18.隣人さんと子悪魔のアドバイス

 近所の散歩を始めてから既にしばらくの時が流れていた。

 時折休憩しながら、今は丁度いつも俺がよく行くスーパーの近くを歩行中だ。


「へー、つまりこれって須藤さんの体質改善の一環なんですね」

「一応そういう目的でやってるつもりなんだけどね」


 中々上手く行かないんですよ、これが。毎回それほど会話にならないというか、すぐに会話が途切れてしまうというか、こちらから話しかけてもたまに反応しないこととかあるし。この訓練をやる度に俺の一人喋りスキルだけが向上していく。


「そうですか、だとしたら私悪いことしましたかね」

「い、いえそんなことはないです。私にとってはとても心強い味方ですから」


 須藤さんの言葉に小夏ちゃんは少し苦い表情を浮かべた。


「えーと、そう言ってくれるのは嬉しいんですが、そんな考えじゃいつまで経ってもその体質治らなくないですか? 本当に治したいならもうちょっと本気でやった方が良いと思いますけど」


 中々に辛辣な言葉だが、今の須藤さんには良い刺激かもしれない。俺だったらこんなことは言えないからな。


「本気ですか……」

「そうですよ、もっと本気でやるんです。例えば男の人と話すのが苦手だったら逆に男の人と積極的に話す気持ちでいかないと」

「積極的にですか?」

「そうですよ、要は慣れなんですから」


 小夏ちゃんはそこでふーんと少し考えると軽くポンと手を打った。


「例えば今そこにいるナッキーさんを押し倒すとかどうですか?」


 あれれ、どうしてそうなったのかな? 今まで折角良い流れだったのにいきなり変な方向に急転換したぞ?


 咄嗟のことに小夏ちゃんの方を見ると、彼女はどこかで見覚えのある意地の悪い笑みを浮かべていた。確実に面白がってるな、これは。


「お、押し倒すですか!?」

「そうです、ただ押し倒すだけです。別にその先のことをやれとまでは言っていませんよ」

「そ、その先!?」

「さっき要は慣れだって言いましたよね。ここで押し倒すというこの上なく恥ずかしい経験をしておけば男の人の前で話したりすることくらいどうってことなくなると思いませんか?」


 これこそ悪魔の、いや小夏魔の囁きというやつなのだろう。言っていることはメチャクチャなはずなのにどこか正しいと思えてくるような、そんな力がある。


「た、確かにそうかもしれないですね」

「そうですよ、それに普通の成人男性はみんな須藤さんみたいな可愛い人なら押し倒されたいと思っているものなんです。だからこれはウィンウィンな関係なんですよ」

「ウィンウィン……」


 あれ、このどことなく偏った知識は以前どこかで聞き覚えが……って今はそんなことを考えている場合ではない。このままでは須藤さんがダークサイドに堕ちてしまう気がする。


「ちょっと小夏ちゃん、一旦ストップしよう。そういう洗脳みたいなことは止めた方が良いんじゃないかな?」


 ちょっとナッキーさんも怖くなってきたから。


「洗脳? ナッキーさんは一体何を言ってるんですか? 私が人を洗脳するなんてこと出来るわけないじゃないですか。全くおかしなナッキーさんですね」


 いや、それが出来ちゃってるんですよね。だって須藤さんの目とかもう虚ろだもん。そして小夏ちゃんの目は少し怖い。


「そっか、でも一旦この話は止めようか。ほ、ほら、近くの公園で少し休憩しようよ、飲み物でも奢るからさ」

「え、良いんですか? じゃあお言葉に甘えさせてもらいますね。ありがとうございます、ナッキーさん」


 表面上は良い子そうに見えるのにどうしてこんな感じなんだろう。やっぱり大家さんの妹だからなのかしら。


 しかしこれで小夏ちゃんの暴走を止めることは出来た。このまま公園のベンチで飲み物を飲んで心と体をリセットすれば、全てが元通りなはず。


 そのはずだった。


 公園についた俺が近くの自動販売機に行こうとした時である。突然誰かが俺の服の裾を掴んだのだ。


「……ナ、ナッキーさん」


 この妙に色っぽい声は男の俺には少々刺激が強すぎる。声がした方を向くとそこには顔を真っ赤にした須藤さんが虚ろな目でこちらを見ていた。


「ちょっと、須藤さん?」


 呼び掛けても返事がない。

 しかし彼女はそれから顔を下に向け、少し恥ずかしそうな表情で口を開いた。


「私のお願いを聞いてくれませんか?」


 そんないつもと様子の違う須藤さんにふとさっきのことを思い出してしまう。

 まさか本当に俺のことを押し倒そうとしているのか?


 いや、あの須藤さんに限ってそんなことはあり得ないが万が一ということもある。というわけで小夏ちゃんに助けを求めれば、彼女はグッと親指を上に立てて微笑んでいた。駄目だ、役に立たないわ、この子。


 仕方ない、こうなったら自分で解決するしかない。様子のおかしい須藤さんをまずは近くのベンチに座らせる。


「須藤さん、俺はちょっと飲み物を買ってくるので少しの間ここで待ってて下さい」


 またも返事がない。気にせず自動販売機に向かおうとしたところで突然、後方に力が加わった。バランスが崩れる体、それは咄嗟にベンチへと座ることで落ち着きを取り戻す。


「ちょっといきなり何するんですか……って須藤さん!?」

「ナッキーさんは私に協力してくれるって言いましたよね。だから良いですよね」


 気付けば俺はベンチの上で押し倒されていた。ベンチから伝わる熱で皮膚がヒリヒリと焼けるように痛いが、今はそれどころではない。


「こんなことは止めましょうよ。いくら何でもやり過ぎですって」

「そんなことはないですよ」


 そう言って須藤さんは俺に顔を近づけてくる。徐々に近づいて来る彼女の顔、そしてそのまま彼女は──。


 意識を失ってしまった。


「……須藤さん!?」


 倒れてくる体を支えながら必死に呼び掛けるが、返事がない。まさかと思い、彼女の額に手を当てるとそこからはかなりの熱が俺の手に伝わってきた。


「ちょっと小夏ちゃん、救急車呼んで!」

「は、はい!」


 まさかこんなことになるとは……。

 俺は須藤さんの体を支えながら急いで彼女を日陰へと移動させた。

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