瀬戸高写真部 -1-

 岡山県立瀬戸内せとうち高等学校、通称瀬戸高せとこうは、岡山県岡山市にある公立高校である。

 岡山市街からほどよく近く、それでいて付近には山や川、南下すれば瀬戸内海を望むことができる自然豊かな高校だ。


 俺は生まれてから十年と少しの幼少時代を、両親とともにこの街で過ごしていた。両親の仕事の都合で一家揃って東京に引っ越すことになったのが五年前のこと。


 だが高校進学を機に、生まれ育った懐かしの街に戻ってきた。

 そして華々しい高校生活の始まり。

 だったはずなのに、どこでなにをどう間違ったのか、俺は生徒指導室で美人女性教師とご対面している。


 机を挟んで向かいに座る赤磐先生が椅子の上で綺麗な足を組み、机を指でとんとんと叩く。


「えーと、日宮真也ひのみやしんや、だったな? なぜ自分が呼ばれているか、わかっているね?」


 真っ直ぐ見つめられる視線に耐えきれずに、美人教師こと赤磐あかいわ先生の後方へと目を逃がす。


 ああ、いい天気だ。せっかくの写真日和なのに、もったいないなぁ……。


 ばしんと出席簿で頭を叩かれた。


「真面目に聞け」


 赤磐先生は生徒指導の教師でもなければ担任教師でもない。入学式直後のこの忙しい時期に手が空いている教師がいないとかで急遽抜擢されたらしい。入学してまだ数日しかたっていないこの時期に、生徒指導室に呼び出されるあんぽんたんが日本全国に何人いるか。


「遅刻した理由はなんだったかな? 登校前に後楽園に写真を撮りにいってたから遅刻した? 私たちもそれをはいそうですかと受け入れるわけにはいかなくてね」


「……なぜ遅刻したかと聞かれれば、たしかに写真を撮っていたからなんですが。遅刻してしまったのは、観光客に写真撮影を頼まれてしまったからです」


 赤磐先生が僅かに首を傾げ、眼鏡の向こう側で目を細める。


「今朝の話だぞ? 観光客がそんな時間からいるわけがないだろう」


 疑いの眼差しで俺の体を刺してくる赤磐先生に、ため息を吐きながら側に持ってきていたカメラバッグに手を伸ばす。

 バッグの中に入れているのは、両親が高校入学祝いに買ってくれたばかりの一眼レフカメラ。ニコン製一眼レフデジタルカメラ、D7500だ。


「む……撮るなら美人に撮ってくれよ?」


 ちげぇよ……なんでこのタイミングでハイチーズ☆ってやらなきゃいけないんだよ。


 冗談か本気かわからない赤磐先生の言葉を聞き流し、電源を入れたカメラにモニターに今朝の写真を表示する。


「後楽園の近くにホテルがあるんですけど、そこのお客さんがたくさん来てて写真を撮ってくれって頼まれたんです。あちこちの場所を連れ回されたあげく、全員のスマホとカメラで。邪険にするのも気が引けたので、丁寧に対応をしていたら遅刻しました」


 まさかあんな早朝から後楽園に旅行客がやってくると思わなかった。人が少ない時間に写真を撮りたかったからわざわざ早朝の登校前に訪れたのだ。にも関わらず、そんな早朝から観光客が押し寄せるなんて誰が予想できようか。どんなスケジュールだよ。


「日宮のカメラで撮っているじゃないか。盗撮か?」


「……写真撮影を頼まれたときは、僕のカメラでも撮らせてもらうようにしているんです」


「そんなことをしているから遅刻したんじゃないのか?」


「……」


 やぶ蛇だった。バレたか。


 無理矢理付き合わせていたのが段々楽しくなり夢中になってしまった。気がついたときには予定の時間をかなり過ぎていたのだ。

 駐輪場から自転車を引っ張り出し、死ぬ気で自転車をこいだが結局間に合うことはなかった。校門をくぐると同時に鳴り響くチャイムが、ざまぁと笑っているような気さえした。


 俺は机に手を突いて立ち上がる。


「先生、人との出会いは一期一会なんです。そのとき、写真撮影で頼まれただけだとしても、もう二度と会うことはない人たちでも、俺はそのつながりを大事にしたいんです。写真を撮らせてもらうことが、大切なつながりに」


「わかったわかった。わかったから座れ」


 赤磐先生は面倒くさそうに手を振りながら俺の話を遮る。


「じゃあなにか。今度また遅刻か写真を撮るかどうか選ぶことがあるときは、もちろん」


「もちろん写真撮影を優先します――」


 再び出席簿で頭を叩かれた。今度は角で。結構痛い。


 疲れたようなため息をこぼし、赤磐先生が胸の前で腕を組む。他の女性と比べても明らかに豊かな胸が強調されて目のやり場に困る。


「まぁ、いいだろう。こちらも問題児の扱いには慣れている。今回だけは大目に見よう」


 入学数日でもう問題児の烙印の押されてしまった。自業自得だけど涙が出る。


「だが生徒の中でもこのことを知っている生徒がいる以上、お咎めなしにするのもどうかと思ってな。遅刻して何もない緩い学校だと思われても困る。だから一つ、罰を命じる」


 大目に見る気全然ないじゃん見せしめじゃん罰則大ありじゃん。


 赤磐先生の口元が悪代官のごとく歪む。


「なに心配するな。写真好きのお前にはぴったりとの罰則だ。教室で待っていなさい」



    Θ    Θ    Θ



「ひどい目にあった……」


 覚えて間もない自分の教室に戻り、窓際の席に力なく腰を下ろす。


 放課後になっても残っていた隣の席のクラスメイトが、帰還した遅刻者を見て楽しげな笑みを浮かべる。


「どうだった真也。あの美人教師にこってり絞られた?」


 つい先日同じクラスになったばかりでありながら、フレンドリーに名前を呼んでくるのは小学校時代の同級生、結城湊斗ゆうきみなとだ。切り揃えられた長い黒髪に、モデルといわれても疑わない整った容姿。告白された回数など数えるのもやめたというほどの爽やかイケメン野郎だ。


 落ち着いた黒縁眼鏡の向こう側でおもしろそうに笑う黒い目に、怒りが沸く。


「うるさい。だいたいお前が写真を撮りにいくから遅刻するんだ、なんてことを先生の前で口走るからバレたんだろ。お前のせいだ。全部湊斗が悪い」


「だ、だって、後楽園に写真を撮りにいってから登校するなんて馬鹿なこと、本当にしてくるなんて思わなかったんだよ。もう、わ、笑うなとか無理……っ」


 湊斗は吹き出しそうになるのを必死に堪えながら顔を背けている。


 今回の件は後楽園の桜が満開になる時期を見計らって、ずいぶん前から下見も含めて計画していた。トラブルさえなければ絶対に間に合うはずだったんだ。うん、俺は悪くない。


 しかしまあ、遅刻か写真かどちからを選べと言われたら、写真を選ぶけどね。てへっ。


「ねぇねぇ、結城君と日宮君って知り合いなの?」


 親しげに話す俺と湊斗の様子が気になったのか、近くにいた女子二人が近づいてきた。こちらは同じクラスになったばかりで名前も覚えていない。


 湊斗はすぐに人のよさそうな笑みを顔に貼り付ける。


「真也とは小学校が一緒だったんだ。真也はこの間まで東京に住んでたんだけど、この春から岡山に戻ってきたんだって」


「ええ! 日宮君東京から来たの!?」


「すごいかっこいい!」


 女子たちの表情が途端に色めき立つ。


「別にそんないいもんじゃないよ。人は多いし道はわかりにくいし、いいことなんてないからなぁ」


 自分でも呆れるほど、無愛想にぶっきらぼうに言葉を返してしまう。


「あ、あれぇ? そ、そうなの?」


 戸惑い引きつった笑みを浮かべる女子に、湊斗が手を振りながら答える。


「実際に住んでみるとそんなものなのかもね。田舎人の僕たちからすればうらやましい限りだけど」


「きゃはは! 田舎人ってなにそれ! 結城君おもしろいこと言うね!」


 どこにそんな笑いどころがあったのか、女子二人はけらけらと声を上げて笑っている。


 盛り上がる三人を余所に、俺は鞄からカメラを取り出して電源を入れる。


「わっ、すごい大きなカメラ……。一眼レフカメラってやつ?」


「どんな写真撮ってるの? 見せて見せてー」


 せっつくようにせがんでくる女子生徒の傍らで、湊斗がにやにやと笑っている。この野郎。しかしそう言われればさすがに断るのも気が引ける。


 画面一杯に写り込んでポーズを決める旅行者たちを見せるとややこしい。少し画像を戻し、桜の写真を写し出す。


「これ、つい最近撮った写真だけど」


 さすがに今朝撮った写真とは言えなかった。

 女子二人が目をきらきらと輝かせながら写真を覗き込む。


「うわっなにこれすごい綺麗な写真!」


「これ本当に日宮君が撮ったの? すごい、プロみたい!」


「ど、どうも……」


 おおう……女子高生のあふれんばかりの熱気に当てられて熱中症になりそうだ。


 湊斗がのぞき込んでくるのを横目で見ながら、画像を進めていく。


「ふふーん、真也は写真を撮るのが上手いんだ。コンテストにも入選したって言ってたよね」


「なんでお前が自慢げなんだよ」


 気に入った写真をコンテストに応募したら、たまたま入選したというだけである。展覧会に飾られたことや雑誌に掲載されたことなどもあるが、運がよかっただけである。

 湊斗に再会した際にうっかり話をしてしまったのだ。もう今後はそういうこと黙ったとこ。


「あれ、この人……」


 適当に写真を進めていると、湊斗が声を上げた。

 写し出されている写真は、桜吹雪が舞う中、カメラを構える少女のもの。


「なんか後楽園にいたんだよ」


 遭遇したレアモンスターに驚きを隠せない。信じられないエンカウントである。


「この子、瀬戸高の制服着てるね。この子も知り合いなの?」


「えっと、うん。この子も小学生時代の……」


 湊斗がそう言いかけたとき、がらりと教師の扉が開いて赤磐先生が顔をのぞかせた。


「おーい、遅刻者日宮、罰則の時間だぞー」


 なんのいじめか遅刻者を名指しして連れて行く鬼教師。死にたい。



    Θ    Θ    Θ



 瀬戸高は創立百年を超える歴史ある高校である。


 しかし校舎は最近建て直しが行われたばかりで全体的に真新しい。近年頻発している天災の影響で耐震などの構造に問題があったとかなんとか。築年数もちょうどよかったらしい。


 校舎は並列するように四つの棟が並んでいる。瀬戸高の生徒数は岡山県下随一で、校舎自体も他校に比べればずいぶん大きい。

 赤磐先生は俺を引き連れて、全ての校舎をつなぐ廊下を軽快な足取りで歩いていく。


 そして、建ち並ぶ並ぶ校舎の一番端にある棟へ入っていった。

 四棟目、部室棟である。


 歴史ある瀬戸高は部活動も盛んだ。とはいっても全国レベルの部があるかといえば、それは数えられる程度。部の創設や維持が容易で、数多くの部活が存在しているのだ。横切っていく部屋には様々な表札がかけられている。美術部、イラスト部、天文部、百人一首部、占い部など、多種多様な部活動の名前がある。


「ここだ」


 長々と歩みを進めた赤磐先生は、一つの教室の前で立ち止まった。他の教室にはあった表札は真っ白だった。赤磐先生はノックすることなく教室の扉を開ける。


 部屋一面が、色づいていた。


 部屋の広さは十畳くらいだろうか。あまり使い込まれていない綺麗なタイルにクリーム色の壁紙。中央には大きな机が一つと数脚の椅子。部屋の片側にはホワイトボードと反対側には木製の本棚が置かれていた。


 そして、色とりどりな写真が部屋いっぱいに広がっている。

 机の上に並ぶトレーには山のように写真が積まれ、ホワイトボードには大きな写真が何枚もマグネットで貼り付けられている。本棚にはざっと見るだけでも数十冊のアルバムが並べられ、空いたスペースにはいくつもフォトフレームが置かれている。


 バットをスイングする野球少年。水面から飛び立つ白鷺。お皿に盛り付けられたカラフルなケーキ。紅葉に囲まれた神社。沈み行く夕日と大海原。人物写真、スポーツ写真、動物写真などから料理写真や風景写真まで、数えるのもバカらしくなるほどの写真が部屋中にあふれている。


 色彩にあふれる部屋の主は、入り口の反対側にある窓を背に、分厚いアルバムを手に立っていた。


 突然現れた赤磐先生と俺を見るなり、口をぽかんと開けている。

 俺も開いた口がふさがらない。


 俺たちの反応にはまったく気がつかない様子で、赤磐先生は告げた。


初瀬はつせ、こいつが遅刻カメラマン日宮真也だ。今日から写真部に入部することになった」


 入部することになったって……初耳なんですが……。


 混乱して頬を引きつらせる俺を余所に、赤磐先生は続ける。


「日宮、こっちが写真部部長の初瀬ほとり。お前と同じ一年生だ。これからお前は副部長として写真部を盛り上げていってくれ。それが遅刻の罰則だ」


 赤磐先生はそれだけを言い残すと、他にも用事があるとかで早々に帰っていった。


 いきなり部屋に残される写真部部長と遅刻カメラマン。


 お互いになんとも言えない笑みを浮かべ、視線を中に泳がせる。


「日宮真也君」


 やがて小さくともよく通る声で、少女が俺の名前を呼んだ。


「帰ってきてるなんて、思わなかったよ」


 口元に手を当てながら、嬉しそうに笑みをこぼすその仕草に胸がどきりと打つ。

 俺は肩をすくめながら息を吐き出した。


「悪い。こっちでの生活が落ち着いたら、連絡するつもりだったんだ」


「本当かなぁ」


 いたずらっぽく笑いながら、部屋の主である少女は手に持っていたアルバムを机に置いた。


「立ち話もなんだから、どうぞ座って」


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 机の上に散乱している写真を落とさないように気をつけながら、隅の椅子に腰を下ろす。


「その、ほとり、この散乱している写真はなんなんだ?」


「ああ、ごめんね。私もこの部屋に来たばかりで、まだ片付けをしているところなの」


 少女は俺の反対側の席に腰を下ろし、じろりと目をこちらに向けた。


「それはともかくとして、真也君」


 のんびり話していた少女は咳払いを一つ落とし、そしてむっと口を尖らせた。


「全然連絡もよこさずにいきなり帰ってくるなんて、いったいどういうつもりかな?」




 初瀬ほとり。


 湊斗と同様に同じ小学校に通っていた同級生である。

 出席番号が俺のすぐ前で、それをきっかけに少し話す仲になった。人見知りの激しくはあるがいつも穏やかでのほほんとした、クラスでもあまり目立たない子だった。


 以前俺が岡山にいたときはずいぶん仲良くしていた間柄である。しかし俺が東京に引っ越ししてからは、子どもながらに年賀状のやりとりをする程度になっていた。今更連絡を取って帰ってくるのも気恥ずかしかったので、そのうち家を訪ねてみるつもりだったのだ。


「父さんと母さん、仕事で海外に行っちまってな。着いていくことはできたんだけど、俺はこっちに残ることにしたんだ」


「それでわざわざ岡山に?」


「前に住んでいたところ、会社のマンションだったんだよ。だから俺だけ残るのは、ってな。こっちには家を残してあったから」


「もう……だったらなんで連絡もしてくれないのかな?」


「す、すまんて。悪かったって」


 風船のように口を膨らませてむくれるほとりに、俺はただただ平謝りをするしかなかった。


 岡山を出たときはまだまだ子どもで、岡山から東京に引っ越すということがどういうことかわかっていなかった。もう会うことがないかもしれないということも、戻ってこないかもしれないということも、想像していなかった。


 今朝、後楽園でその姿を見つけたとき、どれほど驚いたことか。

 小学校の頃からほとんど成長していない幼い容貌、雰囲気まで昔と変わらない。


 ほとりは、悲しげに目を伏せた。


「三年ぶり、だね。あのときは、ほとんど話せなかったけど」


「……あのときは、なにも力になれなくて、悪かった」


「はわわ、いやいや、こっちこそごめんね。私も、いっぱいいっぱいだったから……」


 なにやら気まずい雰囲気になってしまい、俺は誤魔化すように頭を掻いて話の向きを変える。


「それで、写真部ってなに? 赤磐先生に遅刻の罰則って連れてこられたんだけど」


「ああ、旅行者さんたちに囲まれてたもんね。私は先に行ったから大丈夫だったけど。真也君のそういうところ、昔と変わってないね」


「別に俺が望んでるわけじゃないんですけどね……」


 なぜだか知らないが、俺は昔から写真撮影をやたらと頼まれる。頼まれるったら頼まれる。一眼レフのような目立つカメラを持っていると、それだけでも頼まれやすいことはあるのだが、俺は小学生の頃からなにかとつけて頼まれる。それは高校生になっても変わっていない。


「でも遅刻しちゃダメだよ」


 真面目なほとりにさらりとたしなめられる。相変わらずの優等生っぷり。


「ダメって、お前だって写真か遅刻かどちらかを選ぶなら写真を選ぶだろ?」


「え、選ばないよ遅刻ダメだよなに言ってるのかな本当に……」


 ほとりは心底呆れたように乾いた笑いをこぼす。


 そ、そんなバカな……。


 ほとりといえば三度の飯より写真が好きな女の子だったはずだ。遅刻程度と写真のどっちを選ぶかといえば、昔なら絶対に写真を選んでいたはず間違いな……いや、これは俺が間違ってるか。


「でも、その人に写真撮影を頼まれるってところは、この写真部にはぴったりかもしれないね」


 その言葉、それと一つ気になることがあった。


「この写真部って、ほとりが創ったわけでもないんだよな? この部屋を見る限り」


 この部屋の状況を入学数日で創り出せるのであれば、それはもう妖怪である。写真妖怪ほとり。


「だいたい、部活紹介で写真部なんて紹介されてなかったと思うんだけど」


 入学式の翌日、新入生全員を集めて一挙に部活紹介が行われている。

 俺も写真を趣味とする人間の端くれ。写真部なるものがあるのならと身を乗り出して聞いていたのだが、百を超える部活の中に写真部の名前はなかったのだ。


「元々、写真部は休部状態だったんだ。二年前に最後に部員が卒業して、休部になったみたい」


 部活動の創設、もしくは休部状態の部を再発足させるには最低二名の部員が必要になるらしい。二名というのは敷居が低いがそれでも部員がいなければ活動もできない。


「私も部活紹介で写真部がなかったのは残念だったんだけどね。せっかく新しく高校生活が始まるから頑張ってみようと思って、担任の先生に相談してみたんだ。そうしたら写真部は休部状態で残っていて、赤磐先生って人が顧問だから行ってみなさいって」


 あの人顧問だったのか。それすら聞いてねぇ。投げっぱなしにもほどがあるぞ。


 どこか寂しそうな表情で、ほとりは笑う。


「私、なにをするにもどんくさくて、これといって取り柄もないけど、写真なら、なにかを伝えられる、つなげていけるって思うから」


 言って、ほとりは隣の椅子に置いていた白色のリュックから一つのカメラを取り出した。

 ニコン製一眼レフデジタルカメラD80、十年近く前に発売されたデジタル一眼レフカメラだ。


 ほとりは嬉しそうに笑いながら、両手でカメラを包み込む。


「覚えてるかな。私が初めて買ってもらった一眼レフカメラで、今でも私の大切な友だちだよ」


 もちろん、覚えている。


 ただでさえ小柄なほとりの小さな手には不釣り合いなほど大きなカメラ。

 販売していた当時の一眼レフカメラの中では比較的小さい部類にあるが、それでもほとりの手には十分すぎるほど大きかった。


 ほとりは買ってもらったカメラを、いつもどこにいくにも持ち歩いていた。出会った人や目にした風景、自分の世界を写真に撮り続けていた。モニターをファインダーとして使うライブビューが使えないことや、現行製品と比べると画素数が少ないなどの欠点はある。だが、発売されてから十年以上たった今でも根強いユーザーやファンがいると聞く。


「ねぇ、真也君。今でも、お兄ちゃんから教えてもらったカメラは続けてるんだよね?」


 投げかけられた問いに、無意識に手がカメラを入れてある鞄に触れる。


「当たり前だろ」


 思わず笑みがこぼれていた。


 俺もほとりと同様に、ずっとカメラを続けている。

 初瀬青葉はつせあおばさん。

 ほとりの十歳上のお兄さんで、ほとりに、そして俺にカメラを教えてくれた人でもある。


 子どもの目から見ても信じられないくらい子どもな人だった。小学生だった俺たちと一緒に公園ではしゃぎ、野山をかけずり回り、海に川に飛び込んで遊んでいた。なにをするにも全身全霊で、見ているこっちが心配になるほどに。ほとりと同じ童顔にどちらかといえば小柄な体型、とても十も歳上のお兄さんには見えなかった。

 ほとりに、D80をプレゼントした人でもある。


 青葉さんは三年前に亡くなった。


 中学生になってしばらくしたころ、俺は両親から訃報を知ることになった。


 ほとりは、自らのカメラを抱きしめながら俯いた。


「私ね、去年までカメラに触れなかったの。お兄ちゃんがいなくなってから、カメラを見るだけでも悲しくなっちゃって、どうやって写真を撮ればいいかも、わからなくなった……」


 俺のアルバムには、今でもほとりと青葉さんが楽しそうにカメラを手にしている写真が眠っている。もう二度と、撮ることができない写真だ。

 歳は離れていたが、二人は本当に仲のいい兄妹だった。俺には兄弟姉妹はいなかったが、ほとりと一緒に弟のようにかわいがってもらった。


 あの青葉さんが、もういない。それを思うだけで、どれだけ心が締め付けられるか。


「でもね、高校に進学するときにお母さんが教えてくれたんだ。お兄ちゃんは昔、瀬戸高の写真部だったんだよって」


「青葉さんが、この写真部に?」


「そうみたい。私も高校は瀬戸高にしようと思っていたから。だったら、高校からはもう一度写真を始めてみようかなって」


 ほとりの小さな手にすっぽりと収まるカメラ、D80。

 長年使い込まれてあちこちに擦れたような傷こそあるが、それでも大事に使われていることが一目でわかる。ほとりにとって、どれだけ大事なものであるかも。

 俺にとって、カメラを持っていないほとりなど想像できない。

 どこにいくにも、いついかなるときもカメラと共にあるのがほとりという女の子だ。


 俺は大きく息を吸い、胸に手を当てる。そして、決める。


「俺も、写真部に入部するよ」


 ほとりが驚いたように顔を上げる。


「遅刻の罰則で連れてこられたけど、元々写真部があれば入部するつもりだったんだ。ほとりがいるなら、なおさらだ」


「真也君……」


 嬉しそうに顔を綻ばせるほとりに、俺も恥ずかしくなって笑みをこぼす。


「部の再発足に必要な人数は二人なんだろ? だったら俺とお前で、写真部だ」


「うん、うん! ありがとう真也君! これからよろしくね!」


「こちらこそよろしく、写真部部長」


 そう呼んであげると、ほとりはうっと言葉を喉に詰まらせた。


「え、えっとあのあの、真也君……私の代わりに部長をやってくれたりは……」


「絶対に嫌だ。部長はお前がやってくれ」


「えええ……そんなぁ……」


 打って変わって机の上にしおしおと崩れ落ちる。


 素早く鞄からカメラを取り出し、カシャと一枚。


「タイトル、『大きな責務に打ちひしがれる』。うむ、いい写真だ」


「ひ、人ごとだと思って……」


「そんなことはないぞ。副部長として、頼りない部長を精一杯支えさせてもらいます」


「き、期待してるかなぁ……」


 ほとりは口を曖昧に歪めながら唸る。

 だが突然、はっとしてカメラを手に立ち上がった。


「そうだ真也君! 記念撮影しよう。写真部再発足記念!」


 言うが早く、呆気にとられている俺を余所に、ほとりはどたばたと部屋の隅の荷物を漁り始める。


 道具の山からアルミ製の三脚を引っ張り出し、慣れた手つきでカメラを固定。

 さらにホワイトボードの写真を手早く外し、マジックででかでかと文字を描く。


 『祝写真部!』


 ほとりは椅子に座っていた俺の手を取ると、ホワイトボードの前に立たせる。

 そして先ほどまで俺が座っていた場所に三脚を立て、カメラのレンズをこちらに向ける。

 素早くタイマーを起動させると、ほとりは俺の隣に来て俺の腕に絡みついた。


「お、おい」


「こうしないとカメラに入らないの。それより真也君、ちゃんと笑ってよ」


 体が密着しているのに照れた様子もなく、ほとりはカメラにピースを向ける。

 俺は努めて顔が赤くならないようにと願いながら、同じようにレンズを見やる。


 視界の隅で、ほとりが笑った。



「その写真にはきっと、久しぶりが写ってるよ」

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