一話完結への応援コメント
自主企画にご参加いただき、ありがとうございます。
人間もこうして、他の生き物を犠牲にしたり、家族として飼ったりするのですよね。
自分の生活がどのように成り立っているのか、改めて考えさせられました。
作品を読ませていただき、ありがとうございました。
作者からの返信
こちらこそ、素敵な企画を考えていただきありがとうございます。
人間は人間として普通の言動にはあまり違和感を持ちませんが、自分たちが他の生き物と同じ扱いをされれば「おかしい」と感じる気がします。ということで、ありがちな言動がちょっと奇妙に映るよう、日常的な雰囲気で表してみました。
読んでいただいてありがとうございました。
一話完結への応援コメント
興味深く読ませていただきました。
なるほど、『ミノタウロスの皿』の影響を強く受けている感じがしますね。
しかし、お見受けしたところ、そこから発展させて思想的な議論により深く踏み込んでいるようにも思います。
釈迦に説法というものではあるのですが、僕という一読者はこのように読んだということで、僕なりの解釈を書かせていただきます。
僕が思うに、そもそも藤子・F・不二雄先生の『ミノタウロスの皿』の凄みは、単に人間とウシの立場を逆転させただけでなく、「食育」と呼ばれる人間側の理屈が、倫理観としてはきわめて出来の悪いグロテスクな代物であることを提示してみせたことにあると思います。ズン類がウスを食べる際に言う「食べ物にするからにはウスに感謝して、残さず食べてあげるべきだ」という理屈は、まさに我々の社会における「食育」です。『ミノタウロスの皿』という作品が克明に描き出しているように、これは倫理観として根本的に破綻しています。本来、倫理観をめぐる議論は、「道徳(倫理)は欲望に優先する」ということを前提として成り立っているはずのものです。たとえば、人から嫌なことをされた現代日本のサラリーマンが「こいつを殴りたい」という欲望に駆られながらも、「むやみに暴力を振るうのは(倫理的に)許されない」と理性を働かせ、「こいつを殴るのはやめよう」という判断をするとしたら、それは、欲望より道徳が優先されなければならないことをその人が知っているからです。しかし、ズン類の理屈と人類の食育においては「命を粗末にすべきではないという道徳」よりも「肉を食べる生活を続けたいという欲望」が優先され、「欲望」のために「道徳」がねじ曲げられています。しかも、タチが悪いのは、単に道徳より欲望を優先させるだけではなく、歪んだ倫理観で欲望を塗り固めて正当化することで、罪悪感から逃れようとしていることです。本当は自分たちの欲望を満たしたいだけなのに、これは他の生物の命を尊重した上での道徳的な行為なんだと屁理屈をこねて、「だから自分たちは悪くない(むしろ善人だ)」と自分やその子供たちに言い聞かせている訳です。先ほど「倫理観としてはきわめて出来の悪いグロテスクな代物」と言ったのはこのためです。この作品において主人公(=読者の分身)はズン類にまともに反論できていませんが、その理由はおそらく、ズン類を否定することが人類の食文化を否定することと同義だからであり、主人公(=読者)には絶対にそれができないとF先生が見越していたからでしょう(だからこそ主人公は最後にビフテキを食べる訳ですね)。
ただ、『ミノタウロスの皿』という作品には腑に落ちないところもあるんですよ。それは、食べる側のズン類と、食べられる側のウスがほとんど同等の知性を持っており、何の問題もなくコミュニケーションがとれていることです。はっきり言って、ウシは人類ほどには知性を持っていないというのが一般論ですから、食用のウシが内心で何を考えているかを人類が知る術は究極的に言って「無い」のですが、同等の知性を持つズン類とウスは意思疎通が可能な訳です。もちろん、これは人類である主人公がウス(特にミノアという女性)に感情移入するために必要な要素だったとは思います。ただ、これは大きな違いです。『ミノタウロスの皿』の筋書きと我々人類の現実との間には、食べられる側(ウシとウス)に人類並みの知性があるか否かをめぐって大きな相違点があることになるからです。この意味で言えば、『ミノタウロスの皿』は人類とウシの関係を反転させた物語というよりも、ある人種が別の人種を家畜化・奴隷化するというレイシズムや食人(カニバリズム)の物語、あるいは政治家が国民をナショナリズムで洗脳して戦場に送り出す(食い物にする)ことを風刺した寓話に近いという読み方ができる訳です。そうなってくると、単に主人公が口下手だっただけで、自分たちと同等の知的生命体を洗脳して食べるズン類はやっぱりおかしいという話になってきます。いや、ズン類がおかしいという話になること自体に問題はありません。しかし、読者が単に「ズン類は悪い宇宙人だ」と思うだけで、ズン類と人類の共通点に着目して自分たちの生のあり方を考え直すことがないとしたら、そこはこの作品の目的に反するような気がします。
月澄狸さんによる本作『せいじん親子』は、他の生物を管理したり飼育したりする「支配者」の「倫理観」の身勝手さを描いている点で『ミノタウロスの皿』の思想を受け継いでいると思います。作中の「親子」が善意で言っていることは人類も言いがちなことですが、作中の人類にとっては余計なお世話でしかありません。
その一方で、本作は『ミノタウロスの皿』と違い、人類より高度な知性を持つ種族の存在を持ち出しており、そこが興味深いと思います。先ほども申し上げたように『ミノタウロスの皿』を解釈する際には食べる側と食べられる側が同等の知性を持っていることが問題になると思いますが、本作『せいじん親子』ではその問題が最初からクリアされています。本作における人類はより高度な知的生命体に管理される立場ですが、それは人類がこれまで他の生物に対して行ってきたことなので、文句を言うことができません(そもそも言葉も通じないようですし)。実際、人類の知性や理性が完璧からは程遠いことは人類自身も自覚していることなので、この仕掛けは物語の作り方として巧いと思います。
また、「親子」の種族が人類を実験に使っているというくだりは、『ミノタウロスの皿』以上に「支配者」が欲望のために道徳をねじ曲げている様が克明に描かれていたように思います。「実験に使われる動物は可哀そうだけど、代わりに自分や身近な人が実験台になるのは嫌だ」という言い分は「坊や」の率直な気持ちが出ていたと思いますが、だからこそ論理の破綻が丸見えです。この理屈が通るなら旧日本軍やナチスによる人体実験も否定できなくなるのですが、人類は他の生物(知性が劣ると思われる存在)に対してそういうことをやっている訳なので、短編小説による問題提起としては充分インパクトを持っていると思います。
改善点という訳ではありませんが、気になった点を挙げるとすれば、本作『せいじん親子』では食肉というテーマが扱われていないので、『ミノタウロスの皿』に比べると読者にとって身近で迫力のある問題ではなさそうだと思いました。戦後日本社会に生きていてブタやウシの肉を一度も食べたことがない人はほとんどいないでしょうから、『ミノタウロスの皿』で扱われるテーマは読者みんなにとって他人事ではありません。それに比べると、動物実験や野生動物の捕獲をする人は限られているはずなので、読者が事前にそういう問題意識を持っていない場合、『ミノタウロスの皿』ほどの迫力は感じないかもしれない、と思いました(まあ、どちらかと言うとあっちが名作すぎるのですが)。
僕なりの論評が終わったところで、月澄狸さんのエッセイや本作を読んでいて僕が思う疑問を率直に述べることも考えましたが、おそらくそれは価値観の多様性というヤツでしょうし、僕もいまいち自分の考えをまとめきれないところがあるので、それは別の機会に譲らせていただきたいと思います。
長文失礼しました。
作者からの返信
>あじさいさん
読んでいただいてありがとうございます m(_ _*)m
なるほど、「ミノタウロスの皿」では食育などの人間の言い分をなぞっていたのですね。人間はどうも動物を食べることを正当化しがちだなと思っていたのですが、「歪んだ倫理観で欲望を塗り固めて正当化することで、罪悪感から逃れようとしている」というご指摘は分かりやすかったです。
「ミノタウロスの皿」ではズン類とウスが問題なくコミュニケーションを取っているために、現実の状況との間に差ができるというのは確かですね。私がこの作品で気になったのは、ウスに人並みの知性があるという描写より、ウスが怒ったり泣き叫んだりして抵抗しないところです。
私は時々屠殺動画を見るのですが、その際動物たちは「死にたくない、嫌だ」と叫んで意思表示をしているように見えます。これが命を奪われる際の普通の反応だと思います。ところがミノアは食べられることを光栄だと思っており、ウスはズン類を恨むどころか、ズン類の言うように本当に友好関係を築いているようにすら見えます。そしてズン類から「残虐というのは意志に反して命を奪われることだが、ミノアが死にたくないと言ったのか?」という話が出たとき主人公は言い返せません。これも現実とは随分違います。確かに、もしかしたらこの作品の中でウスはズン類に洗脳され、何か大切な感情を失っているのかもしれませんが、主人公がこの世界に来たときに「どうもこういう凶暴なウスは見たことない」と言われているので、元からこういう気質なのかもしれませんね。
両者(ウスとズン類)は喜怒哀楽の怒と哀を感じさせず、しょっちゅう怒ったりショックを受けて哀しんだりしているのは主人公だけです。もしズン類が誰かに殺されるシチュエーションがあったり、ズン類以上の支配者が現れたりすれば、ズン類はどう反応するのだろうかと気になりますが、あの星なら彼らも案外ニコニコ笑って受け入れそうで怖いです。(終始楽しそうだったり喜んでいたりするので、喜と楽はありますね。)
現実での屠殺は、「泣き叫んで抵抗する命」を奪うのであり、それが主人公の言うように「残虐」なのであり、ウスがあれほどまでに納得し喜んでいる以上、たしかにイノックス星には残虐性がなく、おそらく泣き叫んで抵抗したであろう牛(ビフテキ)を食っている主人公の星の方が残虐である、という見方もできます。
何かもっと強く、読者のリアルな感情に訴えたいなら、ウスが「助けて! 殺される! ここから出して!」と始終怯え、わめき、泣いていればいい気がしますが、そこをあえて現実と違う描写にするのは、作品を残酷になりすぎないようにする、現実への配慮でもあると思います。ウスが無抵抗であることで奇妙さを増し、泣き喚いて抵抗したり戦おうとしていないところがかえって後味の悪さを残しているようにも見えますが。
人は私も含めあまりに現実的なこと、耳の痛いこと、ストレートなことからは目を背ける弱い生き物です。人がリアルな現実問題よりマンガやドラマなどの娯楽・芸術を好むのもそのせいでしょう(と感じるのは私が小説投稿サイトにいるからかもしれませんが)。
だからミノタウロスの皿でも、「悪いのはお前たち(読者・人間だ!)」というところまで追いつめてしまうと、読者は精神をやられるのかもしれません。そのため、トドメを刺さない程度にショックを和らげつつ、自分たちの行いを省みるきっかけにもなるような仕上がりとなっている気がします。
また、人は責任転嫁したり、短絡的な考え方をしたり、悪いと思ったものを感情的に排除する生き物でもあります。昭和時代(?)、ドラマで悪役を演じている人は本当に悪い人なのだと思い込んで罵声を浴びせてくる人もいたという話をテレビで見た気がします。あらいぐまラスカルが流行ればアライグマを飼おうとしますし、現在でも、コロナが流行ればアジア人が殴られ、ピクサー映画ファインディング・ニモが公開されたときも、映画のシーンを真似して魚をトイレに流してしまう子がいたとパンフレットかどこかに書いてありました。それほどまでに影響されやすい人間に現実問題を突き付けたりしたら、人は己を省みるのではなく、「これだから畜産業界は悪い!」などと責任転嫁して畜産業界を責める可能性もあります。保健所で犬猫を殺処分する=保健所が悪い、みたいな。
動物のキャラを使って人種差別問題などの深いテーマを描いたと言われるピクサー映画「ズートピア」でも、「現実の差別問題はこうじゃない」との指摘がされているようです。が、創作物なので「現実じゃない」のはそういうものだと思います。わざと現実的な要素を外し、「これは物語ですよ」と逃げ道を与えつつ伝えるのが創作かと、個人的には思っています(創作物には「実際の団体や組織とは関係ありません」みたいな注意書きもありますし)。
現実的な問題を多くの人に真っ直ぐ、話をそらさずに伝えたいなら、わざわざ架空の物語を作らずとも普通のドキュメンタリーでやればいいし、一般人であってもブログやエッセイなど、物語じゃないもので伝えた方が、思ったことをストレートにたくさん言えます。言うだけでなく、実際にデモ活動やボランティア活動、署名運動をする人もいますね。もちろんリアルなことに踏み込めばリアルな指摘が返ってくるでしょうが。
その中でわざわざ物語を作ろうとする人は、北風と太陽で言えば太陽の人(現実においては暖効性)なのだと思います。(私の場合は現実的な影響を及ぼすことを恐れての現実逃避です。)
なのでミノタウロスの皿においても、藤子・F・不二雄先生は現実の誰かに矛先が向かわないよう、物語の中をリアルにし過ぎず、「どこかに存在する変な星」程度に留めたのではないでしょうか。
ドラえもんに出てくるジャイアンの妹ジャイ子ちゃんが本名不詳(?)で「ジャイ子」としか呼ばれないのは、同じ名前の子がいじめられないようにするための配慮だそうですし、ジャイアンやスネ夫がよく言う「のび太のくせに生意気だぞ!」というのも、現実的に誰にも当てはまらないようにし、いじめに繋がらないようにするための配慮なのだそうです。
「ドラえもん」とか「スネ夫」とか「のび太」とかもほぼ存在しそうにない架空の名前ですよね。
マンガのキャラクターは変わった名前の人が多い気がしますが、デスノートの「夜神 月」なども現実的には存在しない名前として、作者が配慮して付けたそうです。
あじさいさんが「せいじん親子」について感じたことを書いてくださったおかげで、私自身言語化することのできなかったぼんやりとした意図を再確認し、気づけなかったことにも気づかせていただきました。ミノタウロスの皿から発展させて思想的な議論により深く踏み込んでいるようにも思う、とのお言葉、嬉しいです。
食肉というテーマでないのはおっしゃる通りであり、わざと外した部分もあります。ミノタウロスの皿以外でも私は「食うものと食われるもの」というテーマが好きであり、「あらしのよるに」や「きつねのおきゃくさま」「よだかの星」「有頂天家族」、「ビースターズ」など、それらのテーマが登場する作品に惹かれています(きつねのおきゃくさまではどちらかというと食うことは悪の例えであるような気がしますが。また、よだかの星では食われる立場の意見は不在ですね)。
今までの作品で食肉については既に掘り下げられていますし、その上で自分も食うものと食われるものについて書くとなると、憧れの作品をただなぞるだけになりそうだったので、「多くの作品は右について語るから自分は左へ行こう」と判断したのです。
せいじん親子では動物実験だけでなく、「人が虫を気持ち悪いと言うように、他の生物から見れば人間も醜いかもしれない」「人がカワウなどの動物を殺処分したり、犬や猫を殺処分・去勢・避妊手術をして数をコントロールする様に、人間の数をコントロールされる世界があったら?」「何気なく駆除を繰り返すうちにいつのまにか消えていく生物がいるかもしれない」といった要素を散りばめてみました。
淡々と書いたので、ミノタウロスの皿のようなゾッとする迫力がないというのは確かですね。私たちにとっての至って平和な日常が、誰か(犠牲者)にとっては平和じゃないかもしれないという話だったりします。楽しい夏祭りもヒヨコや金魚にとっては地獄かもしれないとか。
直接動物実験をする人はそんなにおらず、断片的に死を認識することができる食肉よりさらに目に見えないところではありますが、人間の「安全性」の裏には罪なき生物の犠牲があり、私たちは無意識にその上に立っているという話です。セカオワの虹色の戦争や、RADWIMPSのおしゃかしゃまも意識しているかもしれません。
あと私は知性が低いもの=殺していいとは思えず、そもそも昆虫や野鳥を観察したり動物の動画やテレビ番組を見ている中で、「他の生き物は人間より知性が劣っているな」と感じたことがありません。自然はなんて賢いのだろうと、いつも感動しています。核兵器を作ってしまった人間の方が頭が悪いんじゃないかとか、YouTubeのコメント欄で「バーカ」「そっちこそバーカバーカ」みたいなやり取りを見かけると「知性が低いかも……」と思ってしまったりはします。
知性が低い、人と同等、という基準に明確な計りがあるのか私は存じないのですが、いじめも歴史上の大量虐殺も、近年の一部の事件も、何らかの基準で「相手の方が劣っている」と認識してのものなのではないでしょうか。
また、地球上の人工物の数がやがて自然物の数を越すだろうという話を新聞で読みましたが、地面をアスファルトや建物で覆い、核兵器等人工物を大量生産する「知性」は地球にとって素晴らしいものでしょうか。人間が知性と呼ばれるものを持たず、動物として暮らしていた方が、生物の多様性と、それを育む環境は守られたのではないかと思います。
そして人間は自分と同じ生態(服を着、言葉を話し、道具を使うなど)のものにしか知性を感じられないために、他の生物の知性に気づかないのではないでしょうか。
とはいえ(?)弱肉強食という地球のシステムそのものに私は疑問があります。必ず犠牲を生む(奪われるために生まれてくる命がある)ようなつくりになっているにも関わらず、人はそのことについて議論します。現状に納得するわけでもなく、完全に問題が解消されるはずもない、これがそもそも不思議です。
「あらしのよるに」のストーリーでは食うもの(オオカミ)と食われるもの(ヤギ)が友情を結びますが、ヤギが他のヤギに「この草を見てみろ。俺たちにとってうまそうなエサだろ。このエサと友達になれるか?」というような問いかけをされるシーンがあります。このとき草は「感情のないもの」「背景の一つ」として描かれ、ヤギは草しか食べない平和主義者として描かれているようにも見えます。草を食べることは作中では特に残虐な行為として描かれておらず、草視点の意見はありません。しかし草から見れば草食動物も凶暴であり、草を食べることは残虐と言えるでしょう。
私もベジタリアンになりたかったのですが(なれなかった)、そもそも「人を殺してはいけない」「愛玩動物を殺してはいけない」「イルカやクジラは人並みの知性があるから食べるべきではない」「他の哺乳類も食べるのはやめよう」「牛が可哀想だから虫や植物を食べた方がいい」などの基準はどこかで必ず設けなければならないと思います。基準があるから人は虫を殺しても罰せられないし、人を殺すと罰せられます。肉食動物も自分の子どもは殺さずに育てることができますし、同族とはコミュニケーションを取ったりするようです。
この、どこかで線を引かざるを得ないシステムこそ差別の根源ではないのかと(現時点で)私は思ってしまうのです。
ただこの結論は非常に後ろ向きであり不完全であり、何も前向きなメッセージや目標を伝えられない上に、人に悪影響を及ぼしかねません。なので現在私は「創作」や「表現」をすることに留め、「あくまで思考遊びである」と位置付け、しっくりくるものを追求したいと思っています。
あまり上手な答えになっていない上に、論点がズレていて申し訳ありません。
私の作品を読む中であじさいさんが疑問に思われたこともあるのですね。鋭い視点をお持ちのあじさいさんなので、色々なことを見抜いておられるのではないかとドキドキしております。
作品をお読みいただき、また丁寧なコメントをいただけたことに感謝しています。いつもありがとうございます。