その写真にはきっと
楓馬知
プロローグ
どれほど心を動かされた世界も、永遠に取り戻せない瞬間である。
いつか、あの人に言われた言葉だ。
入学祝いに買ってもらったばかりの一眼レフカメラの向こう側に、新たに満開を迎えた桜が咲き誇っている。
どこからか飛んできたハトが桜の枝に降り立った。かわいらしい首をあちらこちらに傾け、春風をその身に浴びている。
レンズを通し、カメラを通し、俺の目に届けられる風景に口元を緩めながら、シャッターを切る。カシャという小気味のいい音とともに、心を動かされた風景が切り取られる。撮影したばかりの写真をモニターで確認する。青空を背景に、桜とハトが写し出されていた。周囲の桜が少しぼやけ、ハトがほどよく強調されている。春を感じさせる一枚だ。
「タイトルは、シンプルに『春の訪れ』とかかな」
モニターから目を上げると、ハトは翼を羽ばたかせて飛び立っていった。
長々と熱のこもった息を吐き出し、周囲の桜景色に視線を巡らせる。
岡山県岡山市にある日本三名園の一つ、後楽園。江戸時代初期に造られた古い歴史を持ち、国から特別名勝に指定されている庭園である。
後楽園の桜が満開を迎えたというニュースが流れたのが昨日のこと。入学式を終えたばかりの四月上旬、さらに午前八時にもなっていない早朝。園内にほとんど人気はない。
愛用しているカメラバッグから革製のアルバムを取り出す。好きな濃い緑色を基調としたアルバムだ。長年の使用で所々すり減り、色が褪せている。
最初のページを開くと、今と同じ桜色の写真がある。
この写真の日はもう桜が散り始めており、それがまた絵になる素晴らしい光景だった。桜吹雪の下、カメラを持つ兄妹が楽しげにはしゃいでいる微笑ましい写真。
十も歳の離れた兄妹だが、俺の知る限りどんな兄妹よりも仲がよかった。
だけど、この二人が一緒にいる写真を撮ることは、もうできない。一度として同じ光景を撮ることはできないなどという、当たり前の理由からではない。この二人が一緒にいる写真を撮ることが、もうできないのだ。
誰にも、神様にだってどうにもできない場所に、あの人はいってしまった。
「……」
アルバムをカメラバッグに戻し、首から提げていたカメラを持ち上げる。
桜を眺める俺の横を、若い女性がベビーカーを押しながら横切っていった。ベビーカーの中では、まだ小さな赤ちゃんが笑っていた。赤ちゃんながらに目の前の光景に心が動かされるのか、ぷっくりと膨らんだ手を桜へと伸ばしている。
背景と構図がしっくりくる場所を探し、桜並木を進み行く母子をファインダーに納める。
カシャカシャ。
シャッターを切ると同時に、連写したようなシャッター音が響いた。カメラのモードダイヤルに目を落とすが、連写モードにはなってなかった。
首を傾げながら、もう一度カメラを持ち上げて桜に向ける。
しかし再びシャッターを切る前に、もう一度シャッター音が鳴った。俺のカメラではない。
ファインダーをのぞいたまま周囲に視線を巡らせる。
少し離れた桜の下に人影を見つけた。
俺と同じような黒い一眼レフカメラを手にした少女。桜景色の中、お下げにした黒く柔らかなそうな髪が揺れる。少女が着ている藍色を基調としたブレザーは、奇しくも俺と同じ高校の制服。一四〇センチ程度しかないであろう低身長で、高校の制服を着ていなければ中学生か、最悪小学生と間違えそうなほど華奢な少女。
その子もシャッター音に疑問を感じているのか、カメラを見下ろして首を傾げている。
どこか浮き世離れした、幼い容貌の綺麗な少女。
長いまつげの下で瞳が動き、カメラを構える俺へと向けられる。相手もこちらに気づいた。
先ほどの母子のように離れた場所から個人がわからないように撮影するならまだしも、断りもなく他人にカメラを向けるのはよろしくない。
カメラを下ろして立ち去ろうとしたとき、少女がカメラを構えてこちらに向けた。口元には笑みが浮かべられており、カメラを向けた俺を咎めるつもりはないようだ。
二つにまとめたお下げ、小柄な容姿、その小さな手には不釣り合いな無骨なカメラ。
その瞬間、カメラを構えるその少女に胸がどくんと脈打った。
体が強ばり、シャッターボタンに掛けていた指が意図せずシャッターを切ってしまう。同時に、少女のカメラからもシャッター音が響いた。
カメラを下ろし、桜景色の中に佇む少女に目を向ける。
少女もカメラを下ろしてこちらの姿を認めると、驚いたように目を見開いた。
一際強い風が吹き抜け、視界に桜色が舞う。
桜吹雪の向こう側で、少女の口元がほころんだ。
「おかえりなさい」
懐かしく、鈴の音のような声が響く。
記憶の中から込み上げてきた感情に喉が震え、俺も笑みを漏らす。
「ああ……ただいま」
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