「アンはどうして忘れもの屋に行ったの?」

本日二回目の非常階段を上りながらコウが尋ねる。いつもの足音に、もう一つ踵の高い靴音が混じる。男はふっと笑った。


「誰かの忘れものを受け取りに行ったんだよ」

「何もらったの」

「萎れたマスカット」

男の後ろ姿を見上げた。男の顔を確認しようとしたのがバレて、振り向いてニヤリと笑われる。


「マスカットでできた右目さ」

前髪をかきあげれば、両目が見えた。暗い中で、階段の蛍光灯に左目の黒色と、黄緑がかった右目が見えた。

思わずショコラにマスカットが乗っていなかったか、記憶を巡らす。男はスイと前を向いた。


「君たちは何を受け取りにきたの?」

「お金で買えない宝物」

「それはいいねぇ」

へぇ、とこれまでで一番いい返事だった。

「見つかった?」

「まだ」

「どんなものだろうね」

楽しそうに男は言った。六階フロアも平気に靴を鳴らして歩き、堂々と隙間に入る。駆けていくコウに、周囲を気にしながら俺も進む。


「玉兎、お客さん連れてきた」

「元お客さんねー」

アンの付け足しに、玉兎が顔をあげた。やはり無表情だ。男のことを忘れているのだろうか。


「何か探し物か」

「まぁ何かあったら貰ってくよ」

玉兎は特に何も言わず、プラスドライバーを回した。コウは玉兎に張り付き、作業の観察に戻る。アンが机の上に皿を置いた。長旅で疲れたフルーツたちは、クリームの上を滑ってぐったりと休んでいた。


「ラムネの瓶だ」

アンが、ひょいと割れた瓶の口を持ち上げる。心ばかりの照明の中で、汚れた水色が零れた。


「おにいさんは、何を探してるの?」

アンの目が細まる。俺は肩を竦めてみせた。

「お金で買えない宝物ですよ」

「見つかるといいねぇ」

三日月型に微笑んだ後、アンはクリームとケーキを掬った。止める間もなく口に運ばれていく。コウは作業の観察に夢中で気づいていない。男はゆっくり味わったあと、「おいしいなぁ」とうっとりと呟いて、もう一口ケーキを食べた。


気づけばアンも常連になっていた。時折玉兎と忘れものの話をしている。俺にはタイヤのねじ曲がったラジコンカーにしか見えなかった。

「今自分に必要なものをイメージしてみて」

玉兎が無口なぶん、アンが解説をする。具体的な事ではないが、宝探しに必要なことだった。


「慣れれば他のものの本質もわかるようになるよ。でも今は自分の欲しいものに集中するといいね」

「アンはどうやって見つけたの?」

「ひたすら物色しただけだよ」

事も無げに、黒ずくめは言った。小さな箪笥が彼の肘掛けになっている。


「血眼で誰かの忘れものを探し続けただけ」

「わかるの?」

「わかるよ。自分がどうしても欲しいものは、目が離せないからね」

「それが右目だったの?」

「萎れたマスカット」


ハハ、と男は笑って言った。コウは腑に落ちたようだが、俺は焦った。俺は『お金で買えない宝物』を探してはいるけれど、自分は何が欲しいのかわからないのだ。そこまで強く、絶対に、宝物を見つけてやるという、気力も自信もない。そんなことをコウにはもちろん、アンや玉兎にさえ言えなかった。俺は宙ぶらりんになった気分だった。


俺はなんのために、忘れものを探しているのだろう。

そうだ、コウが言っていた。考えたらダメなのかもしれない。単に楽しめばいい。小学生のお守りで宝探しをしながら、ひと夏の休暇を潰すだけだ。けれどそんな心意気で、俺がココにいていいのか。

そして不安はとうとう形になって現れた。


八月の下旬、忘れもの屋の入口が見えなくなったのだ。

「タツヤ?」

コウが白いところに手をかけている。何も無い壁に手を突っ込んで、だまし絵にしか見えない。

「どうかしたの」

「いや、なんか、入口が見えない」

「えっ」


近づいてコウの触れている部分、いつもの隙間辺りを触るけれど、ただの壁にしか思えない。目の前が暗くなった。

アンが、俺の顔を覗き込んでコウを見る。


「弟くんは先入ってて」

「でも」

「玉兎が待ってるよ」

アンはじっと俺を見下ろしていた。コウは悩んだ後、するりと色の中へ溶けていった。俺は立ちくらみがしてその場に座り込む。男の黒い革靴が目に入った。アンがしゃがむ。


「本当に、ないんだねぇ」

感心しているふうにも聞こえた。今はこの男の気配しかわからない。カッとなって顔を上げ、口を開いた。

「何が?俺には、金で買えない宝物がないって?」

「いや、わざわざ見つけなくても、今の状況で満たされてるって解釈かな」

「アンタらは、自分には何が必要か知ってるって事だろ?」

男は口角を上げたまま瞬きした。膝の上で頬杖をついている。間があって、男は言う。


「必要と言っても、やむを得ず必要になる場合が多いからね。個人差は出るよ」

「……わからないな。アンさんは、やむを得ず右目が欲しかったってこと?」

言って、罪悪感が生まれた。踏み込んでもいいのか、分からなくなったのだ。うーんと男は唸って宙を見る。髪の隙間から黄緑色が見えた。

「俺は“居場所”を探してたんだよ。それが右目になっただけ」

「……なに?」


「そのままだよ。誰かが忘れていった“居場所”を、俺が受け取ったの。だから居場所が欲しいと思えば、どんな隙間にも入り込める。下の店もそうだよ」

俺は唖然と、アンを見つめた。彼は続ける。


「居場所なんて、本来自分で作るものでしょ?そういうのを、ちょっとばかしズルして、手に入れられる場所が忘れもの屋なの。『お金で買えない宝物』が手に入るところ」

ニコニコと、男は言うが目は笑っていない。

「……ズル、なんだ」

「そうだよ。自分ではどうしても手にすることが出来なかったものを、何が何でも欲しくて、最後の希望を託してここに来るんだよね。辿り着く、の方が正しいかな。だからいらない人にはいらない場所で、欲しいと望むものには大切なものが眠るところ」


「……コウは何をそんなに欲しがって」

「才能じゃない?」

単語を飲み込むのに時間がかかった。男は、人差し指で天を差す。

「彼、職人ってやつにこだわってるみたいだし、“才能”を探してると思うけど」

「……時計屋になりたいって」

「あー、そうなの。彼は嗅覚がいいね。初めからここを見つけて、俺のところにも来た」


呆然とした。あの無鉄砲で気ままに生きている小学生に、それほど強い思念があったとは気づかなかったのだ。十日ほど前に聞いた言葉が、ずんと重くなった。

「じゃあ俺は、なんでこれまでここに来れてたんだろう」

「不思議だよねぇ」

男も、頷いている。俺は俯いた。何が何でも手に入れたいという渦巻く熱い感情は俺にはない。それはいい事なのか、悪いことなのか。一概に言えないのか。じゃあ俺は、どうしたいのか。


「タツヤ!」

元気な声に弾かれて顔を上げると、壁からコウが生えていた。

「タツヤ、見つけた!」

大声がする。

「早く来て!」

手招きする弟分に苦笑いで首を竦めた。


「俺は入れないと思う」

「玉兎が大丈夫って言ったから、大丈夫」

早くしろと大きく手を振るコウに、ふらりと立ち上がる。面白そうについてくるアンに連れ立って近寄ると、手首を握られてぐいと引き寄せられた。体が傾く。

壁が近づいてくると、衝撃に備えて体が勝手に硬直した。膜のように弾力のあるものを通過したあと、目を開ければ忘れもの屋の内部に入っていた。


「ね、大丈夫だった」

コウは悪戯に笑うと足物にしゃがみこむ。俺は曖昧に頷く。苦笑いがこぼれた。

入れたはいいが、すべて霞んで見えるのだ。これまではっきり見えていたものが朧気になり、実物を確認出来ない。玉兎もそうだった。


「俺、これ探してたんだ」

コウが何かつまみ上げている。コインのようでもあり、歯車のようでもあった。鉄色に光るものをしげしげと眺め、コウは口を開く。

「時計、作れるかな」


「……どうして時計がいいんだ?」

無粋かもしれないが聞いてみると、弟分はこちらを見上げる。まっすぐとぶれない目が俺を射抜いた。


「誰かの時を刻む歯車が、一番尊くて愛しいと思うから」


圧倒させるほどの意思が燃えている。俺は理解した。彼の軸はきっと、ずっと前から時計の歯車だったのだ。それを確実にするために、誰かの忘れた才能を探しに、ここへ来たのだ。


「それなら、できるさ」

頭を混ぜる。コウはこちらを見上げてニッと笑ったあと、ポケットに忘れものを突っ込んで玉兎の方を見る。

「ねぇ、僕まだここに来ていい?」

玉兎の言葉は、聞こえなかった。代わりにふわん、とパイプオルガンに似た音が聞こえた。


「でも楽しいし、俺たちまだここに来たい。ね、タツヤ」

「……あぁ、楽しかった」

俺は呟く。変なことしかない半月が、変に楽しかった。忘れもの屋から出た外の景色さえ、大切なもので溢れてると思うようになった。俺のいらない誰かの欲しいものに、優しくありたいと思った。


「変だけど、楽しかった」

色でしか判別できなくなっている玉兎を見て伝える。コウは俺の腕にしがみついて、玉兎に言った。

「ね、玉兎。タツヤも楽しいって言ってる。いいでしょ?」

間がある。そうか、玉兎も俺が見えていないのか。俺は本格的に、ここにはもう必要のないものだ。


「コウ、俺はもう無理だ。お別れだ」

「何でタツヤまでそんな事言うの」

「デパートは閉まるし、夏休み終わるし。宿題、やんなきゃ」

一瞬表情が代わった。なるほど、熱意の傾け方は狭いようだ。帰ってどこまで進んでいるのか見なければならない。少年は、視線を左右に振り数度瞬きしたあと、ぐったりと項垂れる。


「玉兎、またくるね」

沈んだ声で言った。ポケットの中身を握りしめている。俺は何か言おうと口を開いてみたが、声にならなかった。


何度でもコウとここへ来たい。数年後の未来より、この夏の出来事が俺にとっては重要で、代えの利かないものだった。不可能でも、コウとまたここへ遊びに来るという、そんな『約束』が欲しい。


「タツヤ、あれだよ」

真後ろからアンが囁いた。意識が明白になった。アンの指さす先に、くっきり見えた。ピントがあったようだ。

床にビー玉が転がっている。透明な球体にいくつもヒビが入って、中の水色の捻れが歪んで見てた。俺はゆっくり近寄り、あまりにはっきりしたものを拾い上げる。


「飲み込んだら、また会えるよ」

目を見開いた。ところどころ汚れがこびり付いているガラス玉を凝視する。ビー玉の注意書きが脳を過ぎった。


「せっかく見つけた君の宝物だけど、どうする?」

ニヤニヤ笑いながら男は促す。俺は一度アンを睨んで、意を決して固く目を瞑った。開けた口に掌を押し付ける。なるべく舌に当たらないように放り込んで、上を向いた。


異物感が流れ込んでくる。苦しさに後悔し始めた時、キラキラと目の前が輝き始める。ガラクタの山だったものが鉱物の結晶の姿をして、光を反射していた。無表情な男はいつも通り佇んでいる。俺はしばらく言葉が出ないでいた。


「……必要ないものなんて、ないんですね」

言えば男は小さく笑った。

「また、コウとお邪魔します。ありがとうございました」

と頭を下げる。


「いつでも来い」

玉兎の声はそれきり途絶えた。視界がぼやけていく。

「ほらお前も」

小さな背を叩くと、背筋が伸びた。


「玉兎、また来るからね。本当に来るからね」

じゃあね、と何度も振り返るコウの手を引き、アンの誘導で店を出た。何もない六階フロアだ。振り返ってもただの壁があるだけで、触っても先ほどのザラザラとした布の感触しかない。


「夏休み終わるまで玉兎いるよね?」

不安げなコウに笑ってやった。

「きっといるから、帰って宿題しような」

「アンはずっと会えるよね?新館、行くでしょ?」

くるっと見上げるコウに、男は冷めた目を向ける。


「いや、行かない。俺も明日から来ないね」

「えっ」

コウと声が揃う。

「宝探しの見物も終わったし、なんかもういいかなって」

先程までの笑顔は消え失せ、怠そうに頭を掻いている。

「そんな、自由でいいのか」

「まだ一個もケーキ食べてないよ?」

立ち尽くす俺たちを置いて、アンはさっさと非常階段へ向かっていった。

館内放送が、セール企画を紹介している。外はきっと夕暮れだ。


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