第74話 君とエレベーターで


エレベーターを降りた後、どのようにして優也と別れたのかまったく思い出せない。そこだけぽっかりと記憶が抜け落ちているのだ。おそらくは当たり障りのないことを言って普通に別れたのだろうが、お互いどんな顔をしてどんなふうに言葉を交わしたのかは、いっさい記憶になかった。



……もう二度と会えないかもしれない。



その思いだけがずっと頭の中でぐるぐる回っている。かもしれない、ならまだいい方で、絶対に会えるわけがない、とも思った。絶対に会いたくない、とも思った。なぜならあれが何かの間違いであることは、悲しいけれど確実だからだ。次に会ったとき、その現実を思い知るのが怖かった。優也が僕のことを本当に好きになるなんてこと、あるわけがない。



あれはすべて夢だったのではないだろうか。その方がまだ納得がいく気がする。僕は今日きっと、酒に酔って店のテーブルの角に頭でもぶつけたのだ。打ちどころが悪く、病院で生死の境を彷徨いながら、最後に見た夢があのエレベーターでの出来事なのかもしれない。それはあまりにリアルで、想像なのに哀れみをおぼえた。



……でも。万に一つ、いや、億に一つでも、間違いではなかったとしたら?



「……馬鹿みたいだな」



口に出したらなおさらそう思えた。馬鹿みたいだ、そんな期待をすること自体がもう浅ましい。でも、信じたいと願う自分も確かに存在する。それは紛れもなく優也のことが好きだからで、会いたくないという気持ちとすぐにでも会いたいという相反したふたつの気持ちが、体内でぐちゃぐちゃにせめぎ合っている。



だから閉店後のデビルジャムでテーブルに置き忘れられた優也の携帯を見つけたとき、僕は感動した。神様に、理由をつけてもう一度会うチャンスをもらったような気がしたからだ。







ふたりで動物園に行ったことがはるか昔のことのように思える。あのとき僕は、アプリで高画質の写真を撮るという名目で優也の携帯のパスワードを聞き出し、無断でGPSを忍ばせたのだった。メンヘラの極みである。自覚はある。当然褒められたことではないが、そのおかげで自宅はとっくに知っていたので、忘れ物を届けるのは簡単だった。



チャイムを押して少し待ったあとで、どう見ても寝起きという風貌の優也がもそもそと玄関のドアを開けたとき、口から心臓が飛び出そうになった。それはまさしく萌えと呼ぶにふさわしい。

ぼさぼさの髪も、半分しか開いていない目も、眠そうな顔も、まるで少年のようで、そのすべてが愛おしいと思った。



しかし優也はそんな尊い気持ちも知らず、訪ねてきたのが僕だと寝ぼけた頭で理解するやいなや、顔を引き攣らせてたじろいだ。



「な、な、な」



あきらかに動揺している。嫌がっているように見えなくもない。この僕の唇を奪っておいて、そんな対応はあんまりじゃないか!!



安定の情緒不安定の僕は、ネガティブさえも吹き飛ばし、瞬時に憤った。

だから嫌がらせのため、わざときらきらの笑顔で応じて見せる。ざまあみろ、もっともっと動揺すればいいのだ。



「おはよー優也。来ちゃったっ」


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