晩夏の舟と宵花火
楠木千歳
上
誰がなんと言おうと、木の床に寝転ぶ快適さは絶対に譲らない。
いかに人類の文明が発達して冷房機器が進化を遂げようと、冷感寝具の類が世の中に出回っていたとしても、だ。
「あっづー……」
東北だから、夏だってそんなに暑くないんだろうって? おいおい、甜めちゃいけないさ。そりゃ南国に比べれば涼しいことは確かだが、夏場の風呂上りが灼熱地獄なのは万国共通なんだからな。
まあ、夜中に冷房がいらないのは少し経済的かもしれない。それくらいは譲歩してやらんこともない。
元来暑がりの俺はいつも通りの甚平姿でごろりと横になり、そのままころころと冷蔵庫の前まで移動した。文明の利器が最高なのは認めよう。だがしかし、床の快適さは譲れない。
寝転んだまま手を伸ばし、冷凍庫へ。
親のスネならぬ組織のスネ? をかじって生きている俺には電気代の心配も必要ない。従ってこのように、働きもせず……ええと、「ひきにーと」生活を満喫して送ってもなんの問題もないわけで。
出てきた棒アイスはぶどう味だった。
当たりだ。
俺の中ではぶどう味は当たりなのだ。ちなみにハズレはパイナップル味。あれは舌がしびれてどうにも好かない。だがこのアイスは12本の箱入りあそーと、とかいうものだから、いつかはパイナップルも消費しないといけないのが少々憂鬱だ。
袋は破って冷蔵庫のそばにあるくずかごへ入れた。俺が最近編み出した究極のぐうたら術だ。寝たまま移動、寝たままアイス、寝たままごみを捨て寝たまま続きを食べる。なんという贅沢。
夜半過ぎの涼しい風が部屋の中を吹き抜ける。川べりからやってきた使者は風呂上りの体の熱を奪い、冷ましていく。
平穏で平凡な夏の夜。十畳一間、ひとり暮らしには十分すぎるアパートの一角。
これほど幸せな引退生活は他にあるまい。
だが。
今年の夏は、少しばかり、いつもと様子が違っていた。
「いっすっずー! 起きてるー??」
「……五月蝿い」
草木も黙る丑三つ時だぞ。こんな時間に大声を出す馬鹿がいるか。
怒鳴り返そうとして、やめた。流石に大人気ない。
無視しよう、そう決めてごろりと寝返りを打った時だった。
「あ、起きてる。アイス食べてるの? あたしも欲しい」
「だからベランダから侵入してくるのやめろよ!!!」
ひょっこり、窓から小さな顔がこんにちは。
夜風に乗って短い黒髪が揺れる。無邪気に笑う彼女は悪びれもせずのこのこと裸足で入ってきて、俺をさらに怒らせる。
「待て! せめて足拭け足! 動くんじゃねえ!」
慌てて雑巾を放り投げた。ないすきゃっちー、と自分で言いながら幼女が足を擦り、ぽい、とそれはその辺に捨て置いて俺のそばへやってくる。
「あたしも、アイス」
「子供は駄目」
「いすずはどうしていいの? 大人だから?」
「俺は神様と慕われるお狐様だから」
変なの、と少女はふてた。信じようが信じまいが、それは彼女の自由だ。
尻尾も耳もない、これといって目立つ容姿もしていなければ神通力みたいなものを彼女に見せたこともない。
そこへ「ハイ、ワタシが狐です、神様です」なんて言う馬鹿がいたら、俺ならすぐに無視して空気扱いする。
でも、本当の事なのだ。
三千年も生きて神使だのなんだのと頑張りまくった挙句肉体がなくなっちまった俺が、引退と同時に若い乙女の体を借り受けたんだよ。信じてよ。
褐色に近い肌の色、短い……べりーしょーと、とかいう髪型。偶然とはいえ、この口調で喋ってもあまり違和感のない男勝りな体を手に入れられたのは幸運だった。男の体? 憑依するなら女がいいに決まってんだろ。
安心しろ。今は元植物状態だった彼女の負担を減らすのに俺が人格まで乗っ取っているけども、ちゃあんと治癒も抜かりなくやってるし心の目が覚めれば喜んでお返しするさ。
何より生きたいと強く願ってる、心優しく芯の強い女の子だったからな。善良な人間にお狐様は優しいのだ。
「ていうか、女の子なのにまた弥涼『俺』って言った。おばあちゃんに怒られたことないの?」
「菊池のばあちゃんの前では言わないから」
「なにそれずるい」
狡くはない。生き物ってそんなもんだろ。
いい子ちゃんでいる時代は卒業したんだ。第一線を退いたんだから、そろそろこれくらいの悪さは大目に見て欲しい。
「ばあちゃんは?」
「ねてるよ」
「お母さんは?」
「ねてる」
子供がこっそり起き出して、気づかない親なんているもんだろうか。それとも彼女の抜き足差足が忍者級なのか。
「あんなとこから入ってきて、落ちたらどうするつもりだよこのじゃじゃ馬。言っておくが俺は責任取らないぞ?」
「神様なのに?」
「事故死は管轄外だ」
そういう時だけ都合がいいんだから、とまた少女はふくれた。全く同じセリフを両親から散々言われていると見た。ちょっとませた口調がおかしい。
「……で? ひとみは? 寝ないの?」
「ねむくない」
そうか。とだけ返しておく。あいにく俺は溶けだしそうなアイスを食うので忙しい。
しばらくの間、ひとみはじっとオレがアイスを消費していく様を眺めていた。
「見るの、やめてくれない?」
「じゃあちょうだい」
「俺がばあちゃんに怒られるもん」
「……それはかわいそう」
ひとみはアイスを断念したようだ。どんだけ怖いんだ、菊池のばあちゃん。考えるのも恐ろしい。
彼女は俺の隣の家に住む、菊池のばあちゃんの孫娘だ。
名前を榛名ひとみ。菊池は母方の苗字だろう。
ばあちゃんは今年、御主人を亡くされて、広い一軒家を引き払ってここへ越してきた。
去年まではその大きな家に一家全員で里帰りしていたそうだが、今年はひとみの兄が高校受験とやらがあるので父と残ることになり、母とひとみだけが一週間、ここに滞在することになってやってきたというわけだ。
ひとみは快活な子供だった。頭も悪くないし、大抵の場合は(俺限定でかもしれないが)いいつけをしっかり守る聞き分けの良い子供だ。
いい子だが……子供の相手というものが面倒臭いというのは、太古の昔から変わらぬ事実である。
一つ、質問が多い。
一つ、目を離すとろくなことが無い。
一つ、常に危険と隣り合わせ。
ばあちゃんには普段からよくしてもらっているから、日中の子守くらいはと思って一度引き受けたのが間違いの元だった。俺が面倒な質問の答えには全て「神様だから」とか「お狐様だから」と答えていたら、それが面白かったのかなんなのか、今じゃ懐かれてしまってこんな夜中まで訪問を食らう羽目に陥っている。
だが彼女との日々が穏やかな気持ちをくれるのもまた、不思議な事実なのだ。
「ねえ
「祭り……ああ、舟っこ流しか」
この地域一帯では、割と大きな祭りである。後に花火大会までくっついてくる、一回で二度美味しい……悪くいえば抱き合わせ販売のような祭りだ。俺としては舟っこ流し一つで十分だと思うんだけど。一応花火も鎮魂のくくりではあるし、趣旨としては逸れていない。観客が動員できないとか、理由は色々だろうな。現代社会はしがらみが多くて大変そうだ。
「おじいちゃんがね、天国へ帰る日なんだって」
「ああ、そうだな」
送り火だもんな。
「弥涼も行く?」
「んーどうかな。家で寝てると思うぞ」
悪ガキ時代にはしょっちゅう人の多いところに化けて出たものだが、本来人混みは好きな質ではない。見ようと思えばこれから先いくらでも俺は見られるし、明日ごろごろしていてもなんの問題もない。
「行かないの?」
「ああ……うん」
「い、か、な、い、の?」
「まあ」
「行くよね?!」
「え」
「行くよ」
……強制になった。
「おばあちゃんに浴衣着せてもらうの」
「そりゃ良かったな」
千年昔にはただの部屋着どころか湯浴み着だった浴衣が、気付けば晴れ着にまで進化を遂げている。世の中の変遷を予測するのは難しいもんだ。平安時代の人間様に見せてやりたい。
「やったね、弥涼と花火」
「まだ行くって言ってないけど」
「弥涼と、花火……」
俺のそばにころん、と横になったそのまま転がるようにして眠りの海へと落ちていった。
「眠くないとか言ってたのはどこの誰だよ、全く」
風邪をひかれてはかなわない。俺は布団をひいて彼女をだき抱えると、そこを彼女へ譲ってもう一度床へと寝そべった。
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