ほとりの写真 -3-
近くの自動販売機で買ってきたココアを、ほとりに差し出す。
「ありがと……」
ベンチに座るほとりはココアを受け取るが、力なく視線を膝の上にカメラに落とした。
俺たちは川沿いに作られている公園に立ち寄っていた。
俺はコーラのプルトップを押し上げながら、街灯に背中を預ける。
すっかり日が暮れた公園にいる俺たちを、街灯が明るく照らし出している。
「私ね、昔どんな風に写真を撮っていたのか、今はもう思い出せないんだ……」
自らカメラを悲しそうな眼差しで見下ろしながら、ほとりはこぼすようにそう言った。
「三年近くもカメラから離れてね、私は、カメラがなくても生きてけるんだって思った」
日常を話すような口ぶりでありながら、言葉の端から悲しみがにじみ出す。
「……でも、お前はこうやって、もう一度カメラを手に取っただろ?」
「それでも、私はカメラに一度も触らなかった。それこそ、いつでもスマホのカメラで撮ることはできたのに、まったく触らなかった。私のアルバムは、三年間もからっぽなんだ」
ほとりは、寂しそうに笑いながらそう言った。
俺やほとりは、自分のアルバムをいつも持ち歩いている。俺のアルバムには、俺が写真を撮り始めてから何年もの写真が積み重なっている。しかしほとりのアルバムには、明確な空白が存在する。青葉さんの死後、カメラから離れ、一度も写真を撮ることがなかった空白の三年間。
いただきますと断り、ほとりはココアを一口飲む。
ココアをベンチに置いて、カメラを街灯に照らされる目の前のブランコへと向けた。
だが、シャッターボタンに指はかかることはなく、そっとカメラは下ろされる。
「……カメラの向こう側が見えないってわかったとき、仕方ないって思ったの。私は、お兄ちゃんがいたから、写真を撮ることができていたんだよ」
「……」
「私が写真を撮るときは、いつもお兄ちゃんがいた。カメラを教えてくれたのもお兄ちゃん。写真を撮りに連れていってくれたのもお兄ちゃん。私が瀬戸高に入って、写真部として写真を撮ることが今までできたのも、お兄ちゃんが写真部だったから……」
カメラは、兄である青葉さんとともに、いつもほとりの側にあったもの。
だからこそ、ほとりはカメラを持つことができ、写真を撮ることができたのだと。
「今はもう、なんで私は写真を撮っているかも、わからない……っ」
泣き出しそうなほとりの声に、胸の中がざわついた。
「本当に、なにも見えないのか?」
俺が尋ねると、ほとりはたははと苦笑を漏らした。
「信じ、られないよね。でも、本当だよ。何度カメラをのぞいても、なにも見えない」
それでもほとりは、宝物を抱えるように両手でカメラを包み込んだ。
「私のカメラ、D80のレンズは単焦点を使ってるから、視野角は同じでしょ? だからなんとなく、写真に入る位置はわかるし、ピントはオートフォーカスで合わせられるから、ある程度写真を撮ることができるようになった」
ずっと疑問だった、ほとりの写真がおかしかった理由。
カメラの向こう側を見ないのではなく、見ることができない。
単焦点レンズは撮影できる視野角が固定されている。たしかにある程度写真になる範囲はわかるだろうし、オートフォーカスも正しく使えば、全部ではないだろうが十分にピントは合わせることはできるだろう。
できるだろうけど、それでも普通じゃない。
そんな状態で、多少の違和感はあれど、写真として見ることができるレベルの写真を撮る。口で言うのは簡単だが、それがいったいどれほど途方もないことか。構図や水平、ピントのずれなど些細な問題だ。
ほとりはそんな状態で、ずっと一人で写真を撮り続けてきた。
その事実に、愕然とする。
カメラの向こう側は、いつも黒いもやがかかったようになにも見えない状態だと言う。試しに俺のD7500をのぞいてもらったが、他のカメラでも無理なようだった。
「それでも、それでも私ね、写真を撮りたかったの……」
俯き声を震わせながら、ほとりはそう言った。
「お兄ちゃんから教えてもらった写真を、撮り続けていきたかった。世界を写してくれる鏡で、私の世界を少しでも。もうお兄ちゃんにはできないから、私が少しでも、世界を鏡に、カメラに写していきたかったの……」
カメラは世界を映す鏡である。青葉さんが口癖のように言っていた言葉だ。
亡くなった青葉さんは写真を撮ることができない。世界を見ることさえ、できない。
「だから、ごめん……」
「なにを謝ってるんだ?」
前髪に隠れるほとりの視線が一度こちらに向けられそうになるが、力なくカメラに戻る。
「瀬戸高の写真部は私と真也君の写真で依頼を受けてきた……。私がカメラの向こう側が見えない状態で写真を撮り続けることが、真也君の負担になることはわかっていたんだよ。でも、でも私は……」
それ以上言葉が続かず、吐き出される息とともに暗い夜闇に消えていった。
俺は手元のコーラに視線を戻し、半分以上残っていた中身を一気に飲み干す。強烈な刺激が喉を滑り降りていく。空になった缶を少し離れたゴミ箱に向かって投げる。空き缶は、放物線を描いてすとんとゴミ箱に消えた。
「困ったことがあったら、言えよ」
「え……」
「カメラの向こう側が見えないなら、撮りにくかったり難しかったり、困ることもあるだろ? なにかあれば言ってくれ」
「……怒らないの?」
心配そうに見上げてくるほとりに、俺は肩をすくめてかぶりを振る。
「なんで怒るんだよ。言いにくいことなのはわかるし、不安に思うのもわかる。俺は、お前が部長をやっている写真部の副部長だ。部長が困っているなら支えるだけだよ」
足りないところがあるなら補い合うのが仲間というもの。ほとりにできないことがあるなら俺がやる。それだけだ。ほとりを怒ることとか、負担に思うとか、そんな話ではない。
「あ、ありがと……」
安堵したように漏らすほとりは、どうにか笑ってくれた。
時間もすっかり遅くなってしまったので、家まで送っていく。
また明日とほとりと別れ、俺は少しだけ離れた自宅を目指して自転車を走らせていく。
ほとりの話は、衝撃的で信じがたいものだった。
それでも、きっと事実だ。ほとりの写真に、写るべきものが写っていないのも合点がいく。
ゆっくり自転車のペダルをこぎながら、星が瞬く空へと視線を向ける。
このままで、いいわけがない。
ほとりには困っていることがあれば支えるなんて言ったものの、現状がおかしいことは明らかだ。
だけど、カメラの向こう側を見ることができないほとりに、なにを言ってあげるべきなんだろうか。
「俺に、なにが、できるんだろう……」
俺の吐き出した問いは、初夏の夜空へと消えていった。
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