第8話 いよいよ、説得 1
1969年8月21日(木) よつ葉園(岡山市津島町)園長室
森川園長は朝礼の後、大槻和男児童指導員を呼出した。
この日も、今西幸香児童指導員は、休暇のため出勤していない。森川園長は大槻青年に対して、自動車屋を興して成功させるリスクと、よつ葉園に勤めて最終的には施設長などの管理職について経営者となるリスクとを並べ、説得しようと考えていた。
「まあ、そちらのソファにかけ給え」
明治生れの老園長は、大東亜戦争終戦の年に生れた若干24歳の若者に語り掛けた。
「大槻君もご存じのとおり、昨日わしは、大宮の哲郎君と会って一杯飲んできた。まあしかし、ただ飯ただ酒というわけにもいかんので、彼に一つ、相談をしてきた」
「私のことですよね」
老紳士の発した言葉に、今どきの若者は、表情に少しばかり不安の色をみせた。
「おまえさん以外の誰のことでもない。まずは、あんたが子ども相手の仕事、もっとはっきり言えば、このよつ葉園という養護施設での仕事に、向いているかどうか」
早速女がらみの話でも始まるのかと思ったが、意外にも仕事の適性の話になった。
「去年の職員会議で、クリスマス会の議題を論じたときの私の発言を御賢察いただければ、向いていないことは、火を見るよりも明らかではないですか」
いささか食って掛かるような言い方をする若者の言を、老紳士はじっくりと見極めた。
「山上先生は、確かにそう感じておる。あの娘の言う、いや、あの先生のおっしゃるお言葉、一理どころか、確かにもっともな御指摘であると思われる。しかし、じゃ」
「しかし? (先にしかしだかカカシだかあるのかよ、ジイサン・・・)」
若者は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきで、老紳士の丸眼鏡の奥をのぞき込む。
「大槻君は、このよつ葉園で子どもたちと毎日一緒に遊んでおる。これ、遊びか?」
「と、申しますと(え? 何が言いたい? このジイサマ)・・・?」
「日々遊び倒して給料と称するゼニをうちからもろとるのかと、聞いておるのじゃ!」
いささかきつめな表現で自らの発言を締めた老園長に、大槻青年は神妙に答えた。
「いえ、仕事の対価として、給料をいただいております(当たり前じゃい、ボケ!)」
老園長は、少しばかり自らの声の手綱を締めた。
「それでは、子どもたちと遊んだり、他愛ない話をしたりしておることは、君にとっては、基本的にすべて仕事であるという認識をお持ちということで、よろしいかな?」
「はい。まったくもってその通りです(そらぁ、そうでしょうがぁ)」
森川園長は大槻指導員に対して、昨日の大宮氏との話の顛末を告げた。
「ところで大槻君、あんたは、子ども相手の養護施設での仕事と、大人相手のクルマがらみの仕事と、どっちが好きか(聞くだけ野暮ではあるがなぁ)?」
「どちらかと言えば、クルマの方です(普通にクルマやけどなぁ・・・)」
「それは、なぜかな(さて、どう出てくるやら)?」
「クルマは、男のロマンですから(我ながら、格好つけ過ぎたかな?)!」
「クルマは男のロマン、か。哲郎や西沢君の前でもかねて言っておったそうじゃが、悪くはないねぇ(しっかしこの若造、変なところで格好つけしよってからに・・・)」
いったん感心して見せた老園長は、少し視点をずらして、話を進めることにした。
「さて、だ。クルマを男のロマンだとまで言い切る君は、子ども相手の仕事など、そのへんの女あたりのやる仕事とでも思っとるのか(そんな認識でもあるのだろうか?)?」
「いえ、そうは申しません(なんか、意図でもあるのか?)」
「それは、よろしい。大槻君、子どもを育てるということは、それぞれの家の大人の責務というだけではない。社会全体で大人たち一人一人がみんなで、子どもたちを育てていく。それがヒトたる生物の一番大事な生業(なりわい)。君はすでに、その生業を一つの事業として、このよつ葉園で取組んでおる。確かに、山上先生のような女性から見れば、君は養護施設の仕事に向かぬように見えるかもしれん。だが、大宮君や彼の同級生の西沢茂君によれば、大槻和男という人物は、この仕事に向いていないとは思っておらん。大宮君に至っては、逆説的な言い方ではあるが、君には、養護施設の職員に適性があると言っておるぞ。クルマを直したり売ったりする仕事が悪いとは言わんが、人を創るという仕事も世の中にはあるわけじゃ。例えば、去年からお越しいただいている東航先生のような学校の先生が、それじゃ。あんたの今ここでやっておる仕事も、まさにそう。幸か不幸か、モノ以上に、人を創ることは容易ではない。相手はこちらと同じく、人間じゃからな。しかし、どうせ何かを作るなら、人を創る仕事の方が、わしから見れば、尊い仕事であると思われるが、どうじゃろうか(この程度では、ま、効かんだろうな)?」
「その仕事が尊いか卑しいか、そんなことは問題ではありません(実に、くだらん論議だ)。私はクルマを通してアメリカ文化を体感し、その素晴らしさを人に伝えたい。クルマだけではありません。例えば食事にしても、文化です。私は、日本文化を否定する気は毛頭ない。私は祖国日本が大好きです。ですが、アメリカという国の多様性を尊重する文化をさらに日本に広めることで、しみったれて閉鎖的な日本文化の悪弊を徹底的に払しょくしたい。アメリカ文化という黒船が、今こそこの国には必要であるのです!」
森川園長は、方向性や表現はともかくとしても、こいつは存外しっかり考えてものを言っておるなという手ごたえを感じはじめた。説得は、いささか難航を極めそうだ。少なくとも、この若者の「熱量」は信じるに余りあるものがある。では、彼の熱量からほとばしる言葉と論理の一つ一つは、単なる上面だけのものか、そうではないのか。
「それじゃあ、大槻君の思うアメリカ文化に基づいた生活とやらを、明治生まれの墓場に半分以上足を突っ込んだジジイにもわかるように、話してみてはくれまいか?」
表面的には穏やかだが、かなり厳しくチェックされているなと、若者は直感した。
数か月前、作家・三島由紀夫は東大全共闘の若者たちのいる教室に単身乗込み、真剣に彼らと言葉でやりあったという。実際は三島由紀夫こと平岡公威氏の主催する盾の会のメンバーも聴衆に紛れ込んでいたが、それはこの際問題ではない。ただ、彼らもその一部始終の立会人となったという事実は厳然とあることは、ここに述べておきたい。
大作家三島と全共闘青年たち。彼らは東大の某教室で言葉を媒介として闘った。
自分の闘う場所は、ここなのだ!
今ここで闘う相手は、恩人でもある、この森川一郎というじいさんだ!
老園長の言葉に一瞬ひるんだ大槻青年は、少しばかり間をおき、静かに話し始めた。
そうですね、例えば、大草原の一軒家みたいな、アメリカの西部劇で出てくるような家を建てて、そこに家族そろって住みたいですナ。それが無理なら、ニューヨークのアパートみたいな場所でも構いません。いずれにせよ、私の実家のような、片田舎の土民がべたべた付合うようなムラ社会など、死んでもお断りです。お節介ババアに見合いを勧められて、しまいにはどこかのヘッポコ村のチンケな家へ婿養子とか、固くお断り。米糠3合あれば養子に行くなと言いますが、私は、0合でもゼロ回答、死んでも行きません。
さて、アメリカというのは、「馬車」の文化です。必要なものがあれば、馬を駆り立てて街に出て買い物をして、それをうちに持って帰って消費する。それに対して日本は「籠」の文化です。籠に乗る者と担ぐ者がはっきりと分かれている。そこが、アメリカとの大きな違いであると、私は考えております。
私は、人の籠など担ぐ気もなければ、自分が乗る立場になってやろうとも思っておりません。テメエのことはテメエで。それが、アメリカ文化の基本です。
さて、今ここにいる、そして将来この地に来る子らは各自、このよつ葉園を離れたら社会人として独り立ちしていかねばならん。その場限りのお楽しみ会のようなことばかりしておって、何の社会性が身につきますか。ここまではさすがに私も他の職員の皆さんの前で言ったことはないですが、これが私の偽らざる本音です。
こんな私が子ども相手の仕事に向いているはずもないと思われますけど。ええ、こんな奴はさっさとクルマ屋でも盛り場でも行ってしまえと言われたほうが、余程すっきりしますな。ガキを群れさせて飯食わせ、風呂入れて寝かせて起こして学校行かせて、帰ってきたら宿題させて遊ばせて。それで済む時代は早晩終りを告げます。すでに、その兆候は出ています。
食事についても、今どき、フォークとナイフをしっかり使って食事できるぐらいでないといけませんね。朝飯にしても、うらぶれた感の薄暗い場所で群れあわされて、恩着せがましげな能書を散々垂れさせられて、とどのつまりはコゲだらけのしみったれた感あふれる和食もどきをありがたがって一杯食わされるより、パンとコーヒーまたは紅茶、子どもなら牛乳、いや、ミルクで朝食のほうが、よほど文化的で品もよろしい。何も英国風ブレックファストを毎日とは申しませんが、アメリカン、もしくは、パンと飲み物だけの簡単なコンチネンタル風ブレックファストでもよい。そのほうが、はるかにマシですな。和食もあってよろしいが、中華や洋食をもっと食べることで国際感覚も磨かれようというものです。仮にも食事というものは、文化を学ぶ所業なのですぞ。犬や猫じゃあるまいし、何かエサを食わせといたらそれでええというものでは、断じてありません。これまではそれで済んでおったかもしれんが、そんな時代は、もう終わりを告げておる!
えー、さて、人間にとって一番大事なものは、自由であります。
ただ、自由というものはなかなか活用できんものでして、そこを何とか枠とか制約をつけて楽になろうとする。それを一概に否定はしませんが、この養護施設業界は、一体何ですか? 社会主義だか共産主義だかの出来損ないみたようなことを、というと、ソ連や中国に失礼であるが、そんな世界の片棒をひたすら担いで毎年同じことを繰返し、適当な頃合いになれば、やれ「手に職を」のヘチマのわかった口を抜かして子どもを社会に放り出すような所業なんぞ、男一生の仕事ではない。少なくとも、私の仕事ではありません。
確かに、西沢さんや大宮さんのおっしゃる通り、この養護施設に勤め続けることで、ゆくゆく私は、養護施設の経営者として身を立てられるかもしれません。しかも、借金もせず給料も賞与も確実に頂いて、衣食住揃った状態にありながら、リスクなしで経営者になれる。その勢いで街の名士ですか。園長のお年にもなれば、勲章もいただけますかな。
随分とおいしい話のようですが、そんなうまい話には、罠があるに決まっているでしょう。その一番厄介な罠というのが、「不自由」というものです。子どもらがどうこうより、私自身の自由を捨ててまで、この地にしがみつきたいとは思っておりません。
男・大槻和男、時機を見て、広い世界に羽ばたいて参りたく存じます。
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