第32話
「東雲ェ、朝飯に寝坊かい?」
もうみんな食い終わっちまったよ、遊女は襖を雑に開けた。一瞬時が止まったように、もぬけの殻になった布団を見つめた。
「東雲がいない!」
そう叫ぶと、他の遊女がバタバタと集まる。東雲の部屋の前には、人だかりができた。
「また足抜けかい?!」
「東雲も懲りないね」
「違う、どこにもいないんだよ!」
東雲の部屋の中でざわついていると、廊下の奥からまた、大きな声が上がった。
「夕霧もいないよ!」
もう、昼見世の準備なんて様子ではなかった。遊女は騒ぎ、下男は走り回っている。
そんな中楼主が、遊女を蹴散らすように廊下をふみ鳴らしながら夕霧の部屋に駆けつけた。もぬけの殻になった夕霧の部屋を見つめる。
つるりとした頭は、みるみるうちに、まるで根でも張ったように血管が浮き出真っ赤になっていた。その様子をみて、遊女たちは触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに遠のいていく。ついに見た目も鬼になってしまったかと、遊女たちは囁いた。
「……門番に早く伝えろ!!女が二人逃げた!!」
その声を聞くと、草履も履かないで下男は飛び出ていく。門番も何処に目ついてやがると、楼主は部屋に乱雑に脱がされた華美な着物を、思いっきり蹴った。バサリと着物が宙を舞う。高価な着物がひらひらと舞う様は綺麗であったが、当たり前にそのような感情は湧くはずもなかった。日差しに反射しキラリと光る簪は、夕霧が意地の悪そうにニヤリと微笑んでいるように見えた。
「あの野郎……!!」
鼈甲の簪をギリ、と踏む。ドタドタと廊下を走って下男が足に土をつけながら急いで帰ってくる。鬼のように赤くなった楼主に驚きながらも、切れる息を縫って伝えた。
「も……門番にはいま伝えやした……人も出しました……遊女二人のそれらしき人は見なかったと……」
「クソ!使えねえ門番だ」
目の前にいる下男を突き飛ばし、自ら外に出て門番へ向かう。突き飛ばされた下男は思い切り障子にぶつかり、突き破っていた。
土の上でもドスドスとなりそうな貫禄は、自然と人は避けていった。焦っている門番の胸ぐらを掴み、鬼のように顔を赤くし震わせながら叫んだ。
「てめぇ、どこに目ついてやがる!」
「い、いや、女二人なんて、見かけませんでしたし……」
「うるせえ!じゃあうちの部屋から神隠しにでもあったってのか!アア?!」
足が地から離れそうな、鬼食われそうな感覚に、門番は必死で思い出を遡る。目ん玉はあっちこっち、記憶を探すように泳いだ。
「よ、夜は……この門からはぜってぇ、でてません!見回りしたときゃあ……酔っ払いと、客と……あと、夜鷹とそれ買ってる男が……」
あと……と続けようとすると、いきなり胸ぐらを離された。高い位置からドサリと落とされ尻餅をつく。イッテェ!と鳴くと、楼主はまた、グイと胸ぐらを掴んだ。
「ヒィ!」
「夜鷹と、客たぁ?」
「へ、へえ……逃げたのは遊女二人でしょう……?暗ぇ着物を着た下品な女と、ほっかむりした、なんだか汚ねえ男でしたけど……」
「汚ねえ、男……」
「夜鷹とギャイギャイと下品に…あ、ありゃあ男の格好した女なんかじゃねえ、きちっと男だった!」
楼主はそう聞くと、物を捨てるようにまた門番を投げた。
汚ねえ色白の男と、女だ!遊女は足が白ェ、それを見ろ、探せ!と店のものに叫ぶ。異様な光景に、昼間の遊郭にいる花屋などは釘付けであった。
「あの野郎、一丁前に考えやがって」
門の外をギロリと睨んだ。
ーーー
揺れる船で、東雲は立って漕いでいる夕霧を見つめた。
「今頃、みんな気づいているころだろうね」
「そうかぁ」
「昼見世までにはバレるだろうよ」
東雲は頬杖をつき、ため息をついた。上を見つめると、目の前に広がる一面の空が嬉しかった。
「でもまあ……髪を切ってくるなんて思わなかったよ」
夕霧の頭は、剃刀で雑に切ったようにまばらになっていた。手ぬぐいでほっかむりしてるとはいえ、髷を結っていない髪はちらりと見えるだけでおかしかった。
「朝から漕いでいるから随分遊郭から離れたけど、念のためもう少し離れたら床屋で髷結ってもらおう。」
「でも、相当怪しまれるだろう」
そういうと、袖から巾着を東雲に渡した。ジャリ、と金属が擦る音と、小さい巾着の割にずしりと重かった。東雲は不思議そうに紐をとくと、一両二両……と、小判が重なっていた。
「うわ! なんだいこれ、夕霧の?」
「袖に入っていた」
「入っていた、って……」
一枚渡せば、怪しむだろうが内密にやってくれるだろうとぶっきらぼうに呟く。その大金は、喜八の粋な計らいだと言わずともわかった。それだけ言うと、ただ行く先を見てギイギイと漕いでいる。
昼の日差しに照らされた夕霧は逆光で、東雲からはどんな表情をしているのかわからなかった。
「……それにしても、東雲の夜鷹のふり、うまかったじゃないか」
「褒めてんのかい、そりゃ」
ははは、とからりと笑う。漕ぐために捲っている袖から伸びる腕も、濃紺の着物から伸びる首の喉仏も、もうそこには、‘‘夕霧’’としての‘‘女’’の姿は無かった。
「……髷を結ったら、寄りたいとこがあんだ。」
そう言うと、また一生懸命にぎいぎいと漕いだ。
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