13.大家さんと夏の定番
突然だが夏の定番と言えば何だろうか。
例えばかき氷、海、夏祭り、ここら辺は夏の定番と言えるだろう。
これらに多く共通するのは夏だからこそ楽しめるものだということ。冬にかき氷を食べてもただの拷問だし、冬に海に入ればそれはただの寒中水泳で何も楽しくはない。冬に夏祭りというのはそもそも出来ない。
とにかく夏に楽しめるからこその夏の定番なのであって、夏にやらなくてもいいだろということは夏の定番ではないはずなのだ。
だから今のこれもきっと違うはずだった。
「では早速始めましょうか」
「わ、私は何があっても大家さんに付いていきますよ」
須藤さん、大家さんは多分付いていったら駄目な人のお手本みたいな人ですよ。
そう思ったが口には出さない。というかそれを言うほどの気力が既に俺の中にはなかった。暑い。
「ナッキーはもう準備完了かしら?」
「準備完了というか、始める前から既に限界なのでもう帰っても良いですか?」
「ここが貴方の部屋だということも忘れたのかしら?」
そうだった、あまりにも暑くて脳が溶けていた。
「これって本当に今の時期にやらないと駄目なんですか?」
「ええ、今の時期でなければ駄目ね。だってこれは毎年夏このアパートの全員でやる定番のイベントなのよ。大丈夫、始めればきっと楽しいはずだから、多分」
「毎年夏に全員でやるって去年は大家さん一人だけですよね。定番も何もないじゃないですか」
「細かいことは気にしないのがお約束よ」
駄目だ、このまま大家さんと会話をしていたらいつまで経ってもこの地獄から抜け出せない。だとしたら早く始めた方がいいのかもしれない。
「分かりました、やりますよ。やってさっさと片付けましょう」
「そう、じゃあこれで全員自分から進んでこのイベントに参加するということを表明したわね」
そんな自分から進んで表明した覚えはないんですが。
「というわけでここから先は例え何があっても自己責任でお願いするわよ」
大家さんはそう言うと一度深呼吸をする。そして息を整えると彼女は目の前にある鍋の蓋を持ち上げた。
そう、さっきから話していたのは大家さん曰く、このアパートの毎年夏恒例のイベントであるという鍋パーティーのこと。
どうして大家さんがこんなクソ暑い夏に頭のおかしなイベントを開催することにしたのかは分からないが、彼女が普段以上に正気ではなかったということだけは十分に分かる。
「やっぱり夏は鍋よね」
ここは『それを言うなら冬ですよ』と突っ込みを入れるのが正解か、それとも大家さんに同調して『そうですね』と答えるのが正解か。
「「「いただきます」」」
そう考えてすぐにそもそもこの鍋パーティー自体が間違っているということに気づいた俺はそれから無心で大家さんから渡された取り皿に鍋の具材をよそっては自らの口の中に運んだ。あらやだ、美味しい。
◆ ◆ ◆
嫌々ながら始まった地獄の鍋パーティーもやってみれば意外とあっさり終わってしまった。
「ご馳走さまでした」
一人先に手を合わせれば、それに続いて他の二人も同じように手を合わせる。
それから俺は鍋を持って一人キッチンへと向かった。後片付けは俺の仕事なのである。
「じゃあ後片付けはお願いするわね」
「よ、よろしくお願いします!」
「あ、ああ任された」
というよりやることになっていなくても俺は後片付けを率先してやっただろう。
「意外と夏に鍋っていうのも良いものですね、大家さん」
「そうね、夏だからこそ熱いものをという敢えての発想よ」
「流石です、大家さん!」
別に後片付けが好きだ、そこだけは誰にも譲れないとかそういうわけではない。
「ナッキー、これもお願いするわね」
「は、はい、そこら辺に置いておいて下さい」
「顔が赤いけれど……。もしかして貴方にはこの暑さが耐えきれなかったのかしら? もしそうだとしたらごめんなさい。貴方が貧弱だということを考慮していなかった私が悪いわね」
「そうですね」
「他に何か言うことはないの?」
「ないですよ」
「そう、詰まらないわね」
だったら何故俺は後片付けをしているのか、それは……。
「目のやり場に困りますって……」
そう、単純に目のやり場に困るのだ。
俺もそう、もちろん今俺に構ってもらえなくて詰まらなそうな表情で部屋に戻っていった大家さんもそうなのだが、こんなクソ暑い部屋で鍋パーティーなんてものをすれば当然人間という生き物は汗を掻く。
それで服が濡れてしまうのは必然、そしてその影響で下着が透けて見えてしまうのも、もはや必然的なことだった。白ワンピースからの白とオーバーサイズ白Tシャツからの薄ピンクである。
まさかこの歳になってこんな思春期みたいな理由でソワソワすることになるとは。
しかしどうするか、今は洗い物をしているから良いものの、洗い物が終わったら俺は再び彼女達と向き合うことになる。そうなれば必然的に視界に白と薄ピンクが入ってきてもおかしくはないだろう。
そんなことを考えているとキッチンに新たな人物がやって来た。
「あ、あの私も手伝います。一人だと大変ですよね……」
やって来たのは薄ピンクの方……もとい須藤さんだ。
「えーと、こっちは一人で大丈夫ですよ。須藤さんは大家さんと寛いでいて下さい」
今のはもちろん彼女を実際にこの場から遠ざけたいからそう言ったのであり、決して一度断るという日本人特有のマナーなどではない。
しかし他人から見れば、それはそういうやり取りに見えてしまうものらしく……。
「い、いや、私も手伝います。流石にナッキーさん一人にやらせるのは私の心が持ちませんので」
「そうですか。じゃあお願いしてもいいですかね」
こうなってしまえば最早断れるような雰囲気ではなかった。
というわけで洗い物を手伝ってもらうことになった俺はいっそう心を無にして鍋を洗った。
二人で後片付けをすること十分、一通りの後片付けを終わらせた俺は大家さんがいる部屋に戻ってきていた。さて、ここからが本番だ。
「じゃあ私達はそろそろお暇するわね」
「お、お邪魔しました」
あれ、いつもならここで大家さんあたりがかき氷を所望してくるはずなのだが。
「か、帰るんですか?」
「ええ、何か不都合でも?」
「いやそういうわけではないですけど」
これはどういうことなんだ。大家さんがかき氷を所望してこないなんてどう考えてもおかしい。
「須藤さんは先に戻ってて良いわよ。そういえば彼と話があるのを思い出したわ」
「はい、分かりました」
それともあれか。鍋を食べたからお腹が一杯だとか。
「ナッキー、ちょっと良いかしら?」
いや、大家さんならそれでも『かき氷は別腹なのよ』とか言って食べそうである。
「ちょっと……」
だとしたら……。
「ナッキー!」
ふと呼ばれた気がして前を見れば、そこには大家さんただ一人だけがいた。少し不満げな表情なのはもしかして俺のせいなのだろうか。
「あれ、須藤さんはどうしたんですか?」
「何言ってるの、彼女ならついさっき帰ったじゃない」
「そうですか」
そうか帰っていたのか、全然気づかなかった。
「でも何で大家さんはここに残ってるんですか? さっき帰るとかなんとか言ってましたよね?」
「そうね、でもちょっと貴方に話があるのよ」
大家さんはそこでいつもの意地の悪い表情を浮かべて微笑む。
「何ですか?」
今回はどんなことで俺をからかってくるんだと身構えれば大家さんは突然こちらに近づいて来た。
「貴方、さっき私に対して素っ気なかったじゃない?」
「そうですか?」
「そうよ、そこで私どうしても納得がいかなくて考えていたのよ。どうして貴方が素っ気なかったのかって……」
そこで大家さんは一度言葉を切ると、浮かべていた笑みをより一層深める。
「これを見ていたからなんでしょう?」
そう言って大家さんが指を差したのは自分の胸元だった。彼女の服は今も尚濡れており、その服の下の下着もくっきりと透けている。
「ちょ、いきなり何やってるんですか!? 見てないですよ!」
「嘘ね、私の目は誤魔化せないわよ?」
はい、確かに嘘です。でもこの状況で本当のことを言ったらそれはそれで一生ネタにされそうである。
だから俺がこれから先を平穏に過ごすためにはこの嘘を貫き通すしかない。
「う、嘘じゃないですよ、ええ。断じて見てません」
「本当かしらね。私、貴方のそんな面白い反応は初めて見たわよ?」
「もしかして大家さんは痴女なんですか?」
「失礼ね、私はただこんな服から透けた下着くらい貴方に見られてもどうってことないだけよ。寧ろこんなもので貴方の動揺した表情を見られて嬉しいくらいね」
それって痴女じゃないの?
「とにかく見てないですから、離れて下さい!」
「素直じゃないのね。まぁ良いわ、今回はこのくらいにしておいてあげる」
大家さんは最後にフッと笑って俺から体を遠ざける。
ようやく離れてくれた。しかし、どうしてそこまで俺をからかうことに全力になれるのか。本当に大家さんの考えていることはさっぱりだ。
「じゃあまた銭湯に行く時間にね。次は何色が良いかしら?」
「知りませんよ! 早く帰って着替えて下さい!」
「そう、分かったわ。それと須藤さんにはそれとなく伝えておいた方が良いわよね。いくら私が近くにいたからとはいえ、男の前であんなに無防備だとやっぱり心配だものね」
「それは大家さんも言えたことじゃないですが……。そうですね、是非そうしてあげて下さい」
「折角だし貴方が彼女の透けた下着を見ていたことも含めて伝えておくわね」
「それは止めて下さい」
「冗談よ、じゃあ今度こそ行くわね」
こうして大家さんは例の笑みを浮かべながら帰っていった。
やっぱりあの大家さんはどこかおかしい。
そう思うのはこれで大体二十回目くらいだった。
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