第11話

 

 喜八は、もう帰るが夕霧の残りの時間分の金を払うので今日は客は通すな、と巾着に手を突っ込み、下男に三分ほど渡した。当然、下男は半刻もいないのに約一晩分の金をもらい戸惑ったが、ありがとうございやしたと言い喜八を見送る。金さえもらえれば、断る理由などない。


 華やかな暖簾をくぐり、門を出る。歩みを進め喧騒から離れる。もう寝静まっている街に歩いてきても、あの腫れた手と苦笑いがまだ頭から離れなかった。


 あの仕打ちは客だろうか、店のものだろうか。


 どちらにせよ、夕霧のあの顔を見て喜八はいい気持ちがしなかったのは確かである。


 朝霧もあのような顔をしたことがあったが、今のように金を渡し守ってやることもできなかった不甲斐なさも同時に蘇ってきた。そして朝霧は、今日の夕霧と同じように笑うのだ。全く大丈夫ではないのに、大丈夫、と微笑む。今のように財力や余裕があれば、あのとき朝霧を守ってやれただろうに。嫌な思いをさせずに済んだだろうに。


 そんなしょうがない後悔ばかり思い返していると、もう目の前は屋敷だった。大きな扉を開けると、案の定、妻の椿が立っていた。


 喜八が起きていたんだね、と言う前に椿が遮る。


「今日は、勘吉さんのお供はなかったみたいで」


 いかがでした?と聞いてくる椿は、まるで雪女のように冷たく感じた。しかし、この冷たさは浮気や嫉妬からくるものではなかった。もともと政略結婚であり、18年前に後継である長男も授かってる。愛もなく、後継の心配もなかった。


 そして今、喜八の遊郭通いとなれば妻として心配するのは世間体と、妾として女郎を身請けするのではないかということである。


 この大きな店に若い女がやってきて、愛しているのは妾だ、妾の子が跡取りだ、なんてことになるかもしれない。正妻としてそれはなんとしても避けたかった。その悩みが出てくるのも、喜八にはその財力が充分にあるからである。


「……女を買いに行ってるわけじゃないよ」

「遊郭に通って、ですか?」


 昔馴染みだった女郎にそっくりな男がいて、なんて説明出来るわけもなく、喉をうならせ喜八は、そこは安心してくれ、とだけしか言えなかった。


 椿は、不服そうな顔をして、そうですか、と歩いて寝室へ向かってしまった。喜八は、参ったなと頭を掻きながら、寝支度をし布団に入る。よく干された布団が、色々考えて頭がいっぱいになっていた喜八を簡単に夢の世界へ誘っていった。





「わあ、これ、とっても綺麗」


 白と桃色……旦那さまは白?と細い手が金平糖を摘み、喜八の手に乗せる。金平糖が乗せられた喜八の手は、明らかにシワが少なかった。目の前には、にっこりと微笑む朝霧がいる。きめ細やかな肌に、柔そうな頬は間違いなく朝霧だった。


「旦那さま?」

「ああ……」


 喜八は、ああ、これは夢か。と悟った。


 そして喜八はこの場面を覚えていた。初めて喜八が朝霧に金平糖を渡した時である。なけなしの金で金平糖を買った。甘い物が好きと言っていたから、という単純で、馬鹿な理由だ。


 この後、朝霧は金平糖を口に放る。その笑顔に、完璧に、恋に落とされてしまった日であったことを喜八は思い出した。恋に落ちた、なんてものじゃなく、まるで突き落とされたような衝撃だったと喜八は記憶していた。


 目の前の朝霧が、桃色の金平糖をつまみ口に運ぶ。


 白い指につままれた桃色の金平糖が、赤い紅の引いた口へ近づく。それはまるで、白い紙に血をポトリと落とし滲んだときような、白色 桃色 赤色の綺麗な濃淡であるように見えた。


 その綺麗さに身震いしつつも喜八は、この後だ、好きになってしまったのは、と身構える。朝霧は金平糖を口に放り込み、まあるく目を見開き柔らかそうな頬を、細い両手で抑えた。


「すごく美味しい、旦那様!」


 ぎゅう、と心臓を締め付けられるような感覚になる。喜八は、この愛らしさに打たれたのであった。もう一度この笑顔を観れると思ってなかった喜八は、目頭がじんわりと熱くなる。


今なら、身請けでも出来よう。この笑顔を守ることが出来る。もう二度と、あの苦笑いを見なくて済む。他の男に抱かれずに済む。喜八は、夢だということを忘れ、本気でそんなことを思った。


「どうしました?旦那さま」

「朝霧……」


 手を伸ばし、その朝霧のやわらかな頬に触れようとした時、朝日が目に飛び込んできた。


 チカチカと光る目を細くする。朝霧の顔に触れようとした腕は宙をかいていた。その手は、いつも通り年齢を重ねてきたシワのある手だった。やはり夢だったかと、やり場のない手を顔にやると、目に涙が溜まっていることに気が付く。


「……ひどい夢だ」


 ハアと深いため息をつく。


 その日の朝飯で、ろくに妻と目を合わせられなかったのは言うまでもない。

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