後悔 ー4ー
葵さんはまた用事があるからと別れ、行く当てもなくなった僕は、ふらりと江宮神社の参道に足を向けた。
旅の終わり。今まで漠然としか考えていなかったものだが、事態は意識せずにはいられないところまで進んでしまった。
幾重にも重なる木漏れ日が、一面絨毯のように広がっている。
それなのに、僕の足下に影はない。
神様によって作られた仮初めの肉体。この世界にやってきたときと同じように、いつかは陽炎のように消えてしまうのだろう。
それは数日後かもしれないし、一週間先かもしれない。一ヶ月先かもしれないし、今日この日かもしれない。
江宮神社の参道を登っていき、脇にある社務所へと足を向ける。
社務所の端っこ、窓が開けられた部屋から覚えのある声が聞こえてきた。
「あー、暑いよー。なんでこの部屋クーラーないのー」
少しだけ顔をのぞかせて部屋を見やると、畳の上では明日葉と栞ちゃんは並んで神社の仕事にいそしんでいた。神事で使うしめ縄やしだれ作りだ。今後神事が増える。今のうちから準備をしているのだ。
僕は二人からは見えない窓の下に背を預け、ゆっくりと腰を下ろした。
「あはは、そうだね。あとでかき氷パフェでも作ろうか」
「おー、いいねいいね、かき氷パフェ。明日葉姉の作る料理なんでもおいしいから楽しみっ」
少女たちの楽しげな笑い声をともなって、頭上で薄いレースのカーテンが夏の風でさらさらと舞っている。こうして聞いていると、まるで姉妹のようだ。葵さんと栞ちゃんと、明日葉の三人姉妹。違和感はない。
ふと、栞ちゃんがぽつりと呟く。
「そろそろ、結弦が葵姉からいろいろ聞いてるころかなぁ」
「……そうかも」
明日葉は小さく笑うだけに留めた。
しばらく、紙のすれる音だけが響いた。集中して作業を始めたようにも思えるが、二人の間に流れる空気は乾いていて、どこか寂しい。
「明日葉姉さぁ、もうそろそろドッキリでした、って言わない?」
「え、ええ……」
栞ちゃんの嗜虐的な笑いに、明日葉は戸惑ったような声を漏らしていた。
「私にとってはさ、旅人って不思議な存在なんだよね。期間限定のお知り合い、みたいな。江宮島になにかの願いを持ってやってきて、数ヶ月だけ私たちと一緒に生活して、願いを叶えるとみんな、江宮島からいなくなる。ある意味、やっていることは旅館とか宿泊施設に近いのかもね。違うのは、別れたら最後、旅人さんたちとはもう会えないってこと。でもこの世界を去るときは、みんなこの世界にきてよかったって、笑いながら別れるんだ」
僕が聞いたことのない、栞ちゃんが旅人に対して思っていること。
面倒なことばかりのはずだ。自らの居住空間に、神様が選んだ人間とは言え、見ず知らずの人間を泊めて、この世界での生活を保障する。
まだ中学生。遊びたい盛りだろう。友だちと話したり、出かけたり、自分のやりたいことに打ち込んでみたり。旅人を迎える役目を担っている葵さんたちや栞ちゃんたちの責務は、僕たちが違う世界から来ていることもあって、見返りを求めることさえできはしない。
それでも、僕たちを暖かく迎え入れてくれて、居場所を提供してくれる。
「明日葉姉、江宮島に来る旅人はね、みんな最後は自分の願いをちゃんと叶えて、旅を楽しく素敵なもので終わらせなきゃいけないんだよ」
わずかに、栞ちゃんの言葉が熱を帯びる。
「願いは、絶対じゃない。叶う願いもあれば、叶わない願いもある。そんなことは当たり前だって、神社の娘だってわかってる。でも、でも明日葉姉は……」
言葉の裏に悔しさを押し隠し、そっと息が吐かれる。
「いいんだよ、言っても。実は私はもともとこの世界の人間で、眠っても元の世界に戻らないんですって。時々眠っちゃうのは眠り病なんですって。言っても、いいよ」
こぼすように紡がれる声は、消え入りそうなほどか細く、揺れていた。
紙がこすれる音が、しんとなくなる。
やがて、ぽつりと一言。
「……ごめんね、栞ちゃん」
それ以上、明日葉はなにも言わなかった。
僕たちはもっとなにかを言ってほしいのに、それでも明日葉はなにも言わない。彼女自身、それ以上なにも言うことができない。
「……明日葉姉の……ばか……」
それだけの感情が漏れる。
それっきり会話が続くことはなかった。
作業が再開され、しばらく紙や藁のこすれる音だけが響いていた。
だけど微かに、鼻を啜るような、嗚咽のようなものも混じっていて、僕の心はどうしようもなく暗く染まる。
窓の外に座り込む僕の目の前に、ふわりと二本のユカリが舞う。左手から伸びる碧糸は、背後の社務所に伸びている。意識して作ったものではないのに、また勝手に現れ、まるで彼女たちの元に行けと言わんばかりに訴えてくる。
この糸をつかめば、僕は彼女たちのところに行くことができる。
けど行ったところで、なにもできないのだ。
頭を抱え、ユカリを伸ばすペリドットのブレスレットを、きつく握りしめる。
震えそうになる喉を必死に押さえ、おそるおそる息を吐き出す。
香澄姉さん、葵さん、やっぱり、僕にはなにもできないよ。
いくら後悔を積み重ねても、どれだけ僕がここにいる意味を探しても、なにもできやしない。
側で泣いている女の子たちでさえ、どうにかしてあげることもできない。
神様、僕に、一体なにができるんだ。
望んでも望まなくても、それでも時間は進んでいく。待ち遠しいその瞬間を待つのも、来てほしくないそれを待つのも。
「ご、ごめ、ちょっと、無理かも、なので……」
その日、明日葉は突然の眠気に襲われ、ふらふらし始めた。
たまたまタイミングがよく、人目が少ない浜辺でゴミ拾いをしていたときだった。倒れそうになる明日葉の手を引いて、堤防の隅に備え付けられたベンチに座らせてあげる。すぐに、明日葉はなにかに吸い込まれるように眠りについてしまった。
しかしベンチに座って眠りにつき体が安定するわけもなく、ずるずると隣に座った僕に倒れてきた。そして小さな頭を僕の肩に乗せたまま、穏やかな寝息を立て始める。
今日はひなたぼっこにぴったりの、心地よい陽気だった。七月も中旬の暑い季節ではあるが、島風が抜き抜ける江宮島は比較的過ごしやすい環境だ。
僕は一学期末のテストを先日終えている。勉強もまるで捗らずにずいぶん成績も落ちてしまったように思う。今はそんなこと気にもならないけれど。
ベンチから眺める海は、僕が江宮島にやってきたときと変わらない。景色も、潮の香りも、さざなみの音も。
それでも変わりゆくものはある。
明日葉のことを知ってからもう何日もたっている。それでも僕たちの過ごす日々に大きな変化はない。ただ、明日葉のことが無関係な島民に知られないように立ち回っているだけだ。
日に日に、明日葉が意識を保つことができなくなる時間が増えている。多い日は、一日に数度眠ることだってある。
一日一日が着日に終わりに向かっていく、めまいを起こしそうなほど、嫌な感覚。
本来どんな状態からでも、眠れば自らの世界に強制的に戻される。
それなのに、自分の体が死んでいるがために眠っても元の世界に戻ることがない。
戻ることが、できない。
思えば、いくらか気がかりがあった。明日葉がまるで、この世界で眠っているように見えたことが。寝返りを打ったからかベッドからドスンと落ちていたときや、懐中時計の依頼を受けた際にテラスで突っ伏していたとき。あれはきっと、実際に眠っていたのだ。旅人であるにもかかわらず、明日葉は江宮島で眠ることができる。
明日葉の手が微かに動き、僕の左手に触れる。明日葉の手と僕のブレスレットが触れて、またふわりと緑色の糸が舞う。この糸も、最近はずいぶん頻繁に現れるようになってきた。
しかしそれもまた、空気に溶けるようにゆっくりと消えていった。
力なくたれている明日葉の手に、そっと僕の手を重ねる。手のひら同士が触れ合い、お互いの体温がかわされる。
僕の手は、同世代の男子からしてもなよっとした細っこい手だ。喧嘩はできても、情けなくちっぽけだ。
それでも明日葉の手は、僕の手よりもずっと小さく、頼りない手のひらだった。
眠っている明日葉に意識はないが、なんらかの反射から、僕の手をきゅっと力なく握ってきた。
生きた人の心地。
だが確実に今このときも、明日葉の手からは命がこぼれ落ち続けている。
「ん……んあ……」
しばらくたったころ、艶っぽい呻き声を上げながら眠り姫が身じろいだ。
薄らまぶたが上がり、視界に入ってくる日差しから眩しげに目を細める。
「んあれ……ああ、また眠っちゃってたので……」
ぽあぽあした頭のまま状況を理解しようと視線が動き、すぐ隣にいる僕にとまった。
「え……ええああああごめんね結弦くんっ。もたれかかっちゃってたので!」
「肩こった」
「そ、そこは大丈夫とかありがとうございますって言うところじゃないかな男の子的にっ」
口を膨らませてむくれる明日葉だが、続いて自分の右手に気がつく。握り合っている自分たちの手を見て、ぱちぱちと目をしばたかせる。
「ああ、これは明日葉が突然握ってきたから。離してくれないし」
手に触れたのは僕だが、それはあえて黙っておく。
明日葉は慌てて手を離してがばりと体ごと飛び退いた。
「ええ!? ええとごめんごめんねっ……ととっ」
と同時に、勢い余ってベンチから転げ落ちそうになってばたばたと手を振る。もう一度手を取り、手を引いてまたベンチに座らせる。
「あ、ありがと……」
「大丈夫です。ありがとうございます。ご褒美です」
「……」
なぜかどん引きされた。いや、そういうもんだって言うから。
僕はベンチから立ち上がり、凝り固まって痛くなった体をぱきぽきと鳴らす。
明日葉は恥ずかしそうにベンチの上で縮こまりながら、周囲をきょろきょろと見渡す。
「わ、私、どれくらい寝てたの?」
「大した時間じゃないよ。三十分くらい」
言いながら、僕は指で自分の口元ととんとんと叩く。
明日葉は顔を真っ赤にして俯きながら、取り出したハンカチで口元を拭う。
僕はベンチから離れ、堤防と海に境界にある柵に背中を預けた。
「今日はもうこれといって用事もないからいいんじゃない? あとはゴミ拾いのあと片付けだから」
「そう、だね。最近はお仕事の依頼も少なくなってきてるもんね」
当初こそ多くの依頼に恵まれていたが、日に日に件数は少なくなっている。それはまるで、僕たちがこの世界に旅をしている意味が、徐々に霞んで消えていっているようにも思えた。
すべてが、終わりに近づいている。
明日葉も。そしてきっと、僕も。
僕の願いがどうという問題ではない。別のところで、決定的に終わりが近づいている。その実感がある。
「ねえ、明日葉、なにか、僕にしてほしいことって、ない?」
特に考えるまでもなく、自然と口から出ていた。
「え……突然なに?」
「いや、旅人になってから明日葉にはお世話になりっぱなしだったから。まだ僕たちが旅人でいる間に、なにか僕にできることはないかなって」
「……あは、あはははははっ」
突然、明日葉は声を上げて笑い始めた。
「な、なにどしたの」
お腹を抱えて笑い転げる明日葉に、僕は若干引いてしまった。
明日葉はひとしきり笑い終えると、目尻にたまった涙を指で拭う。
「いやいや、結弦くん、わかってない。全然わかってないなぁって思ったので」
「……なんか、おかしかった?」
「ううん、なんでもないので。まあおかしかったのは事実だけど」
堪えきれないように明日葉はもう一度吹き出す。必死に笑いを噛み殺すと咳払いを一つ落とした。
「でもでも、そうだなぁ。結弦くんがそう言うなら、一つお願いさせてほしいので」
「いいよ。なんでもどうぞ」
「そう? じゃあ、せっかくなので……」
明日葉は微かに頬を染め、それでいて、いつものように幸せそうな笑みを浮かべる。
「結弦くん、私と、デートしてくれませんか?」
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