スケッチ k1
誰が言っていたことだか、ひどいデプレッションの状態にあることはその状態のさなかにいると気付くことができず、デプレッションの状態から浮上しきったところで後ろをふりかえったとき、初めて「ああ、あのときはずいぶん低いところにいたんだなあ」と気付くことになる。ほんとうの意味で大きすぎる災厄は、降りかかるまさにそのときにはそれが災厄であると気付かれることはなく、災厄がすでにはるか彼方へ過ぎ去っていった後の未来に、回顧された過去の道行きのただなかに、黒い染みのようにようやく見出されるのではないのか。
砂が窓に積る。日の出過ぎの、水平線のきわの緑色にみえる空から、濁った石灰のような粒の細かい砂が降る。窓のすぐそばにある寝床から僕は朝焼けを見る。朝焼けはいつも夕焼けのように赤いが、朝焼けが夕焼けのようであっていけない道理はない。窓には昨日から砂が積って白んでいる。三日に一度水をまいて砂を洗い落とさないと、砂は窓ガラスを埋めつくして部屋を暗くしてしまう。今日はまだその必要はない日のはずだった。時計は六時半を指している。僕は寝床を出て食事を摂り家を出る。
鉄のように焼けた空から砂が降る。ときおり洗浄液を噴いてワイパーで拭わないと、小さな自動車のフロントガラスはすぐに視界不良を起こしてしまう。車は黄色い体に砂を降り積もらせて道路を走り、合金の檻に守られた僕はタマゴ型の呼吸器の中で息を吐く。次の信号機の横並びの上には三角屋根が架けられていて、そこに積った砂はときおり作業員が道路に落としている。三角屋根から効率よく砂を落とすための、幅三尺ほどの丁字型の器具があって、作業員はこれで信号機を清めている。砂のいくらかは風に舞ってどこかへ飛んでいき、いくらかは路面に落ちる。だから信号機の真下には砂が溜まっていることがよくある。
ラジオ放送の天気予報はここ一週間の快晴と週末にかけての降砂量の増大を伝えている。タイヤが使い物にならないほどの降砂でなければいいと僕は思う。
砂の匂いを人間は感じとることがない。犬は敏感な嗅覚で空気中に充満する砂の匂いを明確に感じとり、その害毒のためにみな臥せってしまった。ここだけではなく、砂の降る土地ではどこでも、犬は外を走り回ることが出来なくなっているという。必要最低限の運動さえも難しくなった多くの犬たちが、人の住む屋内で萎びたモヤシのように縮こまっている映像がテレビ番組で紹介される。
「ニメイ放送ではああ言ってますけど、ワンちゃんの元気がないのは本当は最新技術のせいなんですよ。病院でのワンちゃんの治療法がここ五年でずいぶん様変わりしたんです。治療法の、知られていない副作用のせいで、ワンちゃんたちはみんな元気でなくなってしまったんですよ」
たとえば柴田さんはそう言って、犬の不調の原因を日々降り積る砂であるとは思っていない。この「知られていない副作用」説は僕のまわりでかなりの支持を受けている。少なくとも柴田さんも、ほかにこの説を支持している人たちも、僕よりもずっと歳上で、ずっと前から犬を飼い続けてきたことは確かだ。柴田さんの家のブルドッグは砂が降り始めてから急激に体調を崩しすぐに亡くなってしまった。その友人が飼っていた、番犬としてよく訓練されていたというシェパードは引きこもって、いちど空き巣が入ったときにさえ吠えもせず、家の中で窓からもっとも遠い部屋で、崩れた泥人形のように座り込んでいたという。ひきつけを起こす犬、片脚を引きずるようになった犬。必ずしも呼吸器を病むばかりではない。愛犬家であればあるほど砂の害毒を疑うのはそういうわけもあった。では同時多発的に健康被害が出るのはどうしてかと問われて、専門家の方法論が問題なのだと主張する。
(ここまで書いて、次の段落に次のように繋げたものか迷う。)
地域密着型の小規模雑誌によって独自色を打ち出すという戦略は、各所で少なからず成功例を生み出した。世界各地で交通網が麻痺した一時期に、見通すことのできない遠くの情報ではなく、それぞれのごく近くにあるものを見ようという機運が高まった。大手の広告会社が複数のマスメディアを利用して大々的に打ち出す商品ではなく、町の片隅にあって誰も見ていなかったようなものについて人は知りたがったし、そうした微視的なものに着目した物理媒体という二重の局所性は、交通網の回復の後になって、ひとびとの「遠いもの」を求める気持ちに合致した。大手広告会社の商品は「近いもの」だった。
(中略)
太陽は赤でもない、黄でもない、白だ。天頂に懸かっているときも、朝夕に空を焼いているときも。光の中心の太陽が白でないはずがない。
僕は夕焼けの方へ振り返った。
眉山のなだらかにたわんだ頂上の脇から、くろぐろとした大きな顔が覗いている。
一体どれほどの数の人間があの顔に食われたのかもう誰にもわからない。
短歌そのほか 金村亜久里 @nippontannhauser
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