第87話 不揃いのブーケ

「それじゃあ、天くん」


 引っ越し当日、荷物をまとめた俺は部屋の入り口で紫苑と話していた。


「わざわざ見送りなんてしなくてよかったんだぞ。紫苑たちは普通に授業あるだろ」

「いいんです。先生にも午後から出るって言ってあるので。それに、授業をサボるっていうの、一度はやってみたかったので」


 そう言って紫苑は嬉しそうに笑った。


 駐車場からドアを閉める音が聞こえる。母親のほうも準備が終わったようだ。


「・・・・・・あのさ」

「大丈夫ですよ」


 言葉を遮るように紫苑が前に出る。


「もう言うべきことは言いました。だから謝らないでください。寂しいですけど、悲しくはないです。そうですよね、天くん。これからは、始まりなんだって」

「ありがとう」


 紫苑は俺のどこまで見えているのだろう。俺も早く、紫苑のすべてを知りたかった。


 カバンを担いで、扉を閉める。大家さんに言われたとおり、鍵はガスメーターが入っている扉の奥に入れておいた。


 大家さんとはほとんど話したことはなかったが、立ち退きの件を伝えると俺のことをとても心配してくれて一週間前には差し入れをたくさんもらってしまった。


 どうしてほとんど話したこともない俺にそこまで親身になってくれるのか、大家さんのしゃがれた声からは答えを見つけられなかった。


「こんなんでいいのか」


 鍵を置いておいてと言ったのも大家さんだ。俺を信頼しているのか、大家さんが元々大雑把な性格なのかはわからない。


 下に降りると母親が額の汗をタオルで拭いていた。隣にいた紫苑が頭を下げる。


「ごめんなさい、あんまりお手伝いできなくて」

「なーにいってんのよ、こんなかわいい女の子に力仕事なんてさせるわけにはいかないでしょ。汗かくのは年寄りの仕事なんだから」


 母親と紫苑が仲睦まじげに話す。今朝が初対面のはずだが、すっかり打ち解けてしまったらしい。


 母親の声色も、そして態度も、俺に向けられるものとは大きく違った。母親はもしかしたら娘のほうがほしかったのか、なんてことを思った。


「いいから、入れよ」


 いつまでも母親が話していてもラチがあかないし、紫苑と楽しそうに会話しているのが面白くなかったので、ぶっきらぼうにその背中を押して車に押し込んだ。


「長旅になるんだから、トイレいっときなさいよ」

「いったって」


 窓から母親が顔を出す。いつまでもしつこい、俺だって子供じゃないのだ。


 助手席に荷物を放り込む。こうすれば俺が助手席に座ることはないだろう。


「じゃあ、そろそろ行くよ」

「はい」


 正面から見つめ合うと言葉が出なくなる。言いたいことはたくさんあったはずなのに、何を言えばいいかわからない。


 かといって、最後の時間を些細な会話で潰したくない。なにか、なにか伝えるべき大切な事柄は・・・・・・。


「天くん」


 口火を切ったのは紫苑だった。


「今日の夜、ゲームしましょう」

「え、ゲーム?」

「はい。あの、ゲームセンターでやっていたゲームです。調べたら家庭版もあるみたいだったので」

「ああ、あれは、うーん」


 あまり乗り気ではなかった。


 というのもあのゲームはたしかに面白いが、不満も多くあって、何度も復帰と引退を繰り返しているゲームだったのだ。


「やりはじめても、またやめちゃいそうなんだよな」


 別れ際の会話がゲームって、俺はとことんオタクなんだな、と思わざるを得なかった。


「結局さ、何度もやめるってことは、明確にやめたくなる理由があるはずなんだ。だから長続きはしないのかな、なんて思う。だからそのゲームは・・・・・・」

「そうでしょうか」


 紫苑は純粋に疑問に思ったようで、小首を傾げて俺の顔をのぞき込んできた。


「それでも、何度もはじめるってことは、はじめたくなる理由もきちんとあるんだと思います」


 飴色の瞳が、前髪の隙間で淡い光を放っていた。


「嫌いだから何度もやめるんじゃなくて、好きだから何度もはじめるんです。きっと」

「紫苑・・・・・・」

「そう、教えてもらいました」


 紫苑が俺の首元に手を伸ばす。糸くずのようなものが乗っていたようで、それを取ってくれる。


「・・・・・・わかった。じゃあ、夜な」

「はいっ」


 言うと、紫苑は嬉しそうに笑い、髪が上下に跳ねた。


 俺の言葉一つ一つにそこまで喜んでくれることが嬉しくて、胸が温かくなっていく。


「それじゃあ、また」

「ああ。また」


 車に乗って、窓から顔を出す。


 俺は紫苑が見えなくなるまで手を振って、車が曲がり角を曲がったあたりで顔を引っ込め窓を閉めた。


「彼女?」

「まあ」

「へえ」


 途端にぎこちなくなる会話。


 俺は足を座席に放り投げて、窓に頭を預けてもたれかかった。


「一人でも見送りにきてくれる人がいてくれてよかったじゃない」


 返事はしなかった。皮肉のようにもとれて、胸の奥がざわついたのだ。


「心機一転、いい機会なんじゃない?」


 転校してからのことなのだろう。


 母親としては、俺の人間関係の薄さを危惧しているようにも聞こえた。余計なお世話だったが、それは口には出さなかった。


 車内から、外の景色を眺める。


 近くにはコンビニとスーパーがあるが、その先には行ったことがなかった。二年もここで暮らしておいて、俺は何を見ていたのだろう。自分の行けるところにしか行かず、周りの風景すら見ていなかった。


 だからこうして俯瞰的に見る景色が新鮮で仕方がなかった。


 学校に行く際、いつも通っていた道にさしかかる。


 あと十分のところでこの看板が見えると遅刻確定、ここは何故か火曜日だけ人通りが多い、ここには毎年冬になると雪だるまが並ぶ。ここに住んでいるじいさんとは毎朝目が合っていた。


 そんなどうでもいいことを思い出すが、これからはそんな些細な日常も俺の前から消えていくのだと思うと、寂寥に包まれたように肩が重くなる。


「そこ、左曲がって」

「え?」


 気付けば俺は母親にお願いしてある場所を見たがっていた。


 母親は無言でハンドルを左にきった。


 見えてきたのは学校だった。


 二年間、俺が過ごした場所。


 入学したときはなんとか人の波に溶け込もうと普通の人間を演じていた。だがそれも長くは続かずに小中と同じぼっちに戻ってしまった。


 学校では一言も喋らずに家に帰ればアニメを見てゲームをして、寝るだけの毎日。


 機械的な日々に最初は恐怖すら感じていた。俺はなんのために生まれてきたのだろう。壁を這う蜘蛛のように同じ行動を繰り返して毎日を生きる。なんて無意味な存在なんだろうと、小学校の頃に思っていた感情が再び蘇る。


 校門はシンとしていて人の気配はなかった。


 一度だけ、俺はこの校門で挨拶運動をしている委員に、大きな声で挨拶を返したことがある。


 声を出すようになったのは二年からだ。


 このまま真っ暗な生活を繰り替えすだけだと思っていた俺の視界をむりやりこじ開けた奴のせいで、俺は少しばかり日の光を浴びすぎてしまった。


 いろいろなことを思い出しながら、その校舎を眺める。


 一番辛い出来事と、一番楽しい出来事があったのがこの高校だ。


 この高校で俺は卒業することができない。同級生が持っている卒業アルバムに、俺はいない。


 そう思うと、一気に胸が苦しくなった。


「あら?」


 ふと、母親が声を漏らす。母親はグラウンドのほうへ目をやっていた。


 俺もつられてそちらを見た。


「あ」


 そこには複数の人影があって、体育の授業でもしているのかと思ったが、制服を着ていたのでそれは違う。


「サボテーーーーン!!」


 ハッとして窓を開けた。


「じゃあなーーーー!!! あっちでも頑張れよーー!!」


 目をこらせば、そいつらはグランドに張られたネット越しに、こちらに手を振っていた。

 

「うおおおサボテン!! 愛してるぞーーーー!!」

「お前そんな仲良くなかっただろ」


 ボカ、と頭を叩き笑いが起きる。


 川を挟んだ向こう側で、クラスメイトが俺に向かって手を振っていた。


 ・・・・・・あいつら。


 たまたま見かけて走ってきた、にしては人数が多かった。というかクラス全員がいる。


 おいおい、わざわざ授業を抜けてきたのか?


 そう思ったが、後ろの方で一緒になって手を振っている担任の姿を見てそれは違うことに気付く。


 前のほうで、弓を引くようなポーズを取っている奴がいた。目が合う。


 健人はニッと口元を曲げて、弓で射貫くような動作をとった。


「蓮崎、お前なにやってんだ?」


 他のクラスメイトは健人の奇行に戸惑っているようだったが、俺にはわかった。


 あれは、魔法少女ふりふりピュアラの主人公、ピュアラが最終回で見せた必殺技の動きだ。


 あいつも大概、オタクだな・・・・・・。


「サボテンくーーん! ブラジルに行ってもつくしちゃんのこと忘れないでねー!!」


 健人の隣で、杉菜が叫ぶ。


 いや、ブラジルじゃないんだが。


 何故か杉菜は赤いハチマキを巻いていて、その姿は体育祭の時のことを思い出させられる。


 他にも最後のほうで仲良くなったたこ焼きマン(俺が勝手に命名した)や、ニワトリ族、それから島垣・・・・・・であってたか? そんなような名前の奴や、その取り巻きもいた。


 その奥の木には、一際目つきの悪い奴が、たった一人孤立しながら俺を睨んでいた。相変わらず、鋭い目つきだ。


 だがすぐに杉菜にちょっかいをかけられて、頬をつままれて無理矢理笑わされていた。


 何人もいた。大勢いた。


 こんなにも多くの人が集まり、そのすべてが今、俺を見ていた。俺に手を振っていた。俺との別れを惜しんでいた。


 わざわざ見送りなんて、もし俺がここを通らなかったらどうするつもりだったんだ。


 そんなクラスメイトを見ている間にも、車は進む。どんどん、日々を共に過ごした奴らの姿が小さくなっていく。


 その小さな影に、手を伸ばしかける。


「佐保山ーーーーーー!!!」


 そこで聞こえた、一際大きな声。


 見ると、ネット際を沿うように走る、黄色があった。


「楠木・・・・・・」


 そいつは息を切らしながら走って、後を追ってくる。


 両手には自分の店から持ってきたらしい花束が握られていて、その後ろには同じように花束を握らされていた鬼灯が嫌そうな顔をしていて走っていた。


「あ」


 言いたいことがある。


 あいつには、もっと言いたいことがある。


 よくもあのとき、俺を振ってくれたな。


 よくもあのとき、俺を騙してくれたな。


 放っておいてほしかったのに、よくも俺の手を引いてくれたな。


 そんな思いが交差して、ぐるぐるに絡み合う。


 声が出ない。


 走って追いかけてきてはいるが、徐々に楠木の姿も小さくなっていく。


 もう、見られないのか?


 俺はもう、花みたいに咲く、あの笑顔を見られないのか?


「・・・・・・ッ!」


 俺は窓から顔を出した。


 そうだ、そうだよ。


 それが現実だ。それが別れだ。


 なら、せめてさよならくらい言わせてくれ。


 口を開く。


 けど、言えない。


 事実を飲み込みたくない。


 言わなきゃなのに、なんで。


 やっぱり、俺は――。


「ありがとーーーーーー!!!」


 楠木が、両手に持っていた花を空に投げた。


「佐保山と過ごせて、すごくたのしかったよーーーー!! ありがとーーーーー!!!」


 遅れて後ろの鬼灯が花を投げるも、走った直後で照準が乱れたらしく、花はひらひらと楠木の頭に乗った。


 あはは、と笑い声が聞こえる。


「天」


 母親が前を向いたまま言う。


「止めようか?」

「いや・・・・・・・・・・・・いい」


 徐行する車。だが俺は、それを断った。


「いま止まったら、俺・・・・・・もらったもの、全部捨ててしまいそうで」


 きっと立ち止まってしまう。


「わかった」


 母親は頷いて、車を走らせた。


 どんどん小さくなっていく校舎。


 遠くなっていく思い出。


 朧気になっていく視界でそれらを見る。


「あんた、泣いてるの?」


 母親が心配そうにこちらを振り返る。


「え」


 自分の目に触れると、たしかに指先に水滴がついた。


 それと同時に、唇が震えていることに気付いた。


 網膜に焼き付いた、こちらに手を振るクラスメイト。


 鼓膜に染み付いた、クラスメイトの声。


 ――俺は、一体なんの為に生まれてきたのだろう。


 これまで地球上に何億と存在してきた人間と同じように生きて、同じように死ぬだけの、生ゴミに集る無数の羽虫と同列の存在。


 生まれて消えるを繰り返すその工程の中の一部。それだけだったのに。


 俺なんかが。


 それは何年も、何年も思ってきたこと。


 なんの取り柄もない、蛆虫のような俺なんかが、他者を見下して自分を正当化していた性根の腐った、俺なんかが・・・・・・。


 ――特別な存在だよ。


 両目を手で覆う。


 しかし、溢れ出す涙は止まってくれなかった。


 隙間から涙が流れる。頬を伝い、鼻の下に溜まる。顎を流れ、下に落ちていく。


 止まらなかった。


 辛いことがあった。


 心が捻じ切れてしまいそうな人の奔流が嫌いだった。


 けど、ほんのちょっとの後押しを受けて、俺は少しだけ勇気を出したんだ。


 苦しい思いをしてほしくなかった。


 俺と同じ目にあってほしくなかった。


 あいつにはいつも笑っていてほしかった。


 悪意はいつか、何倍もの善意になって返ってくる。


 それがいつかなんてわからないし、どういう形で返ってくるかなんて見当も付かない。


 だが、心の底から溢れるこれはきっと、俺があの学校で最後に残した、善意なのだろう。


 ――人と関わるのって、素晴らしいことなんですよ。


 涙で濡れた、自分の手のひらを見る。


「ああ、そうだな・・・・・・」


 誰かに支えられ、誰かを支えた手のひら。


 しわだらけで、傷だらけだけど、そんな手のひらを、俺は今ならほんの少しだけ、好きになれる気がした。


「・・・・・・じゃあな」


 俺に思い出ときっかけをくれたものに別れを告げる。


 この手のひらがこれから掴むのはもうそれではないのかもしれない。


 けど、この手のひらがなにかを掴めるようにしてくれたのはそいつだ。


 たとえこの先、この手がたくさんのものを掴もうと、何年、何十年経ったとしても。


 あの感触だけは、一生、死ぬまで褪せることはない。


 家先にあった花壇に咲く花を見る。


 真ん中にいる花は我先にと、周りで控えめに咲く花から栄養を搾り取りすくすくと成長している。


 そして合わせるように端に添えられた花には栄養が行き届かず、無惨にも枯れてしまっている。


 きっとその花は花壇なんかではなく、誰もいない路地の裏にでも咲いていたほうがよっぽど長生きできただろう。


 ・・・・・・けど。


 同情なんてしない。


 哀れになんて思わない。


 どれだけ不器用でも。


 たとえ自分を犠牲にして枯れてしまっても。


 花は花だ。


 その咲きようを、俺は。


 かっこいいとさえ思う。

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人嫌いでぼっちな俺に花屋のギャルが優しすぎる件 野水はた @hata_hata

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