二 異常 – abnormal –

 なにがどうしてそうなったのかちっともわかりゃせんが、とにかくその乙女が美鳥さんであることは疑いようのない事実だった。おれはともかく、後藤ですらあの眠そうな瞼をこじ開けて凝視している。

 そんなおれたちの反応を見て、未来人が声を発さずに訊いてきた。


「知り合い?」


 そう言っているように読み取れ、おれはこくこく頷く。

「浪漫珈琲、女給、ミドリ」と手短に説明すると、未来人は飲み込みが早く「ほぉ」と口の動きだけで反応した。


 彼女らはしばらく、団子屋の窓に立ったままであり、美影が金を払ったあと、おれたちとは反対側にあるベンチに腰掛けた。いまだモジモジと周囲を気にする美鳥さんが団子を受け取る。彼女たちは知り合いなのだろうか。こっそりと聞き耳を立ててみる。


「さぁ、お話してちょうだいな。貴女あなた、お悩みがたっぷりあるのでしょう? この占い師になんでもご相談してみなさいな。貴女のお心の手助けになるやもしれません」


 うっとりと甘ったるい声で囁く美影。その言葉から察するに、どうやら初対面の様子である。美影の声音に圧倒されているかの如く、しかし美鳥さんは縋るようにして「はい」と思いつめた声を発した。


「不安なんです。わたし、一体どうしたらいいのか、迷ってしまって」


「えぇ、えぇ。そうでしょうね、わかります。お辛いですわよね」


「はい。あのひとが、本当にわたしのことを想ってくれているのか、わからなくなるんです。彼を疑ってなどいませんけれど、でも……最近のあのひとは……少し、怖いんです」


 そこから先は、ふたりとも深刻そうに声を低めてしまい、美鳥さんに至っては時折鼻をすすっているのでしっかりと聞き取れない。先日に見せてくれたような朗らかさはなく、ひどく思いつめた様子であった。あの笑顔の裏には想像を絶する苦悩があるのだろう。

 そのとき、後藤がボソボソと呟いた。


「こういうとき、梅がそばにいたらな……」


 確かに、地獄耳のお梅ちゃんならば、女二人の会話くらい盗み聞きが可能だろう。


「おい、後藤。お梅ちゃんをここに呼ぶことはできんのか」


「無理だ。いますぐ呼び寄せるのは物理的に不可能だろうが」


 おれの提案はあえなく却下された。まぁ、それはそうなのだが。

 そんなすったもんだを静かにしていると、未来人が「ふふん」と含み笑いをした。


「要は、あのひとたちの話を盗み聞きすりゃいいんですよね?」


「なんだおまえ、そんなことができるのか?」


 訊くと、彼は人差し指を口に押し当てて「シーッ」と合図した。そして、悠々と女二人の密談へ近づく。

 そうか、と気がついたころには後藤もすでに気がついたらしく、おれたちは固唾を飲んで未来人の動向を見守った。

 あの男は他人の目を欺くことができる。いま、おれたちの目にはあの男の姿がはっきりわかるが、彼女たちにはおそらく奴の姿が見えていない。あいつは他人に成り代わることも、風景と同化することだって可能なのだ。

 いまや、未来人は美鳥さんの隣に座って、こちらに手を振っていた。呑気なものだ。あの尼を騙そうとする根性がおそろしい。

 一方で美鳥さんは、怪しい未来人に気が付かぬまま始終、尼へ悩みを一生懸命に吐露する。


「もういっそのこと、あのひとと一緒に死んでしまおうかしらとすら思えてきます。わたしは、もう耐えられません。わたしは自由になりたい。自由にあのひとと一緒に生きていたいだけなのに……それは許されないのですから」


 こぼれて聴こえてくるものからして、どうも色恋沙汰いろこいざたのようだが。いかにも典型的な年頃の乙女だなと呆れた。これで、とんでもなく多額な謝礼を尼に渡そうものなら、この緊張感を振り切ってでも美鳥さんを止めよう。そう誓ったとき、未来人がゆっくり戻ってきた。


「どうだ?」


 後藤が訊く。すると、未来人もつまらなさそうに肩をすくめた。


「どうもこうも。随分と思いつめとうようやけど……あのミドリってひと、不倫ふりんでもしてんじゃないですかねー? 相手はおそらく、良家の男。禁断の愛ってやつですか。まぁ、ありふれた話ですよ」


 この見解に、おれも肩を落とした。危険を冒すまでもない。まったく、無駄にヒヤヒヤしただけである。対し、後藤はなにやら実直に思案している。

 未来人は店の外壁にもたれた。


「そう大げさに警戒することないんやないですかー? あのひとたち、オレの姿なんてちっとも見えてなかったっぽいし。反応もなし」


「なにごとも油断大敵だ。だいたい、君が言ったんじゃないか、あの尼は危ないって」


 それをいまさらくつがえすなんて、一体どういう了簡りょうけんだ。非難たっぷりに未来人を睨むと、彼は頰を掻いて唸った。腕を組む。


「まぁ、確かにあの尼さんの顔はこの世のもんとは思えんくらい、おっそろしく綺麗でしたよ。作りものみたいで」


 その評価は概ね正しかろう。あの美しさに飲まれてしまいそうで、本当に身動きが取れなくなる。


「あ、そうだ。あの尼さんの目、見ました?」


 未来人がおれに訊く。しかし、おれは「そう言えば、しっかりとは見ていないな」と思い、首を傾げて曖昧に笑う。未来人もは苦々しく笑いながら言った。


「銀色の目をしてました。両方とも義眼っぽいの。なんつーか、よくできたお人形って感じ」


 そんな風貌ならばなおさら有名になっていそうなものを。こんな西の果てではなく、東の都で金になる商売でもしたらいいのに。まぁ、発展に乏しい辺境へんきょうの地ならば阿漕あこぎな商売が俄然がぜんやりやすくはあるのだが。


「おい、後藤よ。なんとか言ったらどうなんだ。さっきから黙りこくってさ。うんともすんとも言わんじゃないか」


 まったく会話に参加してこない未来霊視さまの脇腹をつついてやる。

 その瞬間、後藤は気迫のこもった眼力でおれを睨んだ。殺気立つ彼の顔色はとにかく悪い。それはまるで、病気にでもかかったかのように深刻なほど蒼白だ。


「ご、後藤、くん? 大丈夫かい?」


 さすがに心配なので訊いてみると、彼は制帽のつばを掴んだ。顔を伏せてしまう。そしてぶっきらぼうに言った。


「俺、帰る」


「は?」


「帰って、日野子たちを呼んでくる」


「はぁ?」


 急にどうした。


「おまえはあの女を尾行しろ。もしあとで合流できたら、馬鹿にもわかるよう説明くらいはしてやる」


 そう言い捨て、後藤はそそくさと壁から離れていく。細心の注意を払い、あの尼と美鳥さんには見つからないよう遠回りの道から引き返す。

 呆れた。ここまで来といてそりゃないぜ、坊ちゃん。

 残されたおれたちはどんよりと顔を見合わせた。


「……ちなみに、おれは金がない」


 それだけ先に言っておくと、未来人はしぼんだ風船よろしく肩を落としてしゃがみこんだ。


「じゃあ、やっぱり徒歩で行くしかないのかー。ちくしょう」


 そのことに関しては、同情の念を禁じえない。


 ***


 後藤のやつ、日野子さんたちを呼んでどうするつもりだ。

 もしや、日野子さんにあの尼をぶちのめしてもらうのだろうか。否、日野子さんは平和主義者だし、喧嘩はしないという殊勝な心がけを持ったひとである。いくら説得したって、ぶちのめすことはおろか、彼女なら「まぁ、それは大変ですねー」と、わけもわからずほのぼの言ってのけるだろう。


 では、高尾氏はどうだろうか。否、こちらもまた争いを好まない困り顔の御仁。頭はキレるし人望もあるようだが、それ以外はなんとも。それに、失せ物の在処がわかるだけでは対抗のしようがない。日野子さんよりも非力だ。


 お梅ちゃんは論外。それならまだ、この未来人のほうが優秀だと思う。まぁ、そもそもあの尼がやってることは犯罪でもなければ、極悪非道でもなく、ただただ話を聞いているだけである。攻撃するには、ちっとこちらの分が悪い。

 なにしろ、向こうは人生相談を請け負う占い師の風貌である。ハタから見れば善良な一市民を襲うこととなり、余計に波風がざぶざぶと立ってしまうだろう。美鳥さんの手前もある。

 あぁ、憎き敵が目の前にいるというのに、迂闊に手を出せないのがもどかしい。


「一色さん、もう行きましょ。命を狙われとうやつの尾行をせないかんのですか。無駄っすよ、無駄」


 行儀悪くいじける未来人が言う。だが、彼の言い分はもっともだ。

 おれたちは静かに店から離れた。その際、おれはちょいと美鳥さんの声を聞こうと耳をそばだてる。

 彼女はまだぐすぐすと鼻をすすっていた。恋い焦がれる乙女の思いはいじらしく切ない。しかし、そんな一途な思いは身を滅ぼすだけなのだ。


「大丈夫ですよ。貴女の願いはきっと叶いますからね」


 気休めのような言葉しか発さない美影は本物の占い師のようであり、御仏みほとけのようでもあった。道端でおれと相対したときとは思えないほど柔らかく、包容力のある安心感がある。優しさと慈しみを携えることで、その存在を遥かに尊いものとし、いかにも善の象徴であるように甘い言葉だけを囁く。

 おれはやはり嫌悪した。他人の弱みにつけ込むのは詐欺師の専売特許。その人間の弱く柔らかい部分をくすぐり、最終的には苦しみさえも感じられなくなるほどに貶める。

 かわいそうに。成就じょうじゅするといいんだが、相談相手を間違えたばかりに彼女の行く末は良からぬ方向へ落ちていきそうだ。ああいうのに傾倒してしまえば、正常に判断することは難しかろう。


 再び大通りへ足を向ける。ここからまた歩かねばならんのかと気が重くなりそうだったが、未来人を放置して帰るわけにもいかない。後藤がいないいま、相手をするのはおれしかいない。

 あの坊ちゃん、血相変えてどうしたのだろう。あの顔は紛れもなく、核心に触れたようでもあった。それか、あの美影に恐れをなしたか。


 と、呑気に考えていたその時だった。どこからともかく人工的な〝音〟が鳴り響いた。テテテンテテテンと絶え間なく続く〝音〟に、おれも未来人も周囲を見渡して慌てふためく。

「なにごと!?」とおれが叫び、「えーっ、うっそやろー?」と未来人が仰天する。その口ぶりに、おれは未来人の体からその警報が鳴り響いていることに気がついた。

 彼は腰からなにかを取り出した。薄い四角形のなにかである。これを説明するには難しく、おれはそれを見たことがなかった。見た目、おそらく箱である。その面妖めんような薄い箱を未来人は慣れた仕草で扱い、黒い表面に触れた。


「文字がけてて誰かわからん……はい、もしもーし」


「え? それは電話か?」


 思わず問うと、警報音もピッタリ止んだ。箱の表面を耳に押し付ける未来人に、おれも同じ反対方向から耳を押し当てる。すると、箱の中から〝声〟が聴こえてきた。


『君、いまどこにいるんだね?』


「喋ったぞ」


 思わず感嘆すると、未来人はうるさそうに顔を背けた。しかし、おれもしつこく追いかけて、このあやかしい箱から声を聴こうとする。


『まったく、代行を頼もうと思っていたのに、君がいないんじゃどうにもならんじゃないか。早く帰ってきておくれよ』


「いや、帰りたいのは山々なんですけどね。わけわからん天狗に無理やり代行させられて、おかげでこちとら大正時代すよ大正時代。つーか、なんで電波通るんすか? 時代またいでまで代行の依頼してこないでください」


 未来人がことさら面倒そうな調子で言う。すると、箱は『わははは!』と妙に甲高くはしゃいだ。声音からして艾年がいねんの男のようである。


『なんだい、君。いま、そんなところにいるのかい。大正って言えば、何年前だっけねぇ……いやはや、俗世ぞくせのことはいちいち覚えていられん。でも、それなら仕方ないね。大方、戻るすべをその時代の私に頼むつもりなのだろう? てっとり早く、國廣くにひろ神社にでも行くのだな? 倉稲魂命ウカを経由して私を探すのだろうね。確実に信用できるルート。懸命な判断だ。結構結構』


 その言い方は意図を読むかのごとくあり、実際、未来人はげんなりと口をへの字に曲げた。図星らしい。箱の中の声はクククと笑いを堪えきれておらず、続けてこう言った。


『まぁ、なんにせよだ。だったらね、君、そちらの私にこう言うと良い――鶏口牛後けいこうぎゅうご、とね』


「鶏口牛後?」


『そうそう。それだけ言えばあとはなんとでもなるさ――あ、そうだ。一つだけ教えておくけれどね、その時代の私は大変に怒りっぽいから用心しておくように。では、幸運を祈る』


 一方的と言うのが的確だろうか。ブツッと糸をちぎるように音が消える。そうして、無慈悲にも箱はなにも言わなくなった。


「……それは無線か?」


 改めて訊く。未来人は困ったように頭を掻き、口を曲げたまま箱を腰のポケットにしまった。そして、投げやりに言う。


「スマホです」


「すまほ?」


「未来の道具」


 どんよりと苛立たしげに未来人は言った。なんだかそれ以上は聞いてはいけない気がし、おれはうずうず高まる好奇心を抑える。


「さっきのは誰だったんだ?」


 もしもあれが無線ないし電話ならば、話し相手はどこか遠くにいるのだろう。話の内容からして、彼の時代の住人か。


「あぁ、あれです。いまから会いに行こうとしている天神さまです」


「ほぉ……」


 未来では神も機械を扱うらしい。おれはもうなにがあっても驚かないぞ、と心に決めた。

 それからは旧家がつらつらと並ぶ通りを行き、大して面白くもない同じような景色をひたすらに歩いた。建設途中の建物もちらほら見える。土道であるが、よそとは比べものにならぬ上質な土道に見えてくるから不思議だ。


「なぁ。それにしても、本当に神さまに会えるのか?」


 おれはようやく本題に入った。こいつの言う神さまとは、本当に会おうと思えば会えるものか。そもそも、神の存在など認められるのか。

 まぁ、天狗や霊能者がゴロゴロいる現代だ。神くらいいたって不思議はないかもしれないが、おれはついぞ見たことがないからまだ信用できない。

 未来人はうんざりといったように天を見上げた。そして足を投げ出すようにして歩く。


「会えますよ」


「会えるって、そんな簡単に? 神とか言って妙なペテンを使うやつではないか? それか霊能者とか」


「神さまはいます。その辺に歩いていたり、寝ていたり、座っていたり。誰かと一緒にいたりもする。ただ、あなたが気づいてないだけです」


 その口ぶりはきっぱりといさぎよかった。なんとも言い慣れた節が垣間見れ、彼はやはりおれと同じ匂いがする。まぁ、悪いやつではないから責めようにも責められない。それに、同業者ならなおさら口で勝てる自信がない。そもそも、こう言い切れてしまう時点で、おれに勝ち目はないのだ。「人間、諦めが肝心だ」と親父が散々言っていたなと思い出す。


 空模様はそろそろ午後へと傾いていく。夜までにはたどり着けるだろうが、それからはどうしたものか困ってしまう。

 おれはのんびりと欠伸あくびをした。

 すると、急に空がかげった。

 次の瞬間、おれはふわりと宙を飛んだ。

 衝撃。

 驚く間も与えられず、激しい風圧を直に受けた。そう感じられたのは、吹っ飛ばされたあとだった。


「あぶなー……間一髪かんいっぱつ


 未来人がおれの首根っこを掴んで道端に放り投げたらしい。この馬鹿力をいますぐ問い詰めてやりたいところだが、それよりも言及するべきは電柱が道を塞いで倒れてきたことだろう。

 こんなものが不用意に倒れるものか。風に当てられたわけでない。

 急に、突然、降って湧いたかのように落ちてきたというのが正しく、ごく自然的な表現だった。災難どころの騒ぎじゃない。

 その犯人の見当はおおよそついており、振り返れば見事大当たりであった。

 可憐なまつげが愛らしく、花のような乙女、原北日野子そのひとである。

 しかし、おれの知る彼女ではないことくらい一目瞭然であった。なにせ、彼女の瞳はだったのだから。

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