり尋ねる。

「白桜様か?」客の問いに頷く。


 貴族以外の民にとって、王族というものは幻のような存在である。梅花も、王位継承者である王子がいるとは知っていても、王子がどのような人柄かまでは知悉ちしつしている訳ではない。


 件の王子をどう言えば良いのか、考えあねぐねているのか、客は暫し間を開けて、口を開いた。

「そうだな……。一言でいえば、容姿端麗なお方だ。

 それでいて気さくで何よりお優しい。“この国の民は皆平等”が信条だと仰せで」

「“民は皆平等”……」そう呟いて黙り込む。

 その言葉を耳にしただけだというのに、心臓が跳ね上がる。その後、早鐘を打つ。

 自分でもわかる程、顔が紅潮し身体が熱を持ったように高揚する。

「どうした? 顔が赤い」下を向き、黙り込んだ梅花の顔を覗き込む。

「いえ。何でもございません」

 梅花は笑顔を作り、頭を振った。

 

 文をくれる若様と、ちまたを賑わせている王子。

 全く別人のはずだが、人柄が似ているように思え親近感を持つ。

 

 気を取り直し、再度酒を注ごうと徳利に手を伸ばす。

 しかし客は、梅花の手首を掴んだ。それ程強い力ではないのに、身動きが取れなくなる。

「あの……!」客の意図が掴めず、声を上げる。客は梅花の声が聞こえない振りをして、そのまま押し倒す。

 視界が逆転する。

 客の目が先程までの、穏和なものから欲望と嫉妬心を含んだものに変化していることに気付き、梅花は畏怖を感じ視線を逸らす。

「梅花。

 今、誰のことを思っている?

 目の前に私がいるのに何故」

 手首を掴んだまま、冷ややかな口振りで言う。


 確かに妓女が、客の相手をしている最中に、他の男性のことを思案するなど褒められたことではない。

 しかし妓楼の桜が開花してからというもの、何故か若様からの文は途絶えていた。職務が忙しいのか、王子の縁談が白紙になったからなのか、理由に見当はついていない。

 

 この頃、若様のことを思い出すと、梅花は暖かなそれでいて微かに痛みも伴う、不思議な感覚に陥っていた。


 梅花はきつく瞳を閉じる。恐怖で、身体が小さく震えている。

「私の相手をするよりも、その者のことを思っていたほうが良いか」

 客が覆い被さり耳元で囁く。梅花は否の意を込め、精一杯首を振る。


 妓楼で働く妓女として、こうして客に前触れなく押し倒されることは初めてではない。そもそも妓楼は、客の欲望によって成り立っている場。

 なのに何故、これ程まで畏怖を感じるのか、虫が這うような嫌悪感を覚えるのか……。

 客に身を任せている間、梅花は若様からの文の文面を思い出していた。


 白桜の縁談に関する話題は、当然王宮にも聞こえている。

 奇聞を囁き合うことぐらいしか、娯楽の無い女官らにとっては、この縁談の話題は格好の内容である。


 縁談を白紙にしてから、春玲の白桜への態度はより一層厳しくなり、顔を合わせる度に、白蓮との縁談を元に戻したらどうかと、苦言を呈している。

 白蓮に対して、幼馴染以外の恋い慕う感情がない白桜にとっては、春玲の苦言は厄介なことこの上ないのだが……。


 一方桜月は、正殿である金烏殿きんうでんにて行われる会議で、白紙になった理由を丞相ら官僚に問われている。

 官僚の中には、白紙になったことを良しとせず、王室の秩序と国の安泰のために、想い人が卑しい身分であった場合は、白蓮を正室とすることを王命で定めるべきいう者もいる。


 しかし、桜月はそのような官僚の声には耳を貸さず、あくまでも白桜の意思を尊重すると意志は固い。


 愛娘が縁談を白紙にされたことで、一時は左丞の座を降りるのでは……と囁かれた柊明は、桜月の計らいで左丞の地位を保っている。


 この日も、春玲はわざわざ宮まで出向き、苦言を呈していた。

「白桜。再度考え直しを。

 このまま、想い人と一緒になれば、貴方には王位継承者の地位を失うことになりましょう」

 春玲は固い表情で、脅迫じみた言葉を残し宮を後にした。


「母上も飽きぬな……。度々、白蓮を娶れと」

 薫風宮にて、頬杖を付きつつぽつりと呟く。

 春玲が、白桜と白蓮の縁談に躍起になっていることへの、軽蔑からの物言いである。


 白桜の宮まで来ずとも、自身の宮である月旭宮に呼び出せばことは足りるはずだが、恐らく呼び出しても来ぬだろうと踏んでいるらしい。


 今まで、膝を付き二人の会話の行く末を、見守っていた桃苑が、立ち上がり口を開く。

「一番、ご所望なのは王妃様でしたから。

 このまま、白桜様が想い人を正妻にお選びになるのなら、王妃様は白桜様の兄上様をお世継ぎに押すやもしれません。

 まぁ、あの方が君主など考えたくもありませんが……」

 桃苑の胸中に、白桜の兄の嘲るような笑みが浮かび、軽く吐き気を催し胸を軽く撫でる。

「同感だ。

 兄上が国王に即位をすれば、この国はどうなるか……。恐らく、聖君にはならぬだろう。

 考えるだけでも虫酸が走る」

 白桜は肩を抱き、身震いする。


「王様も、朝廷内で責をお受けになっていらっしゃいます。何故、縁談が白紙になったのか。想い人とはどこの娘か。王様を支持する、官僚もいますが、王妃様を支持する者もいるとか。

 当初、予想した王位云々までは進んではおりませんが……。朝廷の一寸先は、闇でございます故どうなるか……」

 桃苑が淡々言いつつ、几の上に置いてある口を付けていない湯飲みを片付ける。

 そして、淹れたばかりの茶が入った湯飲みをを几の上に置く。

 礼を言うと、淹れたての茶を啜る。


「桃苑は父上と母上どちらの味方だ」

 何の気なしに尋ねる。

「どちらでもございません。しいて言えば、白桜様の味方です。白桜様のお気持ちは、本気でございましょうから」

 即座に答えると、珍しく微かに笑う。


「それで女人に何時、ご自分の正体を明かすおつもりですか」

 白桜は、几の上に置いてある平積みされた、書物と書物の間に挟まっている、縦に四つ折りされた紙を手にする。紙を開き、横で待機している桃苑に手渡す。

「お読みしても?」軽く頷く。

「失礼いたします」と声を掛けると、桃苑は紙に認められている文字を追う。


 そこには、近いうちに妓楼に向かう旨、その折に伝えなければならないことがある旨が、認められていた。


「縁談も破談になった故、そろそろ己の正体を明かしても良い頃合いだと思うてな。いつまでも、“貴族の若様”では通らぬだろう?」

私としては、今までの方が気が楽なのだが仕方があるまい―。

 白桜は、悪戯を企てる幼子の如く笑う。


 白桜が正体を明かさなかったのは、縁談を受けるか否か、決心が付かなかったからだろう。

 万が一、縁談の行く末が決まる前に、梅花に正体を明かしていたとすれば、縁談を受けるにせよ白紙にするにせよ、梅花を傷つけることになっていた。

 全ては、恋い慕う女人を守るためにしたこと。

やはり白桜様はお優しい―。


 桃苑から紙を受け取った、白桜は神妙な顔をして口を開いた。

「近いうちに、この文を月花楼に届けて貰いたい。

 同時に、私が妓楼に入れ更には、梅花に会えるように手筈を整えてくれ」

 

 王子である白桜が、お忍びで妓楼を出入りするには、あらかじめ楼主らと人払いなどの手筈を整えることが必要である。


 白桜としては、梅花を王宮に招いても構わない。しかし、春玲側に付く官僚や春玲自身に露見された場合、後に面倒なことになるのは目に見えている。

 春玲がはかりごとを巡らせる可能性が、無いとは言いきれない。


「承知いたしました」

 主の意思をおもんぱかり、桃苑は深く頭を垂れる。

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